徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

冬の”奈良 西の京”ぶらり・・・①-薬師寺ー

2014年01月29日 11時28分44秒 | 旅行・観光

昨年 11月、京都 粟田山荘でランチを食べてきましたが、今回は、奈良 西の京 薬師寺門前の”AMRIT(アムリット)”にランチを戴きに行きました。

”アムリット”とは、サンスクリット語で「不老長寿の薬」という意味だそうです。
料理は、パンフレットによれば、大和伝統野菜の他、奈良県産の食材、素材を活かしたイタリア伝統料理だそうです。

  

サンスクリット語については下記を参照してください。 
http://tobifudo.jp/newmon/okyo/sansuku.html

近鉄 西の京駅から、薬師寺、興楽門の受付で入場料を払い、ぶらぶらと”AMRIT”の予約時間までザーと伽藍を巡り南門まで見学しました。
但し、食事後再入場するため半券はなくさないようにします。

  
   興楽門                             中門から金堂を望む   

食事後、休ケ岡八幡宮や孫太郎稲荷神社を通り、再び薬師寺の南門から半券を見せて再入場しました。
なぜか分かりませんが、多くのお寺や神社の境内やその周りに、稲荷神社や八幡宮が祀ってあります。

 


薬師寺のホームページは下記で・・・・
http://www.nara-yakushiji.com/index.html
 

 薬師寺には、10年程前に訪れた時には、東西の塔が見られました。
が、今は平成21年(2009年)から解体修理中で覆屋に覆われています。
地下の発掘調査も行われており、完成は、平成31年(2019年)の春になるそうです。

 
  世界遺産の薬師寺                   解体修理中の東寺   

 
  大講堂を望む                     西塔は、昭和56年に453年ぶりに創建 
                                当初の白鳳様式で復興しました。      

 

その為か、はたまた冬、それも1月下旬という季節的な影響か分かりませんが、参詣者も少なく、閑散としていました。

ゆっくりと参拝、見学したければ、今でしょう・・・


映画 「武士の献立」 途中で中止のハプニング・・・

2014年01月26日 09時41分38秒 | 映画・社会

最近の映画館で、今でもこんなことが起こるのかという驚きの事態が発生しました

昨年に封切られていましたが、色々事情があって観賞が遅くなりました。
多くの封切り劇場でも段々と上映回数が少なくなってきており、今日は大阪ステーションシテイシネマに行ってきました。
今週から1日の上演回数は1回となっています。
その貴重な上映が、なんと今時上映中機械の不備なため、途中で上演中止となりました。

「武士の・・・」と言えば、2010年の「武士の家計簿」が思い出されます。
この時の話は江戸時代、加賀藩でしたが、今回の「武士の献立」も加賀藩での話です。

加賀藩の台所を切り盛りする「包丁侍」の家に嫁入りした娘と、料理が苦手な後継ぎが、苦戦しながらも絆を強めてゆく姿を描いているホームドラマです。

     

 

嫁入りした”春”(上戸彩)は、当時の加賀藩六代藩主・前田吉徳の側室・お貞の方(夏川結衣)に女中として仕えており、親とも慕っていました。

その後、加賀騒動が起こり、新藩主となった宗辰は、旧藩主が進めていた藩改革の中心人物の大槻伝蔵(緒形直人)などが一掃され、その後も藩政の混乱が続きました。

その後、藩主宗辰が急死し、それが毒殺とお貞の方に疑いがかかります。
お貞の方は、尼寺に蟄居されますが、婿の安信(高良健吾)の計らいで、春はお貞の方に再会します。

  
   料理方の舟木伝内(西田敏行)に見初められ、伝内の息子と再婚する”春”

 

ここで、映画は中断しました。
一度、再開したのですが、二度目の中断があり、機械の不調ということで、とうとう中止となりました。
フイルム時代と違って、サーバーのエラーとかが時たま発生するそうです。
従業員の方の恐縮の姿を見ると、怒る気にもなりませんでした。

途中での上映中止ということで、入場料の返金と無料招待券(4月末まで)を頂きましたが、同じ映画を電車賃を払ってまで、今のところ、見る気にもなれませんが・・・・
どうしょうかな・・・・・


どうなる、今年のタイガース ①ーキーマンは・・・-

2014年01月23日 12時06分56秒 | 野球・タイガース

一フアンとして、気になる今年のタイガースについて、あれこれ思いつくまま開幕まで、数回に分けて書いてみたいと思います。

まず、今年のキーマンについて・・・・
昨年、2位とはいえ、3位広島に追い込まれて、クライマックスシリーズで3位広島に敗れ、それも能見を登板させることなく敗れ去ったのには、後味の悪さが残り、非常に残念な思いをしました。

その残像が残っている今年のタイガースは一体どんな戦い方をするのでしょうか?
毎年、このような思いに慣れていると言えば、余りにも情けない・・・
今年こそはと、毎年、開幕を迎えるのですが・・・・

 
 昨年、関西での開幕試合 西岡のサヨナラ打 能見先発も7回まで、久保が勝利投手に・・・・

 

昨年は、4番不在で長打力不足、肝心のクリーンアップが定まらず、しかも勝負弱い。
肝心な時のバンド失敗が多い
代打、継投策の失敗。
後半は、大和の怪我欠場で2番が固定出来なかった。
若手が伸びず、ベテラン重視の采配となっていた。
その采配も一貫性がなく、強気なのか弱気なのか、肝心な時にブレた。

言い出せばキリがありません。
それも、同じことの繰り返しで、補強が満足に機能したとは言えません。

  
  今年のルーキー達、この中で救世主が出てくるか・・・・            

 

このような状態の中で、今年のキーマンは一体誰でしょうか・・・・
当然の事ながら、長打力のある4番打者が1番のキーマンと言えるでしょう。
でも、まだキャンプも始まっていないところでは、候補とされているゴメスの状態が分からず、判断が出来ません。

兎も角、誰かが、長打力を発揮して4番を固定化すれば良いのですが、不明のゴメス以外それに該当する打者がいないのが心配です。
現有打者では、マートンが最有力ですが・・・・
これでは、昨年と同じになってしまいます。

投手陣にも問題がありますが、僕なりに、敢えて今年のキーマンを上げろと言えば、和田監督と答えます。

今年3年目を迎え、言いわけが出来ません。
ベテラン重視の采配と言われていますが、若手の台頭がないというような言い訳は出来ません。

監督の采配によっては、試合に勢いを付け、流れを引き寄せ、次に繋がる試合展開となります。
それを期待したいのですが、昨年は、それが出来ず、疑問点を残しました。


今年は是非とも納得の出来る采配を期待したいと言うことで、監督をキーマンに上げました。
4番次第と言うのでは、少々情けない思いをします。


江戸時代の庶民の生活 上方編 ⑩ -キタとミナミー

2014年01月17日 09時08分33秒 | 江戸時代とは・・・・・

前回、大坂三郷は、江戸時代の大坂城下における3つの総称で、北組、南組、天満組から成っていると書きました。

大坂の町は本町通りを境に北組と南組に分けられその後北組から大川右岸が天満組として分離し、これが大坂三郷の町組として、町人町の行政組織が確立しました。


大阪市によると、現在は、公式文書等で使われてはいるのですが、定義はあいまいで「繁華街として大まかな場所を指す程度」とのことです。

しかし、語源は、江戸時代に遡り、当時、住居や商店が集まる中心街は船場でした。
当時のキタは、森や畑が広がる村でミナミは、寺や墓場等が目立つ土地だったと言われています。

  

江戸幕府によって、町づくりのために人為的に作られた地域というのが通説となっています。
ミナミの発祥は、芝居小屋が幕府の許可を得て道頓堀に置かれ、茶屋などが周辺に出来て繁華街らしくなったようです。
ミナミは、南地と呼ばれ、元は宗右衛門町あたりが中心で、現在のアメリカ村は含まれませんでした。

  
   ミナミ 戎橋あたり                    キタ新地の夜景          


キタは、中之島の蔵屋敷で米取引をした後、商人の接待する町として作られたのが「キタの新地」として栄えました。
キタも町の発展と共に、梅田や大阪駅を含むようになりました。

では、ヒガシやニシはどうでしょうか?
船場を起点とすると、ヒガシは大阪城があり、ニシは大阪湾で、繁華街などの生まれる余地はなかったといわれています。

では、なぜカタカナ表示となったのでしょうか?
明治時代の新聞や雑誌で「きた」「みなみ」とルビが振られ、後にひらがなだけであらわされるようになり、さらにカタカナに転じたと見られるようです。


江戸時代の庶民の生活 上方編 ⑨ -町民の街 -

2014年01月13日 09時56分44秒 | 江戸時代とは・・・・・

江戸時代の大坂を治めていたのは、武士ではなく、町民の自治組織だったようです

普通、武士階級は全体の7%ぐらいと言われていますが、大坂の町には、それ以下だったと言われています。
幕府直轄と言っても、大阪城には、何年間で代わる城代がいますが、権限はほとんどなく、城勤めの武士も少なく、蔵屋敷があるため各藩に務めている武士がいる位だったのではないでしょうか?

その他に大坂町奉行所を、江戸幕府の遠国奉行の一つとして大坂に設置されています。
東西の奉行所が設置され、江戸町奉行と同様に東西1ヶ月ごとの月番制。
老中支配下で大坂三郷及び摂津、河内国の支配を目的とされました。

        

大坂三郷の街の行政を担当したのが、町人の中から選ばれた三郷総年寄とその下に属する町役人であった。
そうなると、町を治めるのは、必然的に町人が権力を持って来ます。

大坂三郷とは、大阪城下における北組、南組、天満組の3組からなっている町組の総称で、現代のキタ、ミナミと呼ばれているのは、ここから出たと思われます。

       

大坂は全国各地から集まる商品の最も重要な積み替え地でした。
また、巨大な米蔵があり、全国から米が集まり、大名たちは、米を金に換えました。
その管理、維持を大坂商人が行い、彼らには地域を超えた米取引に対する特別の認可が与えられていました。

米の他にも海産物、野菜、果物、大豆、乾物、油、塩、藁、紙に至るまで、その価格は大坂で決められたそうです。
その価格が、全国の標準価格となり、江戸時代の大名の財政を左右しました。
大坂の商業資本は、無担保の「大名貸し」で多額の利益を得ていました。

 


そして、平安神宮から八坂神社と祇園へ”ぶらり”・・・・

2014年01月09日 19時43分51秒 | 旅行・観光

平安神宮を後にして、昼食を食べようと、三条通りに出るべく神宮通りを南に歩きました。
”みやこめっせ”という看板が目に入り、何があるのか入りました。
そこは、京都市勧業館で、京都伝統産業ふれあい館など併設しているようで、レストランもあり、まず食事をすることにしました。

 改めて、平安神宮の動画を・・・・


食事後、周りをキョロキョロしながら、東山三条から八坂神社を目指しました。
円山公園の、あの”しだれ桜”は、寂しげに枝を垂れていました。

  
    円山公園の冬の”しだれ桜”                   美御前社          

 

”祇園さん(八坂神社)”も7日と言うこともあってか、お正月は喧噪だろうと想像すると益々寂しく感じます。
が、美御前社(うつくしごぜんしゃ)は、祇園の湧水(社の側にあります)を呑んで参拝すると美人になるとかで、他よりは人出がありました。

  
    八坂神社                          八坂神社 石段下

八坂神社 石段下を四条通りに出て、祇園界隈歩いていると、多くのカメラマンがたむろしていました。
最初は、カメラ同好会の集まりかと思っていたのですが、そこだけではなく、あちこちのお茶屋の前にもカメラを構えた人を見受けられました。

後で知ったのですが、この日は、芸舞妓の仕事始めにあたる「始業式」だったとか・・・・
カメラマンは、この祇園界隈に黒紋つきの正装した舞子さんを待ち受けていたようです。

 

四条通りを西に向かい、南座を左に見て鴨川を渡り、高瀬川を覘いて、最終目的地である四条河原町に到着しました。

地図も持たずに、ただ”ぶらり”として、京都の年の初めの雰囲気を楽しんできました。

 


今年は、平安神宮に・・・・・

2014年01月08日 18時28分06秒 | 旅行・観光

毎年、近隣神社やお寺以外の初詣として京都・奈良等の神社仏閣にお参りしておりますが、今年は、京都・平安神宮にお参りしてきました。

平安神宮の近くや側を通ることは良くあったのですが、お参りに行くのは何年ぶりだったのでしょうか?
7日と言うこともあって、お正月3が日と違って、お参りする人も少なく、広い境内の人影もまばらで、少々さびしい感じがします。
多くの”おみくじ”が掲げてあるのが目立って余計に寂しさが増しています。

  

平安神宮は、1895年(明治28年)4月1日、平安遷都1100年を記念して開催された内国勧業博覧会の目玉として、当時の平安京遷都 当時の大内裏の1部復元が計画され、実物の8分の5の規模で復元されたものです。
但し、実際にあった場所 千本丸田町の用地買収が出来ず、当時は郊外であった岡崎に建てられたようです。

主祭神は、平安遷都を行った桓武天皇と平安京最後の天皇 孝明天皇です。

  

日本庭園のある「平安神宮神苑」には、季節の草木が沢山あるのですが、さすがこの時期には、寒ツバキが寂しげに咲いているだけです。

  

  

  

お陰で、2組ほどのアベックのみで、ほとんど貸切状態でした。


明日は、「人日の節供」・・・七草節供

2014年01月06日 13時32分10秒 | 今日は、何の日

昨日、1月5日は、二十四節気の一つ”小寒”でした。
2月3日の節分の前日までを”寒の内”といって、1年でも寒さの厳しい時期なのです。

その中でも、1月20日の”大寒”は、最も寒さが厳しいとされています。

明日7日は、”人日の節供”(5節供の一つ)。
七草粥を食べることから”七草の節供”と言われ、”人日の節供”よりこちらの方がよく知られています。

古来 中国では、正月の1日を「鶏の日」、2日を「狗(犬)の日」、3日を「猪(豚)の日」、4日を「羊の日」、5日を「牛の日」、6日を「馬の日」として、それぞれの日には、その動物を殺さないようにしていました

そして、7日目は人の日(人日)として犯罪者に対する刑罰は行わないことにしていました。
この日には、7種類の野草(7草)を入れた”あつもの”を食べる習慣があり、これが日本に伝わってきました。

 
     一昨年に訪れた金沢 ”兼六園”   F10号    

 

日本でも粥にして食べるようになったのは室町時代以降で、江戸時代になって定着したようです。
江戸幕府の公式行事の五節句の一つで将軍以下全ての武士が七草粥を食べて人日の節供を祝いました。

この「人日の日」は、過去一年の厄祓いとこれからの1年の無病息災と招福を祈願する日とされていました。
七草粥は、万病除けと邪気祓いに良いとされています。

ちなみに五節句とは、1月7日の「人日の節供」、3月3日の「上巳の節供」、7月7日の「七夕(しちせき)の節供」、9月9日の「重陽の節句」です。

なお、1月11日は「鏡開き」です。


”初詣”は日本独特の文化なのでしょうか?

2014年01月04日 14時59分47秒 | 独り言・社会・ニュース

今年の正月も三が日が過ぎました。
今年のお正月は、僕にとって賑やかなお正月となりました。
やはり、お正月は、親族が集まり、ワイワイして、今年も楽しくやってゆこうという新しい気持ちになります。
まして、”初詣”を家族揃って行けることの幸せを噛みしめ、今年も全員が健康で過ごせることを祈らざるを得ません。

”初詣”は、この1年の平安無事を祈願するため、新年を迎えて最初に神社や寺院に参拝することです。

  
  今年も例年通り、広田神社にお参りしてきました。

 

元々は、「初籠り」という風習で大晦日から元旦にかけて祈願するために社に籠るというものでしたが、やがて、大晦日の”除夜詣で”と元日の”元日詣で”の二つに分かれていたのですが、それが初詣の原形になったと言われています。

除夜に参拝して、一旦帰り、新年を迎えた後にもう一度参拝へ訪れることを「二年参り」といいます。
江戸時代では、基本的に氏神さまや恵方神社へ詣でるものとされていましたが明治時代以降は、恵方など関係なく有名な寺社へ参拝するよう変わっていったようです。

  

さて、このような初詣というものは、日本だけなのでしょうか?
キリスト教圏では、12月24日から1月6日までを公現祭がありますが、その間にミサに行く以外、特に大晦日から元日にかけて宗教的な行事はありません。

中国文化圏には、初詣はあることはあるのですが、仏教寺院での参拝で、多くは、自分の先祖に対する霊に対してお参りするのが主だそうです。 
但し、旧正月の祝い方は半端じゃありません。 
春節といって、故郷に帰って、長い休暇を楽しむと言う風習があり、そこで初詣するのかどうかは、調べが出来ていませんので分かりませんが・・・・

韓国には初詣で拝むという風習はなく、初日の出を拝むと言うのではなく、鑑賞するという程度の風習だそうです。

先祖の霊だけではなく、多くの亡くなった人の霊にお参りして拝むと同時に、お守りやおみくじ、破魔矢を買ったりして、絵馬に願い事をしたりして、その1年の平安無事を祈願することは、どうやら日本独特の神道による行事が基本であるようです。

上記、初詣の内容について、不明な点が多々ありますので、後日再調査をします。