Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

カーチュン・ウォン/日本フィル

2024年05月11日 | 音楽
 カーチュン・ウォンが日本フィルを振ってマーラーの交響曲第9番を演奏した。それは予想もできない演奏だった。第1楽章は音の断片が飛び交うマーラーの音楽の、その断片が鋭角的に発音される。ニュアンスが際立ち、パッチワーク風とも、コラージュ風ともいえるが、その言葉には収まりきらない、全体が崩壊の寸前でとどまっている感覚があった。わたしは現代音楽が好きなのだが、まるで現代音楽を聴くようだった。

 第2楽章はのどかなレントラーやワルツといった舞曲よりも、軋み(きしみ)とか、歪み(ゆがみ)とか、何かそんなものを感じさせた。主体(マーラー)と客体(舞曲)とのかい離といったらいいか。素直には喜べない感覚があった。

 第3楽章は闘争的な音楽だが、その音楽と演奏の間に齟齬がなかった。全4楽章の中でもっとも普通に聴くことができた。終盤に入ってシンバルの一撃の後に平穏な音楽に移行するが、そのときのトランペット首席奏者のオッタビアーノ・クリストーフォリの明るく澄んだ音が、すべての苦しみを浄化するようだった。

 第3楽章が終わったところで、カーチュン・ウォンはいったん指揮台から降りた。気を静めるように長い間を置き、第4楽章は指揮棒なしで振り始めた。そのとき弦楽器から出てきた音の熱量の高さに圧倒された。前3楽章とは明らかに異なる音だ。カーチュン・ウォンの中では、第1楽章~第3楽章が一つのまとまりとなり、第4楽章はそれと対峙する、もう一つの独立した音楽になっているようだった。

 第4楽章で展開された音楽は筆舌に尽くしがたいものがある。リミッターが振りきれるという形容があるが、それを超えて、スケールの点でも、(繰り返しになるが)音に込められた熱量の点でも、普段の日本フィルとは次元が異なる演奏だった。

 周知のように、カーチュン・ウォンと日本フィルは昨年10月にマーラーの交響曲第3番で名演を繰り広げた。私見では、その演奏の特徴は、バランスのとれた構成ときめ細かいアンサンブルにあった。だが第9番の演奏は、第3番の成果に安住せずに、そこからさらに飛躍しようとするチャレンジングなものだった。カーチュン・ウォンの計り知れないパワーを手加減せずに日本フィルにぶつけ、日本フィルの表現力の向上を目指す。いわばカーチュン・ウォンと日本フィルの真剣勝負のような感があった。わたしたち聴衆はその真剣勝負に固唾をのんだ。

 個別の奏者では、ホルンの首席奏者の信末碩才が全楽章にわたって安定した演奏を聴かせた。優れた奏者は、指揮者が優れていればいるほど、実力を発揮するようだ。
(2024.5.10.サントリーホール)

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