サンパウロの庶民的生活

わたしの半径1メートル以内で考えたことや感じたことをつづってみようと思います。

わたし待~つわ、いつまでも待~つわ♪in Brazil

2019-07-31 00:44:41 | Weblog

 「5分前行動」や時には「営業先には20分前に到着し、建物周辺で心身をリラックスさせてから商談へ」etc...日本の美徳とでも言えそうな約束時間を守るという習慣。しかし、日本列島を後にしてしまえば、そんなルールとは異なる世界がスタンダードである場合もある。ブラジルも然り。

 時間に関して、良くも悪くも決められた時間を守るという事が絶対ではない場面によく出くわすブラジル。特にパーティーの開始時間は記された時間よりも2時間くらい遅れるのはマナーとでも言えそうなくらい。それなら何で最初から2時間後の時間を記してくれなかったのだろうと思ってしまうのは日本人。ただし、サッカー王国だけに、サッカーの開始時間、子供のサッカー教室の授業開始時間なんかも案外ぴたっと始まったりする。それと、仕事を早く終え、自分時間がほしいブラジル公務員の世界も、融通が効かなさすぎるくらい、事務的にぴったりと始業を開始し、終業する。そして、市民の要求はなかなか受け入れられず先延ばしという、ご都合主義に基づくかのような時間のルーズさが前面に垣間見える時も多々あり。しかし、そんなことは今さら驚く事でもない。市民の口からも執拗に悪意に満ちた悪口がささやかれる事もなく、同じ状況でストレスフルになる日本育ちの日本人とはブラジル人は耐性構造も違い免疫がついている。

  ところで、サンパウロでは、ブラジル在住の日本人駐在員及び日本語を読める人々を対象にした日本語ブラジル情報フリーペーパー「ピンドラーマ」が毎月発行されている。

 僭越ながら同誌で2009年より世界約50カ国の「移民レポート」を担当させていただく機会に預かった。そして、昨年からはその延長線上ともいえる世界各国からの「難民レポート」を担当させてもらっている。

 滅多に海外へ脱出できる機会はないものの、ブラジルという特殊な歴史や文化を有する土地柄、取材を通じて「サンパウロで世界を旅する」この10年以上が続き、実に刺激的な出会いにも恵まれてきた。ブラジルは米国同様、移民とその子孫で発展してきた国である。各国からの移民史も残されていることがしばしば。移民、難民レポートに当たって、海外からの移民一世や二世の方々と直接約束を取り付けて会ってきたが、どこの国だって個人差はあると思うが、それを差し引いてもどうやら各国由来の特質ではないかと思う時間の感覚や、はたまたブラジルとマッチングしてこの時間のルーズさ、余裕さとなっているのだろうかと、振り回されてきたこと数知れず。おそらく、色んな世界からの文化が混とんとしながら、ほど良い文化が今も形成中と信じたいのがブラジルである。

 話は戻って海外出身者との「約束時間」についてふと独断的に検証してみようと思った。過去を振り返り、ブラジルで印象的だった色んな国の人との会う約束で、まずはお相手のフレキシブル過ぎる時間感覚の思い出を「勝手にランキング」してみることに。反対に時間や約束に細かい、もしかすると日本人以上!?と思わされた記憶も付記してみることに。

 結論から言うと、「約束時間を守り、それに縛られることだけが吉と出るとは限らない」ということがブラジル生活で学習させられた事である。確かに日本のように全てが約束通りに進行して行くのは快適な面もある。しかし、そこには1+1=2以上のものが期待しにくいということもある。先進国と言われる国に多いのではないだろうか。時間に縛られない文化圏の人々との関わりの中には、1+1=2+αのおいしい果実が神様のお恵みでひょっこり落ちてくることがあることも計り知れない。そんな国がブラジルでもあり、その文化の源流を追求すると、アラブ文化に由来するのではないかと最近交流しているアラブ人アミーゴたちの空気感から勝手に感じている今日この頃である。

 ポルトガル人ペドロ・アルバレス・カブラルによるブラジル発見から500余年の歴史の中で、実は今日アラブ人と称される人々と同じ出身地の人々が、ポルトガル人指揮官の下で大航海時代のカラベラ船に乗って日本移民よりももっと古くからブラジルに渡ってきた史実もある。アラブ文化がブラジル庶民層の文化に影響を与えてきたとしても不思議ではない。ブラジルの植民地時代から広がっていったアラブ文化、そして有名なサンバの源流でもあるアフリカ文化、それにインディオの時間概念などがマッチングして今日のブラジル時間になったのではないだろうか...と夢想しながら約束時間に翻弄される心の危機をなんとか回避している自分がいる。

 

●独断的!!出身国別、会う約束時間に待ちぼうけしたランキング上位

1位 アンゴラ

 約束した時間もさることながら、当日、結局2時間待ってもお相手は現れず。電話を入れると、「今日はダメ」とのこと。「もっと早く言ってよ~~」とは言うこともできず。後日、2回にわたって約束を取り付けて待ったものの、現れないだけでなく、電話連絡もつかず。最終的に他の学生のアンゴラ人と約束したところ、1時間近く待つ事にはなったものの、ようやくブラジル人彼女同伴で会うことができ、気前よく色んなお話を聞かせてくれた。ジュースまでご馳走してくれた。ありがとう!

 ちなみに今住んでいるアパートで清掃作業員として働いているアンゴラ難民の男性は、真面目で通勤も時間通り。アンゴラとは実際にはどんな国か今だ知る由はないが、素敵な児童文学が存在し、ブラジルでも販売されている。その名も「カリンバ」という鳥の名前がタイトル。内容もイラストもアフリカ文化の一端を知るために日本語に翻訳されてもいいんじゃないかという素敵な出合いの一冊だった。

 2位 シリア

 ブラジルへのシリア、レバノンを中心とする中東からの公式移民の歴史は19世紀後半に始まる。しかし、先述したようにカブラルの時代から船員には航海術にたけていたアラブ人が少なくなかった。そして植民地時代からオマーンの首都マスカットから出港したアラブ人が「マスカッチ」と呼ばれてブラジル全土を行商して回った歴史がある。

 現在は2011年から未だ先の見えないシリア内戦の影響で、難民認定されたシリア人が約3000人、その家族を含めると現在は10000人前後のシリア人が生活しているとも言われる。

 数度の取材協力で会う機会のあったシリア難民の青年。最大2時間半を待ちぼうけすることに。その日、最初の約束の午後6時半には一度Whatsappで「今そちらに向かっている」との一報が。メッセージで連絡したにもかかわらずお互いが思っていた待ち合わせ場所と異なっていたこともあり、その1時間後にようやく落ち合う。しかし、近くで人との交渉事で問題が発生したということで、話し合いをしてくるので「ほんの少し待って。すぐ戻る」とのこと。それから待てど暮らせどなかなか来ず、1時間以上が過ぎ、「ほんとに今日は会って話を聞けますか?」と催促の電話を入れると、今、向かっているとのこと。そうして、トータル2時間半を待ち、午後9時に。まずはお腹がすいたということで夕食を食べ、結局こちらは早朝から出かけっぱなしの足で向かったのでかなり疲れており、何の話がしたかったのかも忘れてしまう事態に。

 しかし、彼には会うだけの人間的魅力と豊富な話題が常にある。今は難民に関わるNGOの副代表として、6年前から始まった難民ワールドカップのブラジル全体のコーディネーターであり、行政との交渉やテレビ出演、講演活動など、文字通り身一つで幅広く活躍している。戦火を逃れてポルトガル語もブラジルのことも知らないままゼロからブラジル生活をスタートさせ、人好きの雰囲気と行動力で人のために尽くして本当によく働く。こちらが求めた以上に色々な事に惜しみなく協力してくれるので、他に替えがたい人物でもある。それを知ってしまったので「わたし待~つわ♪」の心境になってしまい。  

 シリア人ののんびり時間は上述の彼だけではない。他のシリア難民で飲食業を営む男性。彼の料理はサンパウロには数多いアラブ料理店の味とは一線を画する。これまた「口にオアシス」を発生させてくれるおいしい魅力にあふれている。彼は数回、夕食会に招待してくれた。時間の指定は特になかった。こちらは日暮れの午後6時に友人達と向かった。「ようこそ!」と快く迎えてくれた彼。それから待つこと3時間。まだ料理はテーブルに並びきらない。そうして午後9時頃を過ぎると、続々とブラジル人の招待客がやってきた。そう、ブラジル人は皆常識的に知っていたのだ。週末の夕食会は午後9時以降が当然だと。

 午後9時半ごろからようやく夕食にありつけ、おいしい楽しいひと時となるものの、終メトロのこともあり、11時過ぎには惜しみつつ会場を後にすることに。数回の夕食会のお誘いはどれもこの調子で、結局おいしいアイスクリームのデザートだけは今だありつけていない。そう、深夜0時頃から夕食のデザートとなっているのだ。そんなシリア人シェフだが、いつも色んな料理を紹介してくれて家族へのお土産まで持たせてくれる。胃袋をつかまれたら、「一体いつ食べられるんだろう」が口をついて出ていた3時間待ちのことなんてあっという間に忘れて、やっぱり「わたし待~つわ♪」となってしまうのだ。

 もう一つの彼らとの約束時間の特徴は、連絡を入れたその日や明日になることも珍しくないということ。これは、シリア移民二世の年配男性を取材した時にもそうだった。こちらは心の余裕を持たせるためにせめて1週間後くらいが最適と思っていても、一週間後のことなんて確かな約束はできないのが彼らの本音。内戦、紛争が旧約聖書の時代から当り前、現在も同じような道をたどる中東ゆかりの人々にとって、明日のことは分からないというのは体感的に知っている事実なのかもしれない。だから時間があれば今日、明日と来るわけだ。日本企業が苦手と批判されている即断即決ではないか。今日、明日の時間指定に乗らなければ、大きな魚を逃してしまいそうで、ようやく乗れるようになったのもこの数年の話。まるで恋人に翻弄される彼女の様だけれど、プライベートに踏み込んでお話を聞かせてもらうにはやはり相手に合わせるのも礼儀かと。そう、あなたのハビービ(アラビア語で愛しい人の意味。友人にも使われる)となって。

 ブラジルでもよく使われる、「明日のことは分からない」。その源流はアラブにありそうと思いつつ、一般的に深みはやはり常に戦争の中で生きてきた中東出身の人たちの方に軍配が上がるかなと感じるのは気のせいだろうか。

 余談だが、同じアラブ圏由来と言えば、サンパウロ市内にあるエジプトのコプト教会。彼らの復活祭の夕食は深夜0時から始まると誘われたが、当時0歳の末っ子を抱えていた身ではとても参加はできなかった。

 さらに、イスラム教徒は断食の月には、日が暮れてからご馳走を食べるので、夜食が普通。この夕食が遅く、「月の砂漠」よろしく夜が日常生活で、友情も愛情も育むのはさながら夜と言ったとこなのか...。こちらの都合に合わせて断食中にナルギーレ(水タバコ)の取材をお願いしたシリア人青年は、タバコを吸ってもいいのは日没後ということで、取材開始は午後9時から、終わったのは深夜0時ごろ。最後は彼のご家族にアラビア語会話で何を言われているのか分からないまま帰路の途へ。

 ユーラシアの両端にあるアラブと「日出ずる国」の日本とは、文化も対極にあるとも言えそうで、だからこそ惹かれあうものがあるのかも。そしてアラブの時間概念の幅広さはもしかするとブラジルの上をいくようにも思えたり。月夜の下で時間を忘れて優雅なひと時を過ごす。なんてロマンチック...でも、彼らはポルトガル語でMourejar(モーロ人[アラブ人]の様に休みなく一生懸命働くという意味)という言葉があるように本当に現実的によく働く人々である。

 3位 マデイラ島(ポルトガル)

 沖縄ものんびりした時間が流れる事で有名だが、個人的に訪れたことのある韓国との国境の島・対馬もブラジルを思わせるのんびり感があってなんとも居心地良く懐かしい気にさせられた。もしかすると島というのは世界中どこでもそんな空気が流れているのかもしれない。

 マデイラ島はポルトガル領であり、ブラジルの歴史では重要な島で、実はマデイラ島抜きにブラジル史を語ることはできない要所である。そのサンパウロのマデイラ島協会で教育活動に従事するマデイラ島からの移民の娘さんとして育った女性と待ち合わせた時のこと。

 午前9時の約束が、こちらも1時間待っても現れず、何かトラブルがあったとのことで、今から向かうということ。せっかく1時間も待ったし、いつも簡単に来られるような場所でもなかったため、来ると言われれば引き下がるよりは待つのが得策。そうして約束の時間から2時間後、出会えた彼女の笑顔はとてもチャーミング。同じマデイラ島移民の子供というご主人も一緒に来てくれた。11時から始まった会話が興味深く、彼女が毎年マデイラ島で出席している同島政府が取り組むNona ilha projeto(9番目の島プロジェクト)のことをはじめ、あれやこれやのお話をしてくれた。ブラジルオリジナルと思いがちなサトウキビの蒸留酒カシャッサで作るカクテルのカイピリンニャの原点も、所変わってハワイのウクレレなどもマデイラ島にルーツがあるとか。世界不思議再発見ともいえそうな、千載一遇のチャンスが目の前にあるという思いに駆られ、作る予定だった子供の昼食もなんとか主人にお任せ。ありがとう、オットさま!!

 そうして話が弾み午後2時頃となり、マデイラ島の移民が始めたという人気のパン屋兼レストランがあるということで、そちらに向かって一緒に昼食。そこでも地元名物の10分で食べたら無料になる巨大なコッシーニャ(ブラジルでポピュラーな軽食)やらマデイラ島民が移民してきた時の船やら興味深い風景が目白押しだった。

 

 これでいよいよ帰る時かと思ったら、忘年会のニ次会から三次会のノリのように、サンパウロで一番おいしいマデイラ島移民が創業者のポルトガル菓子屋さんも近所にあるということで、さらにはしごすることに。とてもチャーミングな80代の女主人と娘さんの作るお菓子は確かにおいしかった。そして、そこには後に取材することになったブラジル人アーティストが女主人を描いた壁画パネルにも出合え、待てば待つほど味がある、何とも実りの多い時間を提供していただいた。食事は彼女が招待したからと説得されてご馳走になり、待たされたことなんてどうだっていいほどハッピーな一日に。

 4位 モザンビーク

 ブラジルやアンゴラと同じく、旧宗主国はポルトガル。時間の感覚はやはり共通するものなのか。約束時間になって20分たっても現れなかったので、電話を入れると今はメトロにいると。そうして約束の時間から1時間後にようやく会えることになった彼は大学院で勉強中の人だった。話していても温和で賢そうな感じが伝わってくる。その場では簡単なプロフィールなどを自己紹介してもらい、それ以上の深い話はすべてメールで回答を寄せてもらうことになった。そうして、数週間後にいただいた回答メールは日本人には知られざるモザンビークの掘り下げた興味深々な話題が詰まっていた。中でも、彼は身内が助からなかった事もあり、そのショックから現代の西洋医学一辺倒な医療現場に疑問を呈し、モザンビークの伝統医療を見直す研究を行っていた。ポルトガルで自著も出版している。アフリカではマラリアも民間療法で治して来たとのこと。21世紀は現代の先進国と言われてきた国々だけじゃない時代が来るような、そんな未知の世界のワクワク感に包まれたものだった。

 彼はその後すぐにモザンビークに帰国し、レポートが掲載されたフリーペーパーは、ブラジルからはモザンビークに郵便物が送れないということで、ブラジルに暮らしていた仲間のモザンビーク人の帰国時に届けてもらい、無事に受け取ったとの連絡もメールで頂いた。また会いたい人の一人である。

 

5位 イタリア

 移民レポートで取材の約束をしたイタリア移民の子孫。約束場所へ行くと、ドタキャン発生!!ブラジルよろしくラテン系らしく、こんなものかなとあまり腹立つこともなかった。

 

6位 グアラニ村

 ブラジルがポルトガルの植民地になる前からサンパウロ州沿岸部で生活してきたインディオの部族がグアラニ族だ。サンパウロ市内にも今もその集落が3か所存在する。最も驚くことは、彼らはポルトガル語が身近な社会にありながら、今もトゥピー語を集落の公用語としている事だ。人々があいさつを交わす時は、「ジャウージ(彼らの言語でこんにちはの意味)」。街の都市化が進み、移民の子孫のブラジル人で人口が拡大してゆく中、自然と共生してきたグアラニ族は町の端へ端へと追いやられてきたのは明らかだが、ポルトガル支配前から暮らしていたことへの敬意からか、ブラジル政府は今も彼らの生活の自由を認めているともいえそうな様相だ。

 そんなグアラニ族の集落の一つがテノンデポランという集落。サンパウロ市の中心街からは車で普通に向かっても2時間くらいはかかるサンパウロ市内とは思えない自然豊かな土地だ。取材することをお願いするためにサイトに記載されていた番号に電話をしても一向に通じない。結局、約束も何も、いきなり行って「インディオはカシッケ(酋長)の一声」と聞いていたこともあり、カシッケにどこで出会えるかを手当たり次第に人に尋ねる。そうしたら、その日は隣の集落に行っていて不在とのこと。とりあえず、カシッケの名前と携帯番号をもらい、改めて出直すことに。そうして数週間後に出会えたカシッケは、ポルトガル語とトゥピー語の名前を持ち、日本人といるような気持ちにさせられるような親しみやすい雰囲気の人で、様々な質問にも快く応じてくれた。そして、温かい季節だけは村でいくつかのイベントも開催しているということで、その後もめぼしい日には取材に関係なく訪れたこと度々。今となっては良い思い出で、土を掘って炭火を起こし、肉の塊や魚をぼんぼんぼんと盛ったワイルドなシュラスコ(バーベキュー)には驚嘆させられた。集落には門も囲いもないとはいえ、それをどこの誰か分からない日本人家族にも食べさせてくれる寛大さ。パーティーには招待した人の家族とその友人とその友人...と、誰が来ていても分からないようなウェルカム感はブラジル人パーティーのおおらかさであり良い所でもあるが、その源流はインディオにあるのかもしれないと一人納得したことも。

 

 以上、独断的サンパウロで見た今も思い出せる「約束時間に待ちぼうけしたランキング上位」。

 さて、ブラジルの時間感覚のルーズさに慣れてきたところで、久しぶりに「日本人は時間を守らないと思われたら大変だ!」と緊張感を強いられる外国出身の人々にも移民レポートで出会ってきた。同じブラジルにいながら、日本式の時間感覚で付き合った方が良さそうだと思わされたのは、ざっとふり返ってイギリス、ドイツ、セルビア、ロシア、コンゴ民主共和国、スウェーデン、フィンランドなど。

 特に約束したイギリス人は5分前でも5分遅れでもダメな感じで、定刻通りに事務室からお呼びがかかった。ドイツ人はいると言われた場所に時間通りに行くとちゃんといてくれた。セルビアやロシアの人々は日本人感覚でちょうどよい感じだった。アンゴラの隣のコンゴ民主共和国は、アンゴラの隣のアフリカだしまた待たされるだろうと覚悟していたらその真逆。先に相手の方が待っていてくれ、こちらがやや遅れてしまうことに。ちなみにコンゴ民主共和国(旧ザイール)の宗主国はベルギー。旧宗主国の違いからアフリカで元は同じ民族だったとしても異なる国民性が形成されてきたのだろうか?

 スウェーデン人にはブラジルのスウェーデン人移民史の本をコピーを取るために拝借したが、あまり時間がたたないうちに海外に出張に行くのでその前に本を返してほしいとの連絡が。緊張して返却しに行った時には当人はおらず、秘書に渡せてほっと胸をなでおろしたものだった。

 そんな感じで、時間感覚が幅広過ぎる人たちと、定刻通りが好みの人たちとの狭間で振り回され続けたサンパウロでの世界各国の人々との約束。一体、自分はどの時間軸に照準を合わせていいのか、自分は何者なのか見失いそうになったこともしばしば。でも、ブラジルなので基本はブラジル式がいいのだろう。そんな中で心に響いてくるのはポルトガル語のヴァー・コン・デウス(神の御加護がありますように)、そしてアラビア語のインシャ・アッラー(神様がお望みならば)。こんな言葉こそ、グローバル社会に身を置かざるを得ない現代人を励ましてくれるのではないだろうか。