大人になってから何十年暮らして何十年使用しても、ポルトガル語を心で捉えていない事に気づいた瞬間(映像にポルトガル語字幕を付けるに当たって)。
日本語しか心身のベースに身についていないため、要はポルトガル語は頭でいつも捉えているという事。。それで癒されにくくかえって疲労する。
二人の日系ブラジル人二世が日本語をポルトガル語に翻訳した。かなり翻訳の内容が違っているのは分かるけど、どっちも一世の私から見ると理解できるポルトガル語だった。でも、最終的にブラジル人のためにどちらを採用するのが良いか、ポルトガル語で物事をとらえていない者からするとあまり分からない。頭でいつもポルトガル語を理解しているだけだから、分かればよいという感じで、こだわりもわかない。
特に形而上学というのか、心の話になると、どのように表現するのかは口出しできる余地もなく、ただただ自分は全て日本語と日本語の世界に心はいつも落ち着いているという事だけが明らかに。。ブラジル人のためには日本語の分かるブラジル人に翻訳してもらうのがいいのだろう。
阿蘇ですら、阿蘇山とするのか阿蘇地方にするのか、ブラジルの人に伝えるのはどちらが良いのか見当がつかず、翻訳者の意向は映像から察して阿蘇山が分かりやすいということに。