サンパウロの庶民的生活

わたしの半径1メートル以内で考えたことや感じたことをつづってみようと思います。

ヤシ若芽の断面美

2013-03-30 10:05:46 | Weblog

 人工美だって結局のところ自然美が原点かもしれない。と、そんなことを考えさせられるパウミット(ヤシの若い芽)の断面。

 

 サンパウロでは今パウミットが旬らしい。

 


隠す文化

2013-03-27 02:13:05 | Weblog

 自分が日本文化を知らない、と異文化の中だからこそ否応なく思い知らされるのだけれど、日本文化(習慣)で教えられたものを一つ挙げるとすれば、多分、隠す・・・例えを挙げるなら、あからさまに私を出さないことにあると思う。

 そんなことを思うと、日本文化(=私)を世界に発信しようなんていう企画があるとしたら、確かに言わなければ分かってもらえないこともあるだろうけれど、発信しようといういう発想は既に日本的ではないという矛盾にぶちあたる。

 こそこそやっている段階がもっとも象徴的な文化力を秘めているのかも。


日本語教育~教育に独り言

2013-03-21 06:16:15 | Weblog

 日系人の歴史は100年以上あるだけに、ブラジルにおける日本語とポルトガル語というずいぶんかけ離れた言語の習得に関する問題は、特に日系社会の中では時々議論されている。

 だけど、読んでいると消化不良に感じられることも・・・。それは、その議論が、乳児から子供を育てていない男性の机上の空論的な話であったり、子どもが物心ついてからの学校での日本語教育の話であったりするから。乳児からの人間発達に合わせた教育、語学教育が論じられていない点にあると思う。

 三歳児神話信奉者ではないけれど、三歳までの人間は大人の物差しでは測れない得体の知れない存在である。まったく、昔の人は子ども時代の名前と成人してからの名前を変えたりする風習があったようだけど、その方が理にかなっていると思う。

 何人かの乳幼児を観察していると、それなりに共通する乳幼児の表現方法はあったりする。それでも、いくらその表現を察知したからと言って、壊れた人形みたいに母親や周囲の大人のコントロールが無効の瞬間があり、そんな時は、ただただ「忍耐」と「待つ」という世界だけである。そんな中では、語学云々の世界ではないのに、実は乳幼児の脳内の言語能力を司る回路は、目には見えないけれどすさまじい勢いで複雑化している(らしい)。

 母親や子供の保護者にとって、忍耐と待つという修練は、三歳を過ぎた子供にもまだまだ必要なことで、学齢期の子供、多分、思春期を過ぎるくらいまで逃れられないことだと思う。そのことを子供はほとんど自分が親になるまで分かることが難しいのも悲しいところ(まさしく自分がそうだった)。

 忍耐や待つという糸が切れた瞬間、誰も周囲に助ける人もいなければ、乳幼児や児童とその母親(保護者)の間で、本来あるまじき悲劇が生じたりもする。ブラジルでは幸い寛大なアミーゴやアミーガに恵まれて、実の家族がいなくても救いの場が多かったりするのはグラッサ・ア・デウス。いずれにしても、鈍感力と繊細さの絶妙なバランス感覚が必要とされる戦々恐々とした世界が、子供の教育に違いない。

 そんな一触即発の日々の中で、さらにポルトガル語と日本語を修得させるというのは、あまりに気の遠くなるような事業計画に等しい。

 ただ、習得させたいと思う言語に乳児期から親しませられる環境があるというのは、一つのチャンスで、その後、常に二か国語以上の語学環境に身を置ける機会があるというのも一つのチャンスではある。だけど、家庭や学校の中においては、子供は放っておいたら楽しい方に流れていき、語学そっちのけで遊ぶ遊ぶ。家庭では下の子どもは(親から見ていると)上の子どもの邪魔をする邪魔をする・・・などなど、大きな障害が山ほどあるのが、むしろブラジルで日本語教育(いや、語学だけでなく、どんな勉強でも)を続行する問題と改善すべき課題である。これはどこの国にいようと、子供の教育で普遍的な悩みかな・・・。

 小さな子供の教育に必要なのは、できれば苦のない中から自然的に生きる知恵、生きた知恵を学ぶと言うことであるのも事実である。結局のところ、語学教育に関わらず、教育とは何かのぶれない物差しを親や教育する人が持っているか否かは重要であると思いつつ・・・行きつくところ、母親でも先生でも自分のやり方に自信を持っているという事も、案外子供の安定的な成長に貢献するものらしい。


命名の由来

2013-03-19 08:27:35 | Weblog

 どこの土地でも生まれた子供の名付けの由来はあるもので、親や子供への学校からの宿題になったりもする。
 ブラジルの親たちが一生懸命に書いた子供の名前の由来が張り出されていたのに、読みたくてもポルトガル語であることもさることながら、個性的な筆記体ばかりで、時間制限もあり、結局何も読めずじまいに。