「べてるの家」の当事者スタッフである清水里香さんは『べてるの家の「非」援助論』の中で「諦めが肝心」と題して、興味深い経験を述べている。
「“だめなままの自分を受け入れよう”ということにこだわることを止め、“諦めるしかない”と思い、今まで自分が必至にしがみついていた手綱を手放したとき、手放したことで自分にマイナスになるものが何一つないことが分ったのです。苦しむために悩んでいたわけではありません。しかし、悩めば悩むほどこんがらがってきてますます混乱する。でも、悩むことをやめたとたんに、失うものは何もない、悩まなくても失うものは何一つないことが分ったのです。“諦める”というと、すごく大切なものをいろいろ捨てるような感じがします。苦しんでいる時は、“だめな自分のままでいいんだ”ということを受け入れない自分に、無性に腹が立っていました。しかし、“だめなままの自分を受け入れられない”ので、悪戦苦闘の結果として“悩むことをすべて放棄する”ことにしたのです。・・・自分ひとりで散々悩み苦しんでいた時は“諦める”などということは想像もつきませんでした。・・・“諦める”それをべてるの家では、生き方の高等技術としてとても大切にしています。・・・」
「べてるの家」のメンバーで統合失調症の松本寛君は、講演でもだじゃれを連発することで有名である。彼がいつも口にするだじゃれのひとつに、「一旗あげようとがんばって、気がついたら白旗をあげていた」というのがある。
「幻聴研究班」の中心メンバーに林園子さんがいる。彼女は大学時代に統合失調症を発病した。早矢仕さんは、強迫的な症状に“くどうくどうぎ君”とニックネームを付けた。”彼“とのつきあい方を仲間と研究して対処方法を編み出し、「自分の落ち着きのなさ」が、つかれと空腹感からきていることを見事に見極めた。
「たとえぼくい明日はなくとも」石川正一著
生まれながらに難病をかかえ、二十歳までしかいきられないと知ったひとりの少年が十四歳のときに書いた詩。
たとえ短いいのちでも
生きる意味があるとすればそれはなんだろう
働けぬ体で、一生過ごす人生にも
生きる価値があるとすればそれはなんだろう
もし生きr価値が社会に役立つことで決まるなら
ぼくたちはいきる価値も権利もない
しかしどんな人間にも差別なく生きる資格があるのなら
それは何によるのだろうか
べてるの女性メンバーからのメール
「自分は、今思えば、ものごころがついた時から、“鬱”だったような気がします。そして、漠然といつも死を恐れていました。・・・現実の死との向き合いを通してわかったことがあります。それは”生きよう!“ということでした。それも”死ぬために生きる“ということです。生きていなければ、死ねないことに気がついたのです。今のテーマは、究極は”死“です。”いかに死ぬか“ということは、”いかに生きるか“ということとイコールなのです。突きつめると、私自身は一生”当事者研究“の対象、一生求道者、一生病者であり、一哲学者-悩み尽きぬ存在であるだろうと思います。でもそれは決して悲観的なわけではなく、”一生情けない自分とつきあえる特権“とすら感じられます。」
「苦労や悩みの取り戻し」という作業のあとに出会う人生課題への「めざめ」の恐怖の根っこには、だれも避けることのできない「死」のテーマが横たわっている。だが、恐れていた「死」との出会いが彼女を生かしたのである。
「ほんとうに変なんです。私は今まで超人間アレルギーだったので、一度、人を嫌いだとか、苦手だとか思うと、ずっとその人に対するアレルギー反応が続き、苦手なままできたんです。その人のことを思うことさえ拒絶してきたんです。だけどね、最近はその拒絶勘だとか嫌悪感が長続きしないんです。なんなに嫌いで身体も拒絶していたのに、そのうちに”この人はこんな良いところもあるんだ“とかいう考えがぐるぐる回ってきて、知らないうちにあいさつして、何もなかったように親しく話をするようになって・・・。会話しながら、”あれ、今までと違う・・・“ととまどう気持ちも現れるんです。本当に私はどうなってしまったんだろうって、怖くなるんです。人に対して表面的に愛想を振りまくようになったような気がして・・・。私、これ二重人格ですよね・・・。」
精神科医とのつきあいで、彼が大事にしてきたことは「決して本当のことを話さないこと」であった。これは会場の爆笑を誘った。なぜなら、放すと薬が増えてしまうだけなので。
星野富弘作
よろこびが集まったよりも
悲しみが集まった方が
しあわせに近いような気がする
強いものが集まったよりも
弱いものが集まった方が
真実に近いような気がする
しあわせが集まったよりも
ふしあわせが集まった方が
愛にちかいようなきがする
べてるの歩みを振り返り、幾多の出来事3を思い起こしたとき、この詩にこめられたメッセージが心に深く染み入る。
感想;
統合失調症の方が浦河で集団生活をされています。
そこにはケースワーカーだった向谷地育良さんと川村先生(患者を治さない精神科医/薬をほとんど出さない精神科医)の二人の出逢いが大きかったようです。
ロゴセラピーでは精神、心、身体の3次元を考えます。
心と身体は病気になることがありますが、精神は病気になりません。
統合失調症として心を病んでいる(統合失調症も脳の機能の疾病との考えもあります)人は、精神を病んでいない。まさにロゴセラピーの実践の場でもあるようです。
心は本当に不思議です。
忘れようと思えば思うほど忘れられません。
寝なければと思うほど目が冴えてきます。
寝ることを諦めて、寝られなくても良い。楽しいことを考えようとしていると知らない間に寝ています。
統合失調症の幻覚や幻聴も心の持ち方で変わってくるようです。
薬で抑えるのではなく、上手く幻覚や幻聴と付き合う術を身に付けることが良いようです。
「“だめなままの自分を受け入れよう”ということにこだわることを止め、“諦めるしかない”と思い、今まで自分が必至にしがみついていた手綱を手放したとき、手放したことで自分にマイナスになるものが何一つないことが分ったのです。苦しむために悩んでいたわけではありません。しかし、悩めば悩むほどこんがらがってきてますます混乱する。でも、悩むことをやめたとたんに、失うものは何もない、悩まなくても失うものは何一つないことが分ったのです。“諦める”というと、すごく大切なものをいろいろ捨てるような感じがします。苦しんでいる時は、“だめな自分のままでいいんだ”ということを受け入れない自分に、無性に腹が立っていました。しかし、“だめなままの自分を受け入れられない”ので、悪戦苦闘の結果として“悩むことをすべて放棄する”ことにしたのです。・・・自分ひとりで散々悩み苦しんでいた時は“諦める”などということは想像もつきませんでした。・・・“諦める”それをべてるの家では、生き方の高等技術としてとても大切にしています。・・・」
「べてるの家」のメンバーで統合失調症の松本寛君は、講演でもだじゃれを連発することで有名である。彼がいつも口にするだじゃれのひとつに、「一旗あげようとがんばって、気がついたら白旗をあげていた」というのがある。
「幻聴研究班」の中心メンバーに林園子さんがいる。彼女は大学時代に統合失調症を発病した。早矢仕さんは、強迫的な症状に“くどうくどうぎ君”とニックネームを付けた。”彼“とのつきあい方を仲間と研究して対処方法を編み出し、「自分の落ち着きのなさ」が、つかれと空腹感からきていることを見事に見極めた。
「たとえぼくい明日はなくとも」石川正一著
生まれながらに難病をかかえ、二十歳までしかいきられないと知ったひとりの少年が十四歳のときに書いた詩。
たとえ短いいのちでも
生きる意味があるとすればそれはなんだろう
働けぬ体で、一生過ごす人生にも
生きる価値があるとすればそれはなんだろう
もし生きr価値が社会に役立つことで決まるなら
ぼくたちはいきる価値も権利もない
しかしどんな人間にも差別なく生きる資格があるのなら
それは何によるのだろうか
べてるの女性メンバーからのメール
「自分は、今思えば、ものごころがついた時から、“鬱”だったような気がします。そして、漠然といつも死を恐れていました。・・・現実の死との向き合いを通してわかったことがあります。それは”生きよう!“ということでした。それも”死ぬために生きる“ということです。生きていなければ、死ねないことに気がついたのです。今のテーマは、究極は”死“です。”いかに死ぬか“ということは、”いかに生きるか“ということとイコールなのです。突きつめると、私自身は一生”当事者研究“の対象、一生求道者、一生病者であり、一哲学者-悩み尽きぬ存在であるだろうと思います。でもそれは決して悲観的なわけではなく、”一生情けない自分とつきあえる特権“とすら感じられます。」
「苦労や悩みの取り戻し」という作業のあとに出会う人生課題への「めざめ」の恐怖の根っこには、だれも避けることのできない「死」のテーマが横たわっている。だが、恐れていた「死」との出会いが彼女を生かしたのである。
「ほんとうに変なんです。私は今まで超人間アレルギーだったので、一度、人を嫌いだとか、苦手だとか思うと、ずっとその人に対するアレルギー反応が続き、苦手なままできたんです。その人のことを思うことさえ拒絶してきたんです。だけどね、最近はその拒絶勘だとか嫌悪感が長続きしないんです。なんなに嫌いで身体も拒絶していたのに、そのうちに”この人はこんな良いところもあるんだ“とかいう考えがぐるぐる回ってきて、知らないうちにあいさつして、何もなかったように親しく話をするようになって・・・。会話しながら、”あれ、今までと違う・・・“ととまどう気持ちも現れるんです。本当に私はどうなってしまったんだろうって、怖くなるんです。人に対して表面的に愛想を振りまくようになったような気がして・・・。私、これ二重人格ですよね・・・。」
精神科医とのつきあいで、彼が大事にしてきたことは「決して本当のことを話さないこと」であった。これは会場の爆笑を誘った。なぜなら、放すと薬が増えてしまうだけなので。
星野富弘作
よろこびが集まったよりも
悲しみが集まった方が
しあわせに近いような気がする
強いものが集まったよりも
弱いものが集まった方が
真実に近いような気がする
しあわせが集まったよりも
ふしあわせが集まった方が
愛にちかいようなきがする
べてるの歩みを振り返り、幾多の出来事3を思い起こしたとき、この詩にこめられたメッセージが心に深く染み入る。
感想;
統合失調症の方が浦河で集団生活をされています。
そこにはケースワーカーだった向谷地育良さんと川村先生(患者を治さない精神科医/薬をほとんど出さない精神科医)の二人の出逢いが大きかったようです。
ロゴセラピーでは精神、心、身体の3次元を考えます。
心と身体は病気になることがありますが、精神は病気になりません。
統合失調症として心を病んでいる(統合失調症も脳の機能の疾病との考えもあります)人は、精神を病んでいない。まさにロゴセラピーの実践の場でもあるようです。
心は本当に不思議です。
忘れようと思えば思うほど忘れられません。
寝なければと思うほど目が冴えてきます。
寝ることを諦めて、寝られなくても良い。楽しいことを考えようとしていると知らない間に寝ています。
統合失調症の幻覚や幻聴も心の持ち方で変わってくるようです。
薬で抑えるのではなく、上手く幻覚や幻聴と付き合う術を身に付けることが良いようです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます