幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「仕事なんか生きがいにするな-生きる意味を再び考える-」泉谷閑示著 "生きる意味を持つ”

2017-05-23 08:24:08 | 本の紹介
・人間は、生きることに「意味」が感じられないと、生きていけなくなってしまうという特異な性質を持つ、唯一の動物です。

・私がかつて精神科医として扱うことが多かった問題は、例えば「愛情の飢え」「劣等感」「人間不信」といった熱い情念が絡んだ悩み、いわば「温度の高い」悩みが中心でした。しかし最近では、「自分が何をしたいのかわからない」といった「存在意義」や「生きる意味」に関するテーマが持ち込まれることが多く、これを一人密かに苦悩しているような「温度の低い」悩みが主要なものになってきているのです。しかし、これまでの精神医学や心理学は、おもに「温度の高い」悩みや精神病を扱うことに力点を置いてきたせいか、この種の「温度の低い」問題に対しては、その本質を捉えることができていないように思われます。

・人間という存在は「生きる意味」を見失うと、精神が衰弱してしまうのみならず生命そのものまでもが衰弱し、ついには死に至ってしまうこともある(ヴィクトール・フランクル)

・「何がしたいのかわからない」という悩み~「楽になりたい」というささやかな夢~

・「自信がない」という困惑~現代の「うつ」の根本病理~

・外見上いかに「能動」に見える活動的な行為であっても、それが内面的空虚さを紛らわすために消費生活によって生み出された、外から注入された欲求で動いているものは、その内実は「受動」でしかないのだ(エーリッヒ・フロム)

・「芸術界の天才志望者への助言」ミニャエル・エンデ
1)メディア社会に生きているという事実に、いつも留意すること。
2)芸術や文化理論的な意思表明に、ちょっとは労力を投じなきゃいけない。
3)残念ながらまったく“作品”なしというわけにはいかない。

・「労働」から完全に離れてしまうことは、人間から活力を奪い去ってしまうことになる。これは、生き物としての一つの真実です。しかし、だからと言って、「労働」によってほとんどが占められるような生活もまた、決して人間的な生活は呼べないでしょう。
私たち現代人は「いつでも有意義に過ごすべきだ」

・「意味」決してどこかで見つけてもらうことをじっと待っているような固定した性質のものではなく、「意味を求める」という自信の内面の働きそのものによって、初めて生み出されてくるものなのです(意味への意思;ヴィクトールフランクル)

・「自由からの逃走」エーリッヒ・フロム著
 私は、個性化の過程によって、個人が完全に解放される以前に存在するこれらの絆を、「第一次的絆」と呼ぼうと思う。それは人間の正常な発達の一部であるという意味で有機的である。そこには個性はかけているが、安定感と方向づけとがあたえられている。子どもを母親に結びつけている絆、未開社会の成員をその氏族や自然に結び付けている絆、あるいは中世の人間を教会やその社会的階級に結び付けている絆は、この第一次的絆にはかならない。
 個性化が一歩一歩進んでいくごとに、ひとびとは新しい不安におびやかされた。第一次的な絆は、ひとたびたちきられると、二度と結ぶことはできない。ひとたび楽園を失えば、人間は再びそこに帰ることはできない、個別化した人間を世界に結びつけるのに、ただ一つの有効な解決方法がある。すなわちすべての人間との積極的な連帯と、愛情や仕事という自発的な行為である。それらは第一次的絆とはちがって、人間を自由な独立した個人として、再び世界に結びつける。しかし、個性化の過程をおし進めていく経済的、社会的、政治的条件が、いま述べたような意味での個性の実現を妨げるならば、一方ではひとびとにかつて安定をあたえてくれた絆はすでに失われているから、このズレは自由をたえがたい重荷にかえる。そうなると、自由は疑惑そのものとなり、意味と方向とを失った生活となる。こうして、たとえ自由を失っても、このような自由から流れ、不安から救いだしてくれるような人間や外界に服従し、それらと関係を結ぼうとする、強力な傾向が生まれて来る。

・フロムは、人が「・・・への自由」つまり「積極的な自由」を実現するために欠かせない要素として、「自発性」ということを強調しています。つまり、「自発性」というものがあれば、人は「絆」などというものに依らなくても、新たに外界と結びつくことができる。しかも、その結びつき方は、依存と支配といったものではなく、互いの独立性が尊重されるようなものである。それが、「夢」と呼ばれるものなのだ。

・愛とは、相手(対象)が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ちである。欲望とは、相手(対象)がこちらの思い通りになることを強要する気持ちである。

・「愛」とは、単に他の人に向かうものだけを指すのではなく、世界の様々な物事や人生そのものに向けられるもので、対象に潜む本質を深く知ろうとしたり、深く味わおうとしたりするものです。

・私たちが生きることに「意味」を感じる瞬間とは、このように「愛」の経験によってもたらされるものなのです。

・仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をなるふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹(ごしやく)の休歇(きうけつ)なるあり、休歇なる悟迹を長々出(ちやうちやうしゆつ)ならしむ。「正法眼蔵」道元著)

・私たち人間が、真の「芸術」に触れて感じる喜びは、私たちの魂がかつて知っていた「悠久なもの」との再会の喜びであり、「孤独」をいきなければならないという宿命を負った生き物同士に交わされる、魂の対話の歓びなのです。

・日常に「遊び」を取り戻す

・何でもないように見える「日常」こそが、私たちが「生きる意味」を感じるための重要なカギを握っているのです。

・精神療法の面接を重ねていくと、クライアントは苦悩や症状が緩和されていくにつれて、生活の様々な局面で合理性や利便性など「量」に偏っていた価値観に変化が起こるようになってきます。それまでとらわれていた「量」的な価値観から「質」の大切さへ目が開かれ、ぞんざいなもの」や「おざなりなもの」が身の回りに溢れていることに気付くようになり、それらを一掃せずにはいられなくなったりします。そして、料理や食事のみならず、日常のすべてを丁寧に味わうようになっていくのです。

・あえて無計画、無目的に、自分の行動を「即興」に委ねてみることによって、私たちの決まりきった日常が、ささやかながらもエキサイティングな発見と創意工夫に満ちたものに変貌するわけです。これを私は「偶然に身を開く」と呼んでいます。この「即興性」に加えてもう一つの大切なこととして、「面倒臭い」と感じることを、むしろ積極的に歓迎してみるという考え方があります。

感想
この本にも紹介されていますが、ヴィクトール・フランクルは人生の意味、意味への意思、
人生からの問いかけに意味を見つけることの大切さを述べています。
それを心理療法として完成させたのがロゴセラピーです。
フランクルはそれおナチスの強制収容所で実践しました。

多くの心理療法がありますが、それは心について取り扱っています。
ロゴセラピーは、心と身体の上位概念として精神を位置付けています。
ロゴセラピーはその精神を取り扱う心理療法です。

フロイトが患者さんから「私の悩みは治るでしょうか?」との問われ、
「あなたの小さな悩みは治りますが、どう生きるかとの新たな悩みが出てきます」
と返答したそうです。
どう生きるか、それはまさに人生の意味、一人ひとり違っています。

仕事も大切ですが、仕事も含めて自分の人生をどう生きるかが問われているのだと思います。


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