幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

阿川佐和子さん「サワコの朝 梅沢富美男さん」 "お客さんが来てくださるまで努めよう!”

2016-12-03 08:16:38 | 生き方/考え方
いつか呼んでもらえないかなと思っていた。自分の持っていないものを出そうとすると失敗する。いつも怒っているイメージ。舞台に立つとあざやかな女形。歌「夢芝居」が大ヒット。
梅沢さんの言葉が共感を得ているのかを明らかにする。

TVに出て、若い人に名前を覚えてもらえる。旅先にコンビニに若者が座っていたので、注意した。そうしたら注意してもらったことを友達に嬉しく伝えた。おじいちゃんやおばあちゃんがいて、昔は注意していた(怒っていた)。今はそれがない。
学歴は中学卒。TVで何ができるか。おじいちゃんやおばあちゃんが怒っている。それを代弁できるかと思った。

ちあきなおみさんの「矢切の渡し」。石森章太郎さんと母が友達だった。矢切の私の時に女装した。当時31歳。木の実ナナさんと梅沢さんの矢切の渡しの歌の背景を演じた。
ちょっと口が空いているのが色っぽい。鼻が蓄膿症で鼻が詰まっていて口を開けていただけだった。それが色っぽく見えた。

天才子役だった。1歳7か月で踊った。貫太郎さんで踊った。小さい時から自然と踊っていた。それを母親が見て、これは商売になる。8人兄弟の7番目。貧乏した。教科書もノートもない。鉛筆もない。給食費も払えない。よってお昼も食べられない。当時の先生も貧乏で生徒に食事を食べさせられなくて泣いていた。

高校に行きたいと言ったら、ダメだと言われた。舞台で島根弁を言ったら、ワーと観客から声が上がった。それで役者になろうと思った。これを笑われていると思ったら役者になっていなかった。

8人兄弟で皆役者になった。何もやっても上手くいかなかった。それで女形をやるようになった。先生が何を偉そうなことを。何を壁だと。これから覚えないといけない人間んに壁はない。まだ壁はない。

花柳界に粋な人が多かった。はすに構えると気になる。しっかり座ってはいけない。穴が少し出ている。お尻の穴を気にする。芸者さんがお風呂に入って、お尻を振りながら歩いている。それを見ていたら、警察に連れていかれた。玉三郎さんは見ていない。そこまではできない。女形は3分以上持たない。持続性がない。ブラジャーしていたが合わなかった。芸者さんから手ぬぐいを使いなさいと言われた。それが良かった。舞踊家ではない。役者さんが踊っているだと母親に言われた。長谷川一夫さんの女形を見た。踊らない。流す涙が、のところで涙を流す。そして流し目を。これを絶対やろうと。

歌のジョイントの仕事はやらなかったが。大阪フェスティバルホールに、村田英雄さんと三波春夫の歌のショーに出た。記者会見(村田英雄さん、三波春夫さん)で一二三(いちにーさん)で写真を撮れと。お二人は性格が全然ちがうけど死ぬまでライバルだったかと。

2曲目は、小椋佳さんの「少しは私に愛を下さい」
まさかこんな顔でこんな可愛い歌を作ったのかと思った。「夢芝居」を書いてもらう時に、その歌の背景を聞いた。小椋佳さんが当時、海外で出張に行き、その間に小椋佳さんが勤めていた銀合が合併になった。帰ったら自分の席がなかった。もう少し“愛があっても”と思って作った、恨み節の歌だと聞いた。それで歌のイメージが変わった。

座長に5年前になった。出来るまで頑張ってみようと思っている。芸能界とはいつ終わるかわからない。お客さんが入らなければ終わる。お客さんが決めてくれる。お客さんに来てもらえるように努めていきたい。

感想
学校に行きたくても行けなかった。
生まれた環境の中で、ご自分の生きる道を探して、そして華を咲かせておられるように思いました。

渡辺 和子著「置かれた場所で咲きなさい」が多くの人に読まれました。
それぞれが置かれた場所が違います。
他の人の場所を羨むのではなく、自分の置かれた場所でできることを精一杯する。
まさに、それを実践されているのを感じました。

いつお客さんが来なくなるかの不安を抱えながら、日々の努力が重要なのでしょう。
今、セミナーの講師をさせていただいています。
いつ、セミナー会社からお声がかからなくなるかの不安を抱えています。
参加者が減る。それはまさに私が話す内容が参加者の満足を得なくなった時なのでしょう。
梅沢さんとまったく住む世界もやられていることも違いますが、仕事の基本は同じなんだと思いました。
会社員時代はそれを感じなくてもお給料をいただいていました。
本当は会社員でも同じだったのでしょう。




「湯を沸かすほどの熱い愛」中野監督は感極まり号泣 ”誰かのために、何かのために”

2016-12-03 00:20:00 | 社会
http://news.goo.ne.jp/article/nikkangeinou/entertainment/f-et-tp1-161202-0033.html 新藤兼人賞授賞式で号泣する中野量太監督(撮影・村上幸将)(日刊スポーツ)

 日本映画製作者協会が、最も優れた新人監督、優秀なプロデューサーに授与する新藤兼人賞の、2016年度授賞式が2日、都内で行われた。
 金賞を受賞した、宮沢りえ主演映画「湯を沸かすほどの熱い愛」の中野量太監督(43)は壇上で、これまでの映画人生を振り返り、感極まって号泣した。
 「9年くらい前に、この会場の授賞式に紛れ込んで…金賞、銀賞が輝いていて、いつかあの舞台に乗られたらなと思いました。新藤兼人賞は、プロデューサーが選んでくれる賞。僕は2年くらいで挫折して、映画からドロップアウトして…その中でも、ずっと僕を支えてくれるプロデューサーがいました。どうしても映画を撮りたくて、自分で100万円ためて、それを持っていって『一緒に映画を作ってください』と言いました。何の保証もない僕に、一緒にお金を出して作ってくださった映画が(13年の前作)『チチを撮りに』という映画。それを評価していただいて、今回『湯を沸かすほどの熱い愛』のプロデューサーが「中野君、オリジナルで作ろう」と言ってくださいました」
 自主製作映画に取り組んできた中野監督にとって、「チチを撮りに」は初の長編映画だった。同作が評価されて製作、公開し、今回の受賞作となった「湯を沸かすほどの熱い愛」は、商業映画デビュー作だった。「湯を沸かすほどの熱い愛」は、10月29日の公開後、国内で高い評価を受け、ヒットを続けている。
 両作品ともに、中野監督が脚本から手がけたオリジナル作品だ。小説や漫画などの原作がないオリジナルの映画は、どれだけの客層を取り込めるかなど予測が難しく、ヒットの保証もないため昨今、企画を通して映画化することが難しい。若手の監督の中には、資金を求めて海外の映画祭に自ら映画を持っていき、評価された上で、海外から出資を募り映画を撮る人も増えているのが現状だ。
 中野監督は、自分を信じ、1度、ドロップアウトした映画の世界に引き戻し、支えてくれたプロデューサーたちに、涙ながらに感謝した。
 「今、オリジナル映画を新人の僕が撮ったって、興行的にどう勝負できるか保証がない中で、僕を信じてやってくれました。だから、どうしても恩返ししたくて、懸命に、懸命に撮りました。心からこの人のためにやりたいという関係性を作れた…それが僕にとってのプロデューサーで、僕を本当に信じてくれました。僕と同じくらい受賞を、みんな喜んでくれていると思う…それがうれしいです」
 中野監督にはトロフィーと、副賞として50万円が贈られた。

感想
誰かのために、何かのために。
これが生きる上での大きなエネルギーになるのではないでしょうか?

自分を信じてくれている人のために。自分を愛してくれている人のためにやることは、大きなよろこびではないでしょうか。