真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「義父と嫁 乳しぼり」(2003『痴漢義父 息子の嫁と…』の2007年旧作改題版/制作:セメントマッチ・光の帝国/配給:新東宝映画/脚本・監督:後藤大輔/企画:福俵満/プロデューサー:池島ゆたか/撮影:飯岡聖英/編集:酒井正次/助監督:小川隆史/監督助手:笹木賢光・小松慎典/撮影助手:小宮由紀夫・松下茂/タイミング:安斎公一/協力:佐藤吏/録音:シネキャビン/現像:東映ラボテック/出演:中村方隆・麻木涼子・佐々木ユメカ・なかみつせいじ・水樹桜・城春樹・新納敏正・堀本能礼)。出演者中、堀本能礼は本篇クレジットのみ。逆に江端英久が、ポスターにのみ載る。本当は撮影助手に続いてスチール:元永斉
 山間の農村、未だ春は来ず、凍える朝。岡宮周吉(中村)が牛舎で毎朝の日課である、乳牛の乳を搾つて回る。牛舎の一番外れには、周吉が最も可愛がる、花子が繋がれてゐる。正確には、かつては繋がれてゐた。牛々の背を撫でながら周吉が花子の下に辿り着くと、そこには、四つん這ひになつた裸の女が。交通事故で急逝した周吉の息子・秀夫(新納)の嫁・紀子(麻木)である。周吉はほかの牛に対するのと同じやうに、紀子の裸の乳房を搾る。子のゐない、紀子に乳は出ない。周吉が乳の出ない花子を愛ほしむやうに紀子の背を撫でると、紀子は「モオオー、モオオー」と牛を模して鳴く。可愛がつてゐた牛の死を認識出来ない惚けた義理の父親のために、毎朝紀子は死んだ花子を演じてゐたのだ。重厚感溢れるシークエンスは同時に、衝撃的なまでの桃色の破壊力も備へてゐる。開巻即ちあるいは微睡みかけてゐた観客の度肝も抜くであらう、昨今の無様な体たらくからは窺ひ知るべくもない後藤大輔の、2003年の傑作。正味な話後藤大輔は、今作で完全にそのキャリアの頂点を極めてしまつた感を否めなくもない。
 周吉は未だ、今ならば未だギリギリ若い二十九歳の紀子を気遣ひ、自分のことは気にせず家を出て再婚するやう勧める。ところが紀子には、毛頭さういふ気はなかつた。義理とはいへ老親を慮つてばかりのことではない、紀子は周吉との二人だけの生活を望んでゐたのだ。危ふく男と女の境界で踏み止まる、息子嫁と義父。初めから脆い均衡は、外部からの干渉により儚くも崩れて行く。なかみつせいじは、大手デベロッパーの下走りで、周吉の農地を狙ふ土地ブローカー・勝呂。慎ましく汗を流す同郷の農民を小馬鹿に見下した、鼻持ちならぬ小人物をあくまで小人物ではあれ鮮やかに好演。佐々木ユメカは、郷里を捨てたきり兄―秀夫―の結婚式にも葬式にも顔を出さなかつたものが、都会での生活に疲れたのか何の前触れもなく舞ひ戻つて来た周吉の実の娘・光子。父親が風呂に入つてゐる間に帰宅し、秀夫の遺影の前で不遜に煙草を燻らせてゐたところに、紀子から不意の帰郷を耳にした周吉が飛び込んで来る。血相を変へた周吉を見やると、あつけらかんと一言「老けたねえ・・・」、佐々木ユメカ持ち前の距離感がよく活かされた名台詞。
 光子は勝呂の片棒を担ぎながら、結局は「こぎやん田舎は好かん!」と吐き捨てるや東京に又戻つて行く。寄る辺を持たない、あるいは自ら喪つてしまつた漂泊者の寂寥をよりよく体現しつつも、詰まるところは何しに帰つて来たのだかよく判らない光子ではある。が、決して、その短い里帰りは何の意味も持たなかつた訳ではない。早朝の牛舎の秘密を嗅ぎつけると、光子は残酷な現実を紀子と周吉とに突きつける。光子退場後、俄かに崩壊の兆しを見せる背徳的な平穏に、勝呂が止めを刺す。勝呂の他愛のない小物なりに、自らの他愛なさに噛み締める焦燥も短いショットで効果的に綴られる。無駄にだだつ広い大広間での光子と勝呂との濡れ場には、前時代的な共同体から自らを切り離し肥大した自己と、同時に切り離したまゝに、切り離したばかりに終ぞ埋められることのない自由といふ名の空虚とが、逃れやうもない切迫さを以て描かれる。銀幕のこちら側の現実の地平には終に到来し得ない、全てが意味を持つた世界。劇中世界の強度に、囚はれ慄かずにはをれない。
 関根―和美―組での腰も砕けん肩の力の抜き具合が悪い冗談かのやうな、城春樹は周吉の幼馴染で温かい傍観者でもある獣医・克己。水樹桜は克己の医院の看護婦で、既に妻を亡くした克己とは男女の仲にもある千里子。一年ほど前から周吉の痴呆に気づいてゐたにも関らず、それを事実上は放置してゐた紀子に対し、千里子は酷い嫁だと口汚く罵る。そんな千里子を、克己は「病で繋がつとる人もをると」と戒める。話はまるきり明後日の方向に逸れてしまつてゐるやうに思はれるかも知れないが、かつて自分は演歌が大嫌ひだといふある人―誰かは忘れた―が、都はるみの「北の宿」を捕まへて大意でこのやうな風にいつてゐた。「着ても貰へないセーターなんぞ編んだところでどうするのだ、自分はだから演歌のさういふ《ウェットな/ドロップアウト補足》部分が大嫌ひなのだ」と、考へ違へるにもほどがある。着ては貰へぬと頭では判つてゐるセーターでも、時に人は編んでみたりする。否、より正確には着ては貰へぬと理屈では答への出てゐるセーターですら、時にどうしても編まずにはをれぬのが人間といふ生き物だからこそ、そのやりきれなさのために、人は歌を歌ふのだと思ふ。時に病でさへ二人の紐帯にしてしまはざるを得ない女と男の哀しみのためにこそ、物語は紡がれるのではなからうか。神の営為に自らを近づけんとする大いなる野望であると同時に、さういふ人の不完全さといふ余地に注がれる眼差しこそが、全ての芸事の源泉たるべきものではないのかと、私は常々信じてゐる。
 俳優部中、残る堀本能礼が何処に出てゐたのだか―何度観ても―全く判らない。診察室では克己と千里子が乳繰り合ふ中、脱腸の豚を抱へ待合室で騒ぐ農夫の声か。故郷を再び捨てる光子が、駅前のロータリーで声をかける薄汚い若い男は全然別人だし。ついでに江端英久も、勿論といふか何といふか、兎に角何処にも出て来ない。

 最後に、ひとつだけ瑣末なツッコミを。正確なところは判らないが、舞台は登場人物の訛から窺ふに、九州地方の山地である。周吉は毎朝五時だか六時だか、何れにせよかなりの早朝にまるで時計仕掛けの如く自然に、正確には不自然に目を覚ますといそいそと牛舎に向かふ。ところで冬の九州地方のその時間帯にしては、些か外光が明る過ぎるやうに思へる。日が出るのが、漸く七時前後である。同じ齟齬は、クリスマス前後の物語である「BRⅡ」にも当て嵌まるのだが。

 以下は最早何度目か判らない再見に際しての付記< この期に初めて気づいたのが、今作、何気に水上荘映画。それと乳の出なくなつた花子を売らうとした息子に周吉が「死ね」と叫んだ直後に、トラックが事故を起こして秀夫が本当に死ぬ無体なカットは、清々しい呆気なさを爆裂させる


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