真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「CODE46」(2003/英/監督:マイケル・ウィンターボトム/主演:ティム・ロビンス、サマンサ・モートン)、を観に行つた。マイケル・ウィンターボトムの最高傑作、といつてしまへば成程さうであるやも知れないが、それでも最終的にはこの程度か、ここ止まりか、といつた印象を強く受けた。「バタフライ・キス」(1995)、の時もさうであつたが、大変に魅力的なテーマを取り扱つてゐて、フライヤーを見てゐるとそれだけで泣けて来さうなくらゐに、もうどうしやうもないくらゐに面白さうなのに、実際劇場に足を運んでみるとそれ程でもなかつたりする、そんなことばかりである。突き詰めてみると、私はこんな(ウィンターボトム)の映画では泣けない。一応断つておくと、広島弁を理解しない向きには真つ直ぐ読解出来ない文章である。

 と、いふことで「CODE46」を観てボロ泣きした、といふ映画譚でもお届けしようと事前には思つてゐたのだがさうはならなかつたので、去年ボロ泣きした映画。もう世間一般的にはこつ酷く、四方八方から、徹底的に酷評されてゐもするが、個人的には断固として78年の(昭和換算)ナンバー・ワン、「バトル・ロワイアルⅡ」について、今回は採り上げる。

 映画には、ここから先に行つては映画が駄目になる。この向かう側に行つてしまつては映画がアホになる、安くなる、壊れてしまふといふ線(ライン)がある。何も映画に限つたことでもないが。加へて別に必ずしも線、に譬へる必要もない。壁でも枠でもそこは何でも構はない。そこから向かうに行つてしまつては駄目になる、アホになる、安くなる、壊れてしまふ。さういふ境界がある。さうとは知らずに易々とその境界を越えてしまふのは、殆ど全ての場合といつてしまつてもいいくらゐに、天才であるかあるいは多くはただのバカである。バカであつたとてちつとも構ひはしないが。
 時に、駄目になる、アホになる、安くなる、壊れてしまふ、さうと判つてゐても、要約するならば純粋な技術論の観点からは負け戦になつてしまふと判つてゐたとしても、なほ敢へてラインを越えて行かねばならぬ時もある。そこに、即ちラインの向かう側に、向かう側にこそ真のエモーションが存する場合もあるからである。

 最も判り易い例を挙げるならば、「ソラリス」で、予告篇では堂々と流してゐたメイン・テーマ中一番エモーショナルな大サビを、本篇においては終に使用しなかつた、スティーブン・ソダーバーグである。エンド・ロール時に於いてすら使はなかつた。ソダーバーグはクレバーな、決してラインを越えない映画監督である。徹底していはゆるベタ、を排する。彼は正しい映画しか撮らない。奴は決して負け戦を戦はない。私に言はせれば、だからソダーバーグには絶対に、真にエモーショナルな映画は撮れない。

 「BRⅡ」に話を戻す。公開当時基本的には袋叩きにされた「BRⅡ」に於いて中でも一番こつ酷くバカにされた、藤原竜也がアジトから電波ジャックして全世界に向けてアジるシーン。ある一定のメッセージを殆ど作為の欠片も無く、そのままにアジテーションとして遣らかしてしまつたシーンである。確かにアホである。青臭いことこの上ない。芸が無いにも程がある。芸事に関する議論は技術論を以て行ふことを旨とする、といふ立場に立つならば(誤解の無きやうに断つておくが、私はその立場を正当なものとして承認する。私の議論は例によつて間違つた議論である)、0点映画である。
 だが然し、そこでそんなアホな映画をアホであるとバカにすることは容易い。それこそそんなことはバカにでも出来る。ただ、あのシーンにおいて藤原竜也が、といふか七原秋也が伝へようとしてゐたメッセージ。「世界には六十億もの人の心があるといふのに、どうして正義はどこかの誰かが勝手に決めた、ひとつきりしか無いんだ !?」といふメッセージは、よしんば形式的にだけでなくその内容すらもがどんなに青臭くてどうしやうもないものだとしても、それでもなほ、そのメッセージは絶対に正しいことを言つてゐると私は思ふ。
 「世界には六十億の人の心があるといふのに、どうして正義はどこかの誰かが勝手に決めた、ひとつきりしか無いんだ !?」。先に私の議論は間違つた議論である、と言つた。これから間違ひの本丸に突入する。何も映画に限つたことでは勿論ないが、何の為に作るのか、誰の為に作るのか、何を伝へる為に作るのか、といつたところこそが最も肝要なポイントである、とするならば。時にどうしても伝へたい事柄があり、伝へたい相手があり、何とはあつても伝へようとするならば、結果として出来上がつたものがろくでもないものに成り下がつてしまふことが100%判つてゐたとしても、なほのことラインを越えねばならぬ時もある。負け戦を負け戦と承知の上で、なほのこと戦はなければならぬ時もある。「BRⅡ」はその時些かの怯みを見せることもなく、敢然とそのラインを越えてみせた。その結果、私は何度観に行つても何とはあつても「BRⅡ」が伝へようとしたメッセージに撃ち抜かれてボロ泣きし、敢然とラインを越えてみせたその姿勢こそが、私が「BRⅡ」を断固としてナンバー・ワンに推すところの所以である。

 竹内力扮する教師リキの最期のシーンも、無茶苦茶を通り越して出鱈目ですらある。冒頭では「人生においては勝ち組と負け組みしかない」、と生徒をバトル・ロワイアルに無理から追ひ込んでゐたのが、最後の最期になると、「人生においては勝ち組と負け組みしかない」、「だが果たしてさうだらうか《あんたがさう言つてゐたんだよ!/ドロップアウト注》?その答へはこれから《お前達が》行くこの先にある」、と七原達を(結局)戦場に再び送り返して(大した教育者である)、自らは「トラーイ !!!!!!!!」と爆死する。出鱈目すら通り越して酷いやうな気すらして来るが、それでゐてもなほ、「人生においては勝ち組と負け組みしかない、だが果たしてさうだらうか?」といふメッセージを伝へる為に、さうしてその答へはこの先お前達が、即ち観客である我々若い世代が自らの足で進み行くその先で、自らの力で探し、掴み取れといふエールを送る為に、半歩も後退りすることなくラインを越えてみせたのである。全く天晴である。全うな映画理論が決してその姿勢には首を縦に振らないとしても、構はない。私は支持する。私は全うではない。

 最後に、強引に元の話に繋げて纏めると、ソダーバーグの場合は小賢しくて嫌な奴であるといふ理由で、そのラインを決して越えないものであるのに対し、ウィンターボトムの場合は、体力が無くしてそのラインを越えられないものである、とみるところである。


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