真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「乱痴女 美脚フェロモン」(2004/製作:丹々舎/提供:オーピー映画/監督:浜野佐知/脚本:山邦紀/撮影・照明:小山田勝治/撮影助手:橋本彩子・松澤直徹/照明助手:廣滝貴徳/撮影応援:赤池登志貴/助監督:田中康文・三浦麻貴/音楽:中空龍/スチール:岡崎一隆/キャスティング協力:株式会社スタジオ・ビコロール/出演:北川明花・風間今日子・鏡麗子・なかみつせいじ・平川直大・兵頭未来洋)。なほ今作は2007年に、「むつちり舞姫 ハメ放題」とぞんざい極まりない新題で改版公開されてゐる。
 結論から述べる、今年一年で最も美しい映画であつた。
 乙川由芽(北川)はかつて新体操の天才少女と騒がれるも、その後姿を消す。由芽が“遠くから来て遠くへ行く”女として、悲しい男や寂しい男、苦しい男の前に扇情的なレオタード姿で突如現れては、正直大して上手くはない新体操―北川明花は一応経験者―と、それはともあれ瑞々しい肉体とで慰め、癒して行く。たとへそれがどんなにチープで陳腐であれ、ドリーミングでエモーショナルなストーリーである。直截にいつて、当方ドロップアウトは貧しく清くなく美しくもないが、悲しくて寂しくて苦しい男である。冗談にもなりはしない、私の下にもどうか現れては呉れないものか。寝言はさて措く、実も蓋もない。
 監督・浜野佐知と脚本・山邦紀は、映画製作会社旦々舎の、ピンク映画ファンにとつては志村と加藤といつたくらゐお馴染みの名コンビ。浜野佐知(別名:的場ちせ)は女流監督である。この人はとてもユニークな女傑で、何処でどう転んだのだか、何をどう勘違ひしたものなのか、フェミニズムの観点からピンク映画を撮つてゐる。女の肉体の美しさ、であつたりとか、女の側からのSEX、更にはより進んで商業ポルノグラフィーといふ土俵―当然そこでは女の性を商品化して、それを消費してゐるのは男である―の上で、女の側へのSEX、女がしたいからするSEXへの解放、といつたテーマを一貫して描き続けてゐる、らしい。らしい、といふのは、確かにその思想はどの映画にも強く現れてゐないこともなくはないのだが、実際浜野佐知の映画といふのは、観てみると生半可な男の監督の撮つた映画よりも余程エロくてエロくて仕方のない、素敵な映画ばかりなのである。対して、私は断るまでもない、のかどうなのかはよく判らないが、アンチ・フェミニストである。正にその一点のみにおいて、内田裕也がマイセンを吸つてゐることを発見した時―裕也、マイセンはロックぢやねえよ―と同様、フェミニストであるといふアーネスト・ボーグナインに対して強力に落胆したくらゐである。何故かといふと、醜男が女に対して卑屈になつてゐるやうな気がしたから、小生の尻の穴はナノである。さういふ仕方のない人間ではあるが、別に浜野佐知の映画を観てゐて腹を立てたり嫌ひかといふと、そんなことは全くない、エロエロで素敵な映画を何時も喜んで楽しく観てゐるくらゐである。勿論、我が粗末な愚息はビンビンに我に撃つ用意あり、の状態にある、余計なことはいはんでよろしい。
 脚本の山邦紀、この人も自分で監督して映画を撮る。何はともあれ再び結論を先に述べてしまふと、私はこの人の映画が大好きである。ピンクに止(とど)まらず、山邦紀は日本映画界の中で極めて重要な人物であると思ふ。自分で監督する際などは特にさうなのだが、といふか殆ど100パーセントまづさうなのだが、この人の物語には兎にも角にもマトモな人間が出て来ない。主人公は殊更に、といふか明確に精神を病んだ人間ばかりである。頭のおかしな人間が訳の判らない観念に囚はれて、観てゐるこつちの頭もクラクラして来てしまひさうなストーリーが展開する、握り損なひの変化球―ただし、しかも剛速球―のやうな映画ばかり撮つてゐる。さういつた辺りを捕まへて、山邦紀のことを「日本のデビット・リンチ」と称する方もある。それは的を得てゐるのかも知れないし、成程判り易いとも思へる。ただ、さうはいつてもこの文章に触れて貰つてゐる諸兄の中に恐らくはさうさう、山邦紀の映画を十本以上観てゐる方など―二本や三本では多分判らない―をられさうにないので初めから伝はる訳もないのではあらうが、私には山邦紀といふ人は、実はストレートにロマンティックな脚本を書いて、ストレートに美しい映画を撮る人であるやうに思へる。“遠くから来て遠くへ行く”女。これは、謎の存在である乙川由芽が、「何処から来て何処へ行く」のかと、姿を消した超新星を追ふスポーツライターの樺島麻里子(風間)に問はれた際に答へる台詞である。「私は遠くから来て、遠くへ行くの」、まるでメーテルではないか。タイトルは失念してしまつた―又何時か何かの弾みで思ひ出す、かも―が、病的に勘違ひが激しくまるつきり痛い女が、偶さか巡り合つた男を運命の男と勘違ひし、ラストでは手と手を取り合ひ旧き日常を捨て飛び出して行く、さういふストーリーの映画もあつた。その映画のテーマはずばり、勘違ひボニーと思ひ込みクライドである。「あの二人つたら、勘違ひボニーと思ひ込みクライドね」といつた風に、青木こずえの台詞でも明確に語られる。勘違ひボニーと思ひ込みクライド、何だそりや。リンチが、そのやうな甘酸つぱくもストレートなエモーションを決して描くものか、否、描けるものか。

 「美脚フェロモン」、に話を戻す。悲しい男、学内での出世レースにほぼ敗れ気味な大学講師の水江志麻夫(なかみつ)が、川でぼんやりと釣りをしてゐるところに由芽が現れる場面の、キラキラと輝く水面。かういつたカットにこそ、比VTRでラチチュードの差が歴然と現れる。寂しい男、植物を愛すると称して全うな人間関係からはドロップアウト気味な公園の清掃員・筒井雅司(平川)の前に続いて姿を現す件―雅司には由芽が植物の精に見える―に於いては、ヒラヒラと舞ふ桜。そして浜野佐知は何時もの女体の美しさへの執着、あるいは偏愛を以てして、アクロバティックなポーズを採らせた北川明花の肢体を、これでもかこれでもかとフィルムに丹念に刻み込む。美しい、美しい映画である。撮影・照明の小山田勝治も、とても三百万で撮つてゐるやうには思はれない分厚い仕事を見せる。ひとつだけ難点なのは、苦しい男、仕事が望むやうに儘ならない編集者の日下部八郎役の兵頭未来洋、相も変らずまるで演技が下手糞である。いい加減な、もしくはライトな作りの映画であつたならば、特にわざわざ気にもならなかつたのかも知れないが、かういふ美しい映画の中にあつては、その大根ぶりが殊更に目につき、一息に興が醒めてしまふ。ここは、清掃員に柳東史を当てて平川直大を編集者役にスライドする―勿論その逆でも全くいい―か、もしくはそれならば余りにも何時もと面子が変らない、とでもいふのであるならば、八郎役に竹本泰志でも連れて来れば良かつたであらうに。鏡麗子は、志麻夫の妻・千鶴。

 以下は再見時の付記< 二点だけ触れておくと、経験者との触れ込みの北川明花の新体操が、記憶の中で大分美化されてゐたのか、ヨレヨレドタドタと、こんなにも不恰好だつたかなあ、といふのが改めての偽らざる感想である。ともあれ、体の柔軟さは買へる。悲しいひと、寂しいひと、疲れたひとをそれぞれ自宅マンションに引つ張り込んでは、ベッドの上で様々なアクロバティックなポーズを取り、レオタードに包んだムチムチの肢体をこれでもかどれでもだと見せつけて呉れるシーンのいやらしさは最早ヤバい。
 “寂しいひと”。生身の人間とコミュニケート出来ずに、世話をすることで植物としか通じ合へない―つもりの―公園の清掃員・筒井(平川)、の前に乙川由芽(北川)が現れる件。何時ものやうに筒井が公園の植物の世話をしてゐたところ、フと気が付くと公園の中でレオタードに身を包みフリフリと踊つてゐる由芽が。筒井の視線に気付いた由芽、「《新体操なんかしてちや》いけなかつたですか?ここでは」。すると筒井は、「いや・・・、厳密にいふと問題あるかも知れないけど、俺はここで植物の世話をしてるだけだから」。“厳密にいふと問題あるかも知れないけど”(笑)、問題あるよ、そりや。いいけどさ。


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