真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 昨年九月末に消滅した旧本館より戯れのサルベージ企画、今回は「俺たちの勲章」第十五話、「孤独な殺し屋」等に関する雑感である。パンドラの箱を、開けてしまつたやうな気がする。

 小生ドロップアウトは高校生の頃に、非常に判り易くもあるが「探偵物語」の再放送に呆気なくノック・アウトされて以来、松田優作の大ファンである。同様の者は周囲にも大変多く、さういふ文脈で私は最も多感な時期に「探偵物語」再放送の直撃を受けた自分達の世代を、“優作セカンド・ジェネレーション”と総称してゐる。松田優作の映画やテレビ・ドラマの中で(未見のものもあちこちあるが)、どれが一番好きかと問はれたならば、それが作品として最も完成度が高い、ともそこに出て来る優作が最高にカッコいい松田優作である、とも決して思はないが、それでもなほ一番好きなのは、心から好きなのは「俺たちの勲章」である。
 「俺たちの勲章」(日本テレビ/昭和50年 4/2~9/24、全十九話/製作:東宝株式会社)。事件解決の為には手段を選ばず、何時も始末書を書かされてゐるクールでワイルドな中野(松田優作)と、優し過ぎるが故にしばしば感傷的で、生真面目過ぎるが故に融通が利かない新人刑事の五十嵐、ことアラシ(中村雅俊)。かういつた二人の対照的なはぐれ刑事が織りなす、青春の輝きと挫折とを描いた作品である。と、バップ公式サイトの解説を殆ど丸パクりして適当に掻い摘んでみたが、個人的には「俺たちの勲章」とは、ダメ人間の、ダメ人間による、ダメ人間のための刑事ドラマである。
 行きつぱぐれたダメ人間が、同じやうに世界の片隅の更に最周縁で生きてゐるやうなダメ人間相手にやり切れない犯罪を犯し、それを矢張り警察組織の中でストレートに行きつぱぐれてゐるダメ刑事が捜査する。加害者も被害者もダメ人間のダメ犯罪をダメ刑事が捜査する。ダメ人間の犯罪者をダメ人間の刑事が逮捕しはするものの、それで何かが解決したのかといふと、実は何もかもが全く解決されてゐない。世界からはみ出してしまつた者ははみ出してしまつたままで、世界から零れ落ちてしまつた者は零れ落ちてしまつたままで、矢張り何もかもは全然解決されてはゐない。何一つ、誰一人救はれないままである。ダメ人間相手に罪を犯したダメ人間の犯罪者をダメ人間の刑事が逮捕したところで、駄目なものは依然として駄目なままなのである。事件としては一応ひとまづ表面的には解決を見たものの、実のところは何一つ、誰一人救はれぬままに、「切ない野郎だぜ」、とか何とか優作がミスタースリムをキメてその回は終る。
 要はさういつたビートで全篇貫かれた全十九話は、お利口に群れの中に留まる九十九人にとつては辛気臭く、時代遅れとしか映らない代物に過ぎないのかも知れないが、私にとつてはエモーショナルなことこの上ないドラマである。全てはダメなものがダメなままで、一切救はれず、まるで報はれず仕舞ひのドラマであるにも関はらず、それでもダメなもの達が精一杯美しく、精一杯カッコ良く描かれた「俺たちの勲章」が、愛ほしくて愛ほしくて仕方がない。文字通り、70年代から時代を越えて俺達に届けられた勲章なのでは、とすら思へて来てしまふ程である。たとへそれが、ブリキであつたとしても。

 全十九話の中でも、私がとりわけ一番大好きなのは、第十五話「孤独な殺し屋」(監督:山本迪夫/脚本:鎌田敏夫/ゲスト主演:水谷豊)である。
 水谷豊、若い頃は本当にカッコ良かつた。大好きである。私は優作も大好きではあるが、優作のセンを狙ふにしては、首から上の造作をひとまづ等閑視するものとしても、タッパは足りず、足も短い。その点水谷豊ならば、まあ全身全霊を込めて勘違ひでもすれば、それもそれとしてどうにか何とかなるかも知れない。恥も外聞もかなぐり捨てて吐露してしまへば、私は水谷豊になりたい。私は水谷豊が大好きである。が、大好きだつた、といつてしまつてもよい。
 滅茶苦茶なことをいふが水谷豊には、三十年前に死んで貰つてゐても構はなかつた。といへば筆を滑らせるにも程があるならば、引退して貰つてゐても構はなかつた。役者はテレビに出ては駄目である。といふのは些かならずいひ過ぎであるやも知れぬが、役者はテレビに染まつてしまつては駄目ではなからうか。現象論レベルで安直に金を儲けてしまふ、現し世の中で安穏と位置と名声とを得てしまふといふこともさて措き、それは矢張り、より本質的には今既にあるこの世界と、容易く相容れてしまふことを意味するのではないか。三十年前といふのは「熱中時代」の始まつた、昭和五十三年を指す。
 私が心から大好きな水谷豊は、心から大好きだつた水谷豊は、刑事ドラマでダメ人間の犯罪者を繰り返し繰り返し演じてゐた、それこそ同一シリーズに、ヘビーローテーションで何度も何度も犯人役で出て来てゐた頃の水谷豊である。因みに、を通り越して殆ど当然とでもいはんばかりの勢ひで、水谷豊はたつた全十九話の「俺たちの勲章」の中で、十五話の他に第八話の「愛を撃つ!」にも勿論犯人役として登場してゐる。
 「孤独な殺し屋」。役名等は失念してしまつたが、水谷豊は母親を殺し行き倒れかけたところを、殺し屋集団の元締めに拾はれる。以後元締めこと「おやじさん」の下で、アイス・ピックを得物に標的を仕留める殺し屋になる。
 そんな水谷豊が行きつけの定食屋の娘の気を惹かうと、冗談めいて「俺は殺し屋だよ」、と口を滑らせたところから、組織の保全を危ぶむ「おやじさん」から、別の殺し屋を差し向けられる羽目になつてしまふ。クライマックスは、放たれた刺客を全て返り討ちにした水谷豊が、海に浮かぶボートの上に「おやじさん」と二人。

 「俺、おやじさんに死ねといはれれば死んだよ。それなのに俺を殺さうとすることなんてなかつたぢやないか」。微妙にビブラートする、水谷豊のエロキューションが狂ほしく泣かせる。

 親を殺し、もうこの世界の何処にも身の置き処の無くなつてしまつた孤独な殺人者。「俺、おやじさんに死ねといはれれば死んだよ」。そこまで信頼してゐた最後のただ一人にすら、終には冷たく背を向けられる。最終的に、水谷豊は「おやじさん」をも殺し、追つ手にパクられる前に、常備してゐた毒薬で自ら命を絶つ。この時、この頃の水谷豊といふ役者は、誰からも愛されぬ者の哀しみを全速力で体現してゐた。そこが私は大好きだつた。誰からも愛され得ぬ者である、所詮この世界の中で上手く生きて行けやうもあらうか。ポケットの中には何も無く、隣りにも誰も居ない。この先も行く当てもあるものか。ただ、それでもさうした者のみが、この世界の何処にも寄る辺を持たない以上、たとへ非力で無様であつたとしても、独りで屹立し得た、独り屹立を試みた者のみが到達し得る真実といふものがあるとすれば。さうした者どもでなければ体現し得ないエモーションといふものもあつたとしたら。役者はテレビに染まつてしまつては駄目ではなからうか。今既にあるこの世界と、相容れてしまつては詰まらない、といふのはさういふ意味である。

 まるで話は飛んでしまふが、水谷豊絡みの大好きなエピソード。長谷川和彦が「青春の殺人者」を撮るに際して、水谷豊に声を掛けた時の遣り取りである。
 「お前、ジェームス・ディーンやらないか?」、
 「やります」。
 こんなカッコいい会話、映画の中でも聞いたことがない。


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