ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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イ・ヨンスク教授と、カミュ「異邦人」の読み方

2012-03-25 21:27:22 | 韓国・朝鮮に関係のある本
 いつものことながら、何冊も併行して読んでいる本の中で、質・量ともに圧倒的な1冊がイ・ヨンスク『「国語」という思想――近代日本の言語認識』です。今年(2012年)、岩波現代文庫から刊行されたのを機に読み始め、3分の2くらいまで読み進みました。最初に岩波書店から刊行されたのが1996年。サントリー学芸賞も受賞した本ですが、これまでつい読みそびれてきたことを深く後悔しています。

 この本については、読了した後で書くこととして(書ければ、の話ですけど・・・)、とりあえずの感想の1つが、どんな偉大な学者や偉大な作家でも、時代と場所(国など)を超えることはできないのだなー、ということ。別の言い方をすれば、学者や作家、あるいは彼らによる研究や作品等も時間軸と空間軸に規定されている、ということです。

 たとえば、21世紀に入った現代日本であれば、別にあのベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」(1983)を読んでいなくても、多くの人々が自分の属する「国」や「民族」が近代という時代の産物にすぎないことを認知しているでしょう。しかし100年前の明治末だと、イッパシのの学者・知識人でも、「国民国家」を客体化して捉えることができた人はいなかったんですね。ま、当然のことではありますが・・・。
 さらにその100年前に遡ると本居宣長がいて、「国民国家」だのナショナリズムだのという時代以前に「やまとごころ」を熱く追求したのは、むしろその点にこそ時代を先取りした大学者たる由縁があるというものでしょう。

 「時間軸に規定される」といえば、イ・ヨンスク先生のこの『「国語」という思想――近代日本の言語認識』が1990年代という時代に書かれた、ということ自体も「時間軸に規定」されているといえるでしょう。そしてもうひとつ、この本は韓国人の学者だからこそ書けた、つまり「空間軸に規定されている」という部分も大きいのでは、とも思いました。

 さてイ・ヨンスク先生、もう少し読みやすそうな本を書いてないかなと探すと異邦の記憶」(晶文社.2007)という本が横浜市立図書館にあったのでさっそく読んでみました。

 雑誌や新聞等に掲載された小文を集めたこの本の中で、とくに注目したのが「小説TRIPPER」1997年10月秋季号掲載のアジアの植民地から読むアルベール・カミュという一文。

 そこに、「自称文学少女だった」高校生のころ読んで以来、久しぶりに読み返したカミュの『異邦人』についての省察が記されています。
 要点は、次のようなものです。

 ところが、今あらたにカミュの『異邦人』を読み返してみると、これまで思いもかけなかったカミュの世界が肉薄してきた。そのなかで一番大きな発見は、『異邦人』はまぎれもない「植民地文学」であるということだった。

 ・・・以下、新潮文庫版『異邦人』の白井浩司の解説により、カミュが19世紀半ばにアルジェリアに入植した曾祖父の血を引く貧しい労働者階級の植民地4世であること、そして「アルジェリアのフランス人」であることにアイデンティティをおきながらも、「故郷」はあくまでもアルジェリアであり、アルジェリア人であることに誇りと愛着をいだいていたようである等々のことが記されています。

 その上で、『異邦人』の中でムルソーに殺されたアラブ人も含め、すべてのアラブ人が名前も明らかにされない非人格的な集団であること、そればかりか「太陽、砂浜、岩石、光、風といったアルジェリアの風景のなかに溶けこむ自然物と化してしま」い、そして「かれら無名の集団は、これらアルジェリアの風景と同様に、ムルソーをしだいに追いつめる強迫観念となる」ことが指摘されています。

 さらに続けて、次のように考察しています。

 この描写でもわかるように、ムルソーを絶体絶命の状態においやったのはけっして個人としてのアラブ人の殺意ではない。むしろ、太陽と砂浜にとけあった無名の集団としてのアラブ人の幻影におびやかされたというべきだろう。そして、殺されたアラブ人の名前がなんというかは、取り調べや裁判のなかでもけっして明らかにされない。まるで殺されたのは無名の物体かなにかのように。 
 まるで、いくらふりきっても執拗に追いかけてくる幽霊のように、アラブ人たちはムルソーにつきまとう。これは、植民地における支配民族が被支配民族に対して感じる恐れの表現ではないだろうか。


 ・・・実は私ヌルボ、40年以上も前、サルトルがあーだ、カミュがこーだ、実存主義がどーだといってた頃に読んで、ご多分に漏れずいたくカンドーした口でして、そして今回イ・ヨンスク先生のこの一文を読んだのが40年の年月を超えての目ウロコ体験だったというわけです。これが書かれてからも15年も経ってしまっているんですねー・・・。時代に遅れているなー。

 ネット検索してみると、jchzさんという方も、ご自身のブログで「『異邦人』の舞台がなぜアルジェリアなのか、なぜそこにフランス人の主人公がいるのか、彼はアラビア人(アラブ人)の集団をなぜ恐れるのか(植民地における支配民族が、被支配民族の怨念に対して感じる恐れではないか)など、分かるわけもなかった」と書いていらっしゃいます。(2007年ですが。)

 ところで、「異邦人」については、かのエドワード・サイードが、ポストコロニアル批評の立場から、このような画期的な視点の転換的読み方を早くから提示している、ということです。

 これに関して、上智大の水林章教授は「サイードとともに読む『異邦人』」(『みすず』2005年6月)と題した論稿をご自身のサイトに掲載しています。(イ・ヨンスク先生の上記の「卓抜なエッセイ」も紹介されています。)

 ここで紹介されているサイード『文化と帝国主義』(1998)の中で、なるほど、と思った部分を孫引きします。

 カミュの小説の細部から、かつてはカミュの小説とは無縁だと思われたものを見いだすことができる、と。無縁だと思われたものとは、1830年に開始され、その後、カミュの生きていた時代ならびにカミュのテクストの構成そのものにまで流れこんだ、きわだってフランス的な帝国主義支配の現実なのである。 
 これは失われたものを取り戻す解釈ではあるが、復讐を意図してはいない。ましてや、わたしは事後的にカミュを非難しようというわけではない。・・・・わたしがおこないたいのは、フランスが体系的に構築したアルジェリアの政治地理 — 完成するのに何世代にわたる年月を要したのだが — のなかの一要素として、カミュの小説をたちあがらせることだ。


 次に、この「サイードとともに読む『異邦人』」を読んだ方のブログ<読書な日々>の記事も私ヌルボ、興味深く、かつ共感を持って読みました。たとえば、次の一節。

 実存主義や構造主義の嵐のふきあれる時代に、とてもサイードのように、被支配者の側から植民地問題を見る視点でもって、カミュの作品を批判的に読むということはできなかった。
 カミュの『異邦人』や『ペスト』などの作品がアルジェリアの乾いた風土にその舞台を置いているということも、それはムルソーのような無関心を生み出す風土として位置づけるだけで、そこに住む人々にとっては支配者の言説でしかないということには、まったく意識が向かなかった。
 それにしても、私の妻の母親は中国のチンタオ(青島)で20歳まですごし、終戦直前に日本に帰ってきた引き上げ組なのだが、中国に20年も暮らしていながら、まったく中国語がしゃべれないという事態に、いささか不思議な思いをしたことがあるが、それがいったいどういう意味をもっているのか結婚したての頃は分からなかった。しかし今となっては、それが支配者の人間として、けっして現地の中国人と接していたわけでもないにも関わらず、中国語は被支配者の言語として、習得する必要性をまったく認めなかったのだということが分かっている。これが植民地支配者ということなのだろう。


 ・・・この記事の後半、「20年も暮らしていながら、まったく中国語がしゃべれない」ということについて。ヌルボも日本統治下の朝鮮で生まれ育った、あるいは長年暮らした日本人の多くが朝鮮語がほとんど話せないことについて、同様の疑問を持ったことがありました。
 その後、それがむしろ支配民族の「自然なありよう」であることに思い至りましたが、まさに上述の植民地アルジェリアでのフランス人の姿に重なります。

 ところで、ヌルボがふと思ったことは、90年代後半にイ・ヨンスク先生がこのような『異邦人』の読み方することができたのはなぜなのか、ということです。
 ①韓国人だから、か?
※サイードの思想形成には、「キリスト教徒のパレスチナ人としてエルサレムに生まれた」ことが大きく作用していると考えられます。
 ②日本にやってきた韓国人だから、か?
 ③韓国人とは関係なく、ご自身の資質によるもの、か?
 ④以前からサイード等を読んできたから、か?
 ・・・どの要素が大きく作用しているのでしょうか?

 ①に関連して、過去「被支配民族」だった韓国人は、この小説を読むにあたって、日本人よりも「アラブ人の無名性」に気づきやすいのかな? ということも考えて、少しばかり韓国の書店サイトでこの小説の読者レビューを読んでみましたが、全然そんなことはなさそうです。(少しなので断定はできませんが。)

 しかし、90年代後半に、日本に来ている韓国人の学者が、このような読み方をした、ということは、そのまま時間軸的にも空間軸的にもジグゾーパズルの1ピースのようにぴったりとあてはまっているように思われます。

サイード著「オリエンタリズム」に対するアマゾンの読者レビューの中に、「例えば「韓流」ブームの裏にこの感情がないかどうかは批判的に検討されるべきだろう」という少し気になる記述がありました。


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