ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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韓国ドラマ「英雄時代」を読み解く[2] 書堂、北間道など

2010-04-09 23:39:57 | 韓国ドラマ
 ドラマ「英雄時代」、ようやく第2話後半から時代が1930年にさかのほります。

 舞台は江原道の通川。鄭周永の経歴そのままです。
 江原道といっても現韓国領ではなく北朝鮮領。鄭周永のウィキによると通川郡松田面峨山里とあります。
 鄭周永の号の峨山(アサン)や、現代峨山という社名はこの地名からきているんですね。

 以下、ドラマ中で私ヌルボの目にとまった点を列挙します。

①主人公テサンの祖父は書堂(ソダン.서당.少年対象の学塾)の先生で、父は農夫だったとか。
 書堂は民間の庶民教育機関。とくに開設に許可は不要で、日本の寺子屋同様、今でいえば学校というより塾に近いですね。生徒は7~16歳の少年が中心ですが、20~25歳くらいの成人もいました。「千字文」や、「論語」等をテキストに、基本的に儒学を教えたといってよいでしょう。ハングルは蔑視されていたので、教わった文字は漢字のみ。
 韓国の時代劇等で、たまに子どもが書堂で「千字文」で漢字を勉強している場面があります。その最初が「天地玄黄」の4文字ですが、これを「ハヌル(하늘)天(チョン)、タン(땅)地(ジ)、コムル(검을)玄(ヒョン)、ヌルル (누를)黄(ファン)」というように音読して覚えていくわけです。
 韓国のウィキでは、書堂は高麗時代に始まって朝鮮時代まで続いたとありますが、日本の植民地時代にも、このドラマに描かれたり、下の写真に写っているように存続していました。今も年配の人の中には、学校に行かず書堂に通った人もいるようです。

  【慶尚北道星州郡:道山書堂の建物は道指定文化財

  【往時の書堂のようす

②「粥も食べられず北間島(プッカンド.북간도)に行く人もいるんだ」という言葉が村人の会話中にありました。
 北間島とは、豆満江以北の旧<満洲>、現在の中国吉林省東部の延辺朝鮮族自治州一帯をさします。詩人尹東柱もこの地(現在の龍井市)出身です。
 日本の植民地時代は、抗日運動の拠点ともなった所です。ちょうどこのドラマの時代にあたる1932年、日本のプロレタリア詩人槇村浩が反戦詩「間島パルチザンの歌」を発表しています。
 現在も多くの朝鮮族が居住していますが、「日帝の圧政から逃れて来た」というよりも、歴史的にはもっと古くから、飢饉等で食料事情が厳しくなると豆満江を越えてやってきたということのようです。
 私ヌルボが2004年延辺方面を訪れた時も、現地のガイド氏は「以前こちら(中国側)が苦しい時は朝鮮半島に行った人たちがいたものですが、この頃は北朝鮮から来る人が多くなっています」と語っていました。昔から、豆満江は(政治状況にもよるでしょうが)そんなに命がけで越えるような国境というものでもなかったと思われます。

※北間島の<島>とは、本来的には豆満江の中洲島をさしていたようです。

※北間島一帯は、歴史的にみて中国のナワバリなのか、それとも朝鮮のナワバリなのか、という問題は今も中韓両国の間でくすぶり続けています。この件については、ウィキの間島の項目中の間島問題、あるいはウィキの東北工程の説明を参照されたし。このブログでもそのうち取り上げます。

③テソンは病気の妹に「町に行けば日本人の医者がいる」と言います。
 日本人の医者は夜でも急遽駆けつけてくれたり、貧しいようすを見て診察料はいらないと言ったりします。「英雄時代」についてのウィキの説明文中に、「感情的な反日描写ではなく日本統治下の社会的な構造、人々の暮らしを素朴に表現するに留めている」とあるのはこの辺の描写のこともそしているのかも・・・。

※6月20日の追記
 6月20日の記事で、書堂について再びとりあげました。
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