風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

『世界はときどき美しい』

2007-10-08 00:40:39 | 映画

天にまします我らの父よ
天にとどまりたまえ
我らは地上に残ります
この世はときどき美しい
~ジャック・プリヴェール「われらの父よ」


長州ファイブの松田君がなんかよかったので、TSUTAYAで新作のこれを借りてみました。
しかし。
・・・・・・この映画がお好きな方、ごめんなさい。
私はダメでした、この映画・・・。
良かったのはラストにテロップで出る上記の言葉くらい(つまり、良いのは脚本じゃなくジャック・プレヴェール)。

たとえば。
1話目の主人公(38歳ヌードデッサンモデル)がこういう言葉を言うのですよ。
「人からもらった鉢植えはすぐに枯らしてしまうのにこんな雑草が愛しく感じてしまうなんてなんだか寂しい女みたいだけど、雑草にもちゃんと名前があるのを知ってから、私は私自身ではなくて、私の体を構成する細胞の一つ一つ、一匹一匹が命の仲間をみつけたような慎み深い気持ちを抱くようになった。といっても私は別に宗教にかぶれてるわけでも、引きこもった暗い女でもない」
まず、「名前があるのを知ってから」という感覚が私には理解できない。よくある「こんな小さな花にも名前があるのね」という感じのことを言いたいのでしょうが、細胞レベルで共感を感じるようなときに名前にどんな価値が?
私は子供の頃から木や草に細胞レベルの共感を感じていましたが、それに名前がついているかどうかなど頭によぎったこともありません。名前なんて人間が勝手につけたものにすぎないもの。
そしてそういう雑草を命の仲間と感じる感覚を「宗教」とか「引きこもった暗い女」に結びつける発想も、人間が小さいなぁと思いました。

また、4話目の松田君演じる男の子は天文台に勤めてるんだけど、そこの同僚がこんな台詞を言います。
「生命の全くない宇宙なんてさ、想像したことある?宇宙を認識する者がだーれもいない宇宙なんて、そんなナンセンスないよな」
あまりの発想の小ささに、何がナンセンスなのか一瞬わかりませんでした。
「認識する者のいない宇宙」がどうしてナンセンス?
人間がいようがいまいが宇宙はそこにある。
宇宙は人間のために存在しているわけじゃないのだから、そんなのあたりまえのこと。私はそこに安心感さえ感じる。

この監督の、「認識する者」の存在や「名前がついてるもの」であることを前提にしてしか世界を見ない感覚は、なんて狭いんだろう。
私達は所詮人間以外の何者でもない。そしてみんな一人一人だ。
他人の想いも、宇宙も草木も、「私」を通してしか感じることはできない。
だから孤独だ。
それでも私は「ときどき」、人と触れ合うとき、草木の匂いを感じるとき、星空を眺めるとき、自分と違う時間の流れとふと交差したとき、世界は美しい、と感じる。
その私の感覚は、この監督が感じているらしいそれとは、どうやら全く違う。

まぁアマゾンレヴューは皆さん高評価のようなので、単に私には合わなかったというだけかもしれないけれど。

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