風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

ロンドン交響楽団 @ミューザ川崎(9月30日)

2015-10-03 00:56:58 | クラシック音楽






クラシックの楽しさと美しさを教えてくれたお二人(ベルナルト・ハイティンク&マレイ・ペライア)に7年ぶりに再会してまいりました(知り合いじゃないが)
ちなみにワタクシのクラシックコンサート鑑賞歴は、次のとおり。
2008年 シカゴ響@ロンドン @Royal Albert Hall ※Bernard Haitink、Murray Perahia (Pf)
2008年 ロンドンフィル@ロンドン @Royal Festival Hall ※Vladimir Jurowski、Hélène Grimaud(Pf)
2008年 フィルハーモニア@ロンドン @Royal Festival Hall ※Vladimir Ashkenazy、Simon Trpčeski (Pf)
2014年 イスラエルフィル@東京 東京文化会館 ※メータ
ザッツオール
このうちロンドンフィルとフィルハーモニアはシカゴ響に感動した勢いであの感動をアゲイン!とチケットを買ったのだったが、同じ感動をもらうことはできず、演奏もほとんど記憶に残っておらず(咳の嵐の客席だけをよく覚えてゐる・・・)。あの頃はクラシック音楽が指揮者やオケによってこれほど演奏が変わるとは知らず、なぜあのロイヤルアルバートホールでの演奏にはあれほど感動したのに今回は感動できないんだろう?と不思議だった・・・。そしてイスラエルフィルのときは、目的がBBLでしたし。あ、バレエ公演はほぼ生オケで観てますが。
なわけですので、以下は末尾に全て「~と超ド素人の私には感じられた」と脳内補完してお読み願いますです。

ハイティンクとペライアって似てる、と思うのです。
7年前にペライアのピアノを初めて聴いたとき、「とてつもなく美しい光の粒が降り注いでくるよう」だと感じました。モーツァルトのピアノ協奏曲24番は短調ですから闇を感じさせる曲ではあるけれど、ペライアの指から紡ぎだされるそれはやっぱり「光」で。でもそれは暗闇を知らない光ではなく、闇と共にありながら、それでもなお柔らかさと軽やかさを放つ、そんな光。
上の映像でハイティンクが「ペライアが弾くと、突然曲の意味が明らかになり、人生が素晴らしく見えるのです(okですから、正確には人生も悪くないと思える、でしょうか)」と言っているけれど、すごくよくわかる。そしてそれと同じものを、私はハイティンクに対しても感じるのです。

死ぬ前に聴きたいのはこういう音楽だなぁと思う。決してドラマティックな人生ではなかったとしても、辛い事もいっぱいあったとしても、最後には「だけどそれでも、美しい世界だったな」って心から思えそうな、そんな音楽。それは神の世界の美しさではなく、この地上の、人間の世界の美しさなのだと思う。『かぐや姫の物語』でかぐや姫が最後に振り向いたときに見る、ありのままの地球の美しさ。闇も体温もともなった、地上の世界の美しさ。
ハイティンクが若い指揮者たちを指導したときに、ブルックナーの交響曲第7番を振る生徒に、「神ではなく山について、もっと考えを巡らせなさい」と言ったそうです。その言葉がすごく納得できる、そんな音楽。

30日の演奏について。

「モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番ハ短調」
私はクラシックには全く無知ではありますが、ロンドン響はおそらく一流と言われる楽団の一つなのだろうと思います。
けれどこの夜のロンドン響とペライアのモーツァルトは、互いが互いの良さを増幅し合うような、高め合うような演奏をできてはいなかった、ように感じられました。。オケと指揮者のどちらが理由かはわからないけれど、ペライアの音にオケが応えきれていないように感じられたのです。私には(←小心者^^;)。もちろんそこには聴く側の好みもあると思うけれど。。
んー、指揮者とピアニストの間ではどうだったんだろう。短い時間なのでよくはわからなかったけれど、この二人は通じ合っていた、ような気もするし、そうでなかったような気もするし(時々ペライアがもどかしげに見えたのは気のせいかしら)。
コンチェルトって、主になる楽器とその他の楽器が掛け合いのように演奏をするじゃないですか。その二つの個性が相乗効果で高まり合って、融け合って、天上の美しさを見せてくれるのがたまらない魅力なのだと思うのです。そして7年前のシカゴ響×ハイティンク×ペライアのときは、それがはっきりと感じられました。
でもこの夜はピアノに比してオケの主張があまりに控えめで・・・。好意的に捉えればそれがこの団の個性なのかもしれないけれど、協奏曲としてはどうなのでしょう・・・。
とはいっても、ペライアのピアノはやっぱり私の大好きなピアノでした。この夜は7年前の自在で軽やかな光というのとは少し違い、闇の方をより強く感じたけれど、それでも最後に残ったのはやっぱり光だった。上の映像でペライアはこの曲を「一番好きなレパートリー」と言っていますね。全体としては決して私の理想的なコンチェルトではなかったにもかかわらず、それでも大満足と思えてしまうのは、自分はこの人のピアノがやっぱり好きなのだなぁ、と再確認できたから。

「ブルックナー:交響曲第7番」
7年前のシカゴ響でモーツァルトとセットだったのが、ショスタコーヴィチの交響曲4番でした。それも素晴らしい演奏だったのですが、だからこそといいますか、当時の私、「このオケならどんな指揮者が振ってもそれなりに高水準の演奏を自力でやれちゃうのではなかろうか」とも思ってしまったのでございます。なにせまともにオケを聴くのは初めてでしたから、指揮者とオケがどの程度影響し合うものなのかが全くわかっておりませんでした。言い換えれば、どこまでが指揮者の力でどこからが奏者達自身の力によるものなのかが素人にはわかりにくいほど、オケ自体(奏者達)の表現力が豊かに感じられたんです。
で、今回。前半のモーツァルトでは表現が控えめだったロンドン響の皆さんとハイティンクによるブルックナー7番。
ド素人のワタクシは当然この曲を聴いたことがございませんでした(威張ることじゃない)。
しかしチケットを買ってから、「やっぱり予習くらいは」とCDを聴きました。有名指揮者による有名楽団の録音です。
1回目:1楽章の途中で寝ました・・・
2回目:2楽章の途中で寝ました・・・
結局一度も最後まで聴き終えることなく、当日になってしまいました。まぁ今回のワタクシのお目当ては前半のモーツァルトでしたから、ブルックナーに関しては「寝てはいけない」くらいが今夜の目標でありました。

それがまさかの―――


ものすごく感動した。。。。。。。。。。。。。。。


正直最後まで、ロンドン響の音は本当の意味での私の好みとはいえなかったのですけれど(なんというか、個々の音楽的な主張の少なさのようなものが・・・)。
でも、すごくよかった。。。
第1楽章の半ばあたりまではワタクシ、割と醒めて聴いておりました(ただし最初の弦のトレモロの美しさにはゾクゾクした)。「やっぱりこの楽団は私には合わないんだわ。ハイティンクさんもどうも7年前のようではないし」と。
でもなぜか第一楽章の後半あたりから不意に音に変化が感じられて、「ん?なんかハイティンクさん、ノってきてるような…?」となり、「あれ?なんかオケ、それに応えようとしてる?」となり、CDの時にはとうに睡魔に襲われていた第二楽章ではすっかり私の体は前のめりに(周りの迷惑にならない席でしたので)。そしてそこから最終楽章のラストまで、大きな波に攫われるように一気に連れて行かれました。興奮してるのに呼吸とめちゃって、よく呼吸困難にならなかったわ^^;

何が言いたいかと申しますと、オケでの指揮者の役割というものがすごくよくわかった公演だったのです。
指揮者という存在がどんな風にオケの可能性を引き出し、どんな風に彼らをコントロールし自分の望む場所へと誘導し、そしてどんな風に全体としての大きな宇宙(70分間の一交響曲の世界)が作り上げられるのかがわかった気がした。
指揮者の一本の棒の動きでどんどん奏者が変化していく様子が、目に見えるように伝わってきた。
指揮者の意思を奏者が正確に理解して音で応え、指揮者にそれが伝わり、双方が心からその演奏を楽しんでいるその熱がステージから伝わってきた。ロンドン響ってこんな演奏もやれるのか、と驚いた。
7年前のシカゴ響が私にある種の芸術の高みをみせてくれた演奏だったとするなら、この夜のブルックナーも間違いなく、芸術の高みの一つの姿だと思った。
歌舞伎を観ていると時々、わかりやすく大袈裟な演技をすれば客は感動すると勘違いをしているらしき役者と、それを熱演と受け取り大喜びしている観客を見かける。でも本当の「熱さ」って「激しさ」ってあんな薄っぺらい表面的なものではない(ということを同じく歌舞伎から教わった)。おそらくクラシックの世界にもそういう現象はあるのではないかしらと想像するのだけれど、この夜のロンドン響は最後までそういう演奏をしなかった。それが私にはとても心地よく。それはおそらくハイティンクがそういう指揮者だからではなかったろうか、とド素人の私は勝手に想像するのです。

この曲を作曲したブルックナーの“心”がミューザのホールいっぱいに広がったように感じられた。
それを見せてくれたのは、ハイティンク。
あんなに空席が多かったのに(サントリーホールは完売でしたが、ミューザはかなり空席があったのです。3階席なんてガラガラだった)、あんなパフォーマンスをしてくれたハイティンクさんに本当に感謝。それだけの金を払ってるんだから当たり前だろと思う人もいるかもしれないけど、それが決して当り前ではないことを私はここ数年のアホみたいな数の舞台鑑賞経験を通して知っております。
まさに“渾身のブルックナー”。随分大仰だなと聴く前は思ったこのコピーに偽りなしだった。

ところで、クラシックコンサートって安易にスタオベしないのですね。とてもいいと思います。だがしかし習慣のようにカテコやスタオベをするのには全くもって反対ですけれど、「これだけのものを聴かせてもらったのに拍手だけなんてありえん」と心底思い、一人でも立ち上がってしまおうかと思いかけたのです。でもクラシックコンサートのマナーにまったく詳しくない新参者が、本物の長年のクラシックファンの方々の気分を害していい権利はどこにもない。郷に入っては郷に従え。
と一階席の方々の様子を高層階から大人しく見守っておりましたところ、数回目のカテコで一番前の真ん中に座っておられたオジサマ(この方、すんごい楽しそうに演奏を聴いておられた)が不意にとてとてとてっと通路へ小走りに移動され、スタオベされました。ふと見ると、サイドの(後ろの迷惑にならない)席の方達も立っていて。そこで私も安心して立ちました(同じくサイド席でしたので)。そしたらすぐに隣の男性も立った♪
やっぱり感動した気持ちはわかる形で伝えたい。
ちなみにそのオジサマ、客電がついてオケもはけて客が帰り始めた後も一人率先して拍手をされていて、そしたらハイティンクさん、もう一度出てきてくださいました。そのとき周りに残っていた客が駆け寄っていて、いい光景だったな(*^_^*) 

ハイティンクさん、舞台袖にはけられるとき、少し足をひきずり気味でした。演奏を終えた途端に急に実年齢に戻られたというか、力を使い切ったという感じで。曲の間は、楽章と楽章の間のわずかな時間座るのみで、ずっと立っておられました。
86歳なのですね。私の祖母と一歳違いです。
にもかかわらず、今夜のブルックナーに悪い意味での老いは全く感じなかったなぁ。
舞台の上にいたのは紛れもなく、一人の芸術家の姿でした。

※LSOのtwitterでこの夜のブルックナーを"magisterial performance"って言っていましたけど、こういう表現もあるんですねー。英語から遠ざかりすぎな私。。

※今回のプログラム(私はお財布が限界なので買っていないけれど)の中でハイティンクは「(ブルックナーの中で)特に気に入っているのが第7番です」と語っているそうです。

【KAJIMOTO】
●ロンドン響来日直前!Vol.1―― ハイティンク、ペライアからの動画メッセージが届きました。
●ロンドン響来日直前!Vol.2 ――ハイティンクとロンドン交響楽団
●ロンドン響来日直前!Vol.3 ―― ハイティンクの来日歴
●来日公演に向けて / ロンドン響の現在(6・最終回)~ ハイティンクとともに達した高み

ハイティンク・ロンドン響 至福の瞬間 ブルックナー7番(毎日新聞)



Mozart - Piano Concerto No 24 in C minor, K491 by Murray Perahia

こちらが、7年前のPromsの録音です。BBC radioより。私のダビングの下手さとyoutubeにアップするためのファイル変換でだいぶ音質が下がってしまいましたが。。。ヘッドホンで音量上げて聴いてね^^;
ペライアが20年ぶりにPromsに帰ってきた記念すべき夜の演奏でもあります。しばらくしたらたぶん撤去すると思いますので、ご興味のある方はお早目にどうぞ。


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