風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

梅若玄祥のスリーステップで学ぶ能 『葵上』 @横浜能楽堂(9月7日)

2014-09-08 20:07:54 | その他観劇、コンサートetc



こんばんは!
今宵は旧暦の8月15日、中秋の名月ですね
職場の中国系マレーシアンの女の子から、お母さんが送ってきたという大きな月餅をもらいました。
英語では中秋の名月のお祝いはmoon festivalって言うのですね。月餅はmoon cake。綺麗な響き^^

さて、昨日は人生3度目のお能鑑賞に行ってまいりました。勝手に“地元で古典芸能”第二弾です♪
4月の『二人静』でド素人の私にも無限の静寂を体感させてくれた梅若玄祥さん。この方になら能の楽しさを教えてもらえる気がする!と。

とはいえこの『スリーステップで学ぶ能』、チラシのコピーでは、

「難しい」「分からない」と敷居が高く思われがちな能。確かに貴族・武家社会の中で洗練されていった能は、現代人には「難しい」と感じさせる要素が沢山含まれています。しかし、それらの要素を押さえてしまえば、後はそれぞれの感性で楽しむのみ。
本公演では、まず、梅若玄祥、馬場あき子、三田村雅子、各界の第一人者として活躍する3人が、源氏物語を題材とした能の代表曲「葵上」をテーマに、「題材となる作品世界」、「詞章に込められた意味」、「謡や型が表現するもの」についてスリーステップで徹底的に講義。その後、舞台鑑賞を行うことで、能の世界が分かりやすく理解できます。まだ能を観たことがない方から、もっと深く能を知りたい方まで、幅広い方におススメです。

などと書いてあったから「シテとは、ワキとは」から説明してくれるのかと期待して行ったら、どう考えても能も源氏物語もある程度知っている人向けだった^^;
三田村さんのトークからしていきなり「このお能は桐壺帝が退位して朱雀帝の世になり、光源氏の宮廷での地位が傾き始めた頃のお話です」から始まってギョッ
源氏物語は好きなお話なので幸い付いてはいけましたけど。そして周りのお客さんも、能も源氏も初心者っぽい方は一人もおられなかったですけど(なんで!?)。
お値段4千円で、10時~16時まで、休憩を挟みながらどっぷりと能と源氏の世界に浸ることができました♪

以下、玄祥さんのトークの覚書。すごくお話し上手な方ですね!

・(本日使われる江戸初期の白般若の面を見せてくださりながら)後にもいくつか作られた白般若面のオリジナルともいえるものは観世流のこちらと、喜多流にもう少し黒いものがあって、その二つがとても貴重なもの。『葵上』は面を選ぶのが非常に難しく、品のある面でないと恨めしそうに見えてしまう(白般若にも品のないものもあるそうです)。なお『道成寺』では赤般若、『黒塚(安達ケ原)』では黒般若が使われる。

・葵上の小袖を運ぶときに姫を抱くように扱う後見が偶にいるが、それは間違い。気を消して小袖を運び、舞台正面で広げる。このとき初めて小袖は葵上になる。巫女も橋掛かりから出てきたときはまだ「見えないもの」であり、舞台の定位置に座ったときに初めて観客の目に見える存在になる。

・能ではシテはいつもワキと向かい合ってるように思われるかもしれないが、この作品ではシテは葵上を見ている。最初の破れ車から降りた場面でも、始めはじっと葵上を見つめ、それから巫女(この場合はツレ)に視線を移す。

・この作品のシテは最初のうち殆ど動かない。最近は新作能などで動きの多さを求められがちだが、能はじっと動かない時間もとても大事。そのときに観る側は想像力を働かすことができる。とはいえ動かずに場を持たせられるのは、よほどの名人じゃない限り15分程度が限界。

・父が祖父から稽古を受けた際、蛍を追う部分を繰り返しやらされ、ちゃんと蛍を目で追っているのに何が駄目なのか理由を聞いたところ、「お前のはただ型どおりに動いているだけで、心が伴っていない。御息所がどういう気持ちで蛍を追うのか、その心を考えて動かないと、この後の”光の君とぞ契らん”で正面を向くときの光の君への想いが観ている人に伝わらない」と祖父は答えた。

・御息所の深い哀しみを出したい。謡と合わなくなるところもあるかもしれないが、そう演じたい。

・(能の世界には)シテは沢山いるが、ワキは大量生産できないからとても大事。シテは色々動いたりするからなんとかなる。でもワキがしっかり受けてくれないと、シテはうまく演じることができない。昨日高崎で『頼政』を演ったが、ワキの宝生(閑)さんがじっと目を見て受けてくださったから、やることができた。それが涙が出るほど嬉しく、ワキの重要性は知っていたつもりだったが、昨日は身をもって知った。ホールの会場で本来なら条件は悪かったはずだが、とても幸せな舞台だった。

・能では開演前に楽器の調子を合わせるが、それは本番と同じトーンで行われるので、ぜひ耳を澄まして聴いてもらいたい。


【葵上】

ツレの照日巫女は、川口晃平さん(あ、私と同い年だ)。
橋掛かりから登場されたときの歩き方、この世のモンじゃありません感がsugoi。こんな歩き方で真夜中の犬神家の廊下とか歩かれたらトイレ行けないわ(>_<)!「見えないもの」どころかガン見してしまった。

そしてそして玄祥さんの六条御息所、すごかったぁ・・・・・・・。
前回の静もそうだったけど、今回も思い込みフィルター不要で自然と三十前後の若い女性に見える!苦しい恋に身を焦がしている女性に見える!あの体格なのに!
切々と涙を流す仕草が切なくて、可哀想で・・・。
そして上の話にもあった、蛍を追う場面。

恨めしの心や、あら恨めしの心や。人の恨みの深くして、憂き音に泣かせ給ふとも、生きて此の世にましまさば、水暗き、澤辺の蛍の影よりも、光る君とぞ契らん

(恨めしい心よ、なんと恨めしい心よ。この深い恨みでどんなにあなた(=葵上)を泣かせても、あなたは此の世に生きてさえいれば、暗い水の沢辺に飛ぶ蛍よりも光る、光の君と契るのでしょう)  ※「水暗き~影よりも」は序詞

まさか能で泣かされそうになるとは。。
「光る君とぞ契らん」のところ、玄祥さんが「正面を見る」って仰ったとき、なぜか私はシテは葵上(ということになっている小袖)を見るのだろうと思ったのです。でも違いました。御息所は本当に正面(客席の方)を、何もない空間を見つめるのですね。
このとき彼女の視線の先に、光の君の姿が見えました。正確には、御息所の目には光の君が見えているのがわかりました。かつて彼女を愛してくれた、光の君の姿が。
先ほど玄祥さんはこの演目で御息所の視線は葵上を見ていると仰ったけれど、舞台を観て、彼女の心はその向こうにいつも光の君を見ていたのだと感じました。

本当は誰も恨みたくなんかない。光の君がもう自分を愛していないこともわかっている。よくわかっていても、想いを断ち切ることができなくて。
どんなに忘れたくても忘れられない、抑えても抑えきれなかった想いはついに限界を超え、彼女自身の意識しないところで、生霊となって葵上のもとへ飛んでしまう。
そんな自分を誰よりも恥じ、恨んでいるのは彼女自身。
鬱蒼とした水暗き沢辺は、きっと彼女の心。そこに光る蛍のような、光の君。
草いきれの湿った空気や、深い暗闇をぽぅと照らす光を、私は確かに感じました。
御息所は、きっと誰かに救ってほしかったのだろうと思う。こんな愚かな自分を止めてほしいと望んでいたのだと思う。もう自分では止められないから。最後に調伏してもらえたとき、ようやく彼女の心は平安を得ることができたのでしょう。
今回は白般若の面だけでなく泥眼の面(こちらは比較的新しいものだそうです)もどこか透明感のある美しさだったので、一層そう感じられたのかもしれません。帰宅してネットで泥眼を検索したら、もっとオドロオドロしい表情のものもいっぱいあることを知りました。なるほど、面選びって大切なのですね。

自分の中の、自分でも意識しない、コントロールできないもう一人の自分。
生霊というと特別なものに聞こえるけれど、きっと誰の中にもそういうものはあるのではないかしら。

50分間、本当に別世界にいるようでした。
やっぱり能ってすごい。

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