ずっと思っていた。
病気になりたい、と。
いや、こんな言い方すると不謹慎なのはわかっている。
世の中には病気になりたくなくても病気になって辛い思いをしている
人がたくさんいる。
でもここでは正直な気持ちを書かせてください。
正直、本当にそう思っていた。
病気と言っても、癌で辛い闘病がしたいとか、脳の病気になって不自由に
なりたいとか、もちろんそんな風に思ってたわけじゃない。
都合の良い話かもしれないけど「とにかく安静が必要です、その日の体調に
合わせて行動してください」という風になりたかった。
基本ダラダラしていたい。
基本何もしたくない。
かと言って死にたくなるわけでも、ずっと憂鬱な気分に支配されるわけでも
ない。
少し前に気分が異常に落ち込んだ時は正直「私うつかも」と思ったし、
ここにも「もうそういう状態かもしれない」というようなことは書いたが、
その日によって気分も違うし体調も違うので、基本的にはやはりうつで
はないと自分では判断してきた。
回避性パーソナリティ障害のことが書かれている本のサブタイトルに
「生きるのが面倒な人」というのがあり、それを最初に見た時は「ちょっと
心外だな」という印象を持った。それは病気によるものだとしていても、
なんかやはり「駄目な人」と言われている気がしたのだ。
しかし私がずっと感じていた「基本何もしたくない」というのも、
もしかしたら回避性パーソナリティ障害の症状だったのかもと思うと
合点がいく。
私は甲状腺疾患があり甲状腺腫瘍も持っていて、甲状腺機能が下がれば
体がダルい等の症状は出るのだが、まだその数値が正常なので、数値上
は甲状腺機能は正常に働いているということになる。
なので最初に甲状腺に対する自己抗体が見つかった時は「やっぱり」と
思ったが機能が正常に働いているのに「じゃあ、このダルさはなんで?」
という疑問が残っていた。
私は仕事をしていないので専業主婦ということになる。
お金をもらって働いているわけではないので、基本的には自分の好きな
ように家を回していけばいいだけ。
それでも私はどこか「自分は外で働いているわけではないのだから」
「私は専業主婦なのだから」という気持ちがあって、体調が多少悪く
ても、やる気が出なくても、ご飯を頑張って作ったり、旦那のお弁当を
用意したりしてきた。
でもやはり気力を振り絞ってやってきても、そのシワ寄せのような
ものはあって、自分の中で「なんでここまで頑張らなきゃいけないん
だ」という思いはあったと思う。
辛いよ、と。
だから、動ける時には動いて動きたくない時は動かない、もっと言えば
基本的には何もしなくていいですよ、できる時だけできることをすればいい
ですよ、という状況になりたかった。
「病気なんだからしょうがない」という大義名分が欲しかったのだ。
要するに、できないこと、できない時があってもそれは私が駄目な人間
だからではなく、病気なんだからしかたがないと許されたかったし、
自分でもそんな自分を許したかった。
でも長年、病気でもないのにそうすることはできず、ひたすら気力を
振り絞って頑張ってきた。
今も旦那がどこまで回避性パーソナリティ障害を理解してるかもわから
ないし、正直まだ私も完全には自分を許してあげてはいないのかもしれな
い。
が、少し前に回避性パーソナリティ障害だと確信的に思う前よりは断然
気持ちは楽になった。
日頃の生活のことだけじゃなく、youtubeなんかを見ていても、私は
どこかで他人と比べては「なんで私はこうできないんだろう」といち
いち落ち込んでいたことに気がついた。
例えばめちゃくちゃ丁寧な暮らしをしている主婦がいる。
その人はyoutubeの撮影も編集もしているし、外でも働いている。
その上でその丁寧な暮らしをしている。
私には到底そんなことはできない。
みんなきっとそういう目でこの人の生活を見ているんだとは思う。
でもみんなどこかでは自己肯定感がちゃんとあって、私が見て「到底
できない」と感じるそれとはやはりレベルが違かったんだと思う。
そんな暮らしにどこか憧れながら、もちろん同じレベルの生活をしようと
までは思わなくても、いつもいつも「何故自分は動けない、何故みんなは
ここまで動ける、自分の何がいけないのか」と無意識ながらに、いちいち
思ってきたことに気がついた。
今日もさきほど、高校生の女の子のyoutubeを見ていたのだが、その子の
お父さんがキャンプに行ってきて、とあるSAでおいしそうなお菓子を
お土産に買ってきたというシーンを見たのだが、その子の父親は、
いわゆる「仲間」と呼べる人たちがたくさんいるという印象の人で、
大勢で車関係の集まりがあったりキャンプをしたり。1人でもキャンプに
行ったりととてもアクティブな人なのだけど、「あぁ、またパパはキャンプ
に行ったんだ」と思った時に、仲間とみんなでワイワイなキャンプを想像
して一瞬胸がキューーっとなった。しかしすぐに「でもしょうがないよ
ね、だって私はそういう中に入っていけないっていう病気なんだから。今
までずっとそうだったんだから。しかたのないことだったんだ。」と
思えた。
そういうことができないという寂しさ自体よりも、私はどちらかと言えば
「そういうことができない自分は駄目な人間」と思うことの方が
ずっと辛かったんだということに気づいた。
なので、できないという状態は今も変わらないのだけど、「それは
そもそも無理な話で、むしろできなくて当然だったんだ」と思えるだけ
で、本当に気持ちが楽になったのだった。
なのでごめんなさい、病気になりたかったなんてやはり不謹慎だけど、
動けないことできないことが辛くてそんな自分を責めたり落ち込んだり、
旦那に対してもどうしてできないのか説明がつかなくて無理してたり、
そういうことに対して「あなたは病気ですよ、だからもう無理しなく
ていいですよ」となれたらどんなに楽になれるだろうと思い、そんなこと
を思ってきた。
回避性パーソナリティ障害を病気と言っていいのかわからないし、
精神疾患とも違う気もするし、でもちゃんとそういう名前のついた
精神障害が存在していて、私は恐らく・・というよりほぼ確信的に
「これだろう」と思えたことで、正直こんなに楽になれるとは思っていな
かった。
そして。
回避性パーソナリティ障害がもし克服できたら、じゃあ働きたい
か?と聞かれても、私は「はい」と答えられるかどうかは確信できない。
それは回避性パーソナリティ障害とは関係なく、私はやはり専業主婦で
いたいのだと思う。でも周りがというか、もっと大きく言えば世間が
それを許してくれなかったというか、子供もいないのになんで働かない
の?という目だったり、自分自身も他の人はみんな働いているのに、
働けない自分は劣っていると感じていたり、そういう理由で「働いて
いない」という状況が嫌だっただけで、毎日家にいられるということ
はやはり私にとっては幸せなことだったと感じている。
都合良く言えば、基本家にいる状態でたまに誰かと話したり、会ったり
できればそれでいいという感じだ。
あと、1人でいることもそう。
ずっとずっと1人でいろ、誰とも話すな、となったらそれはやはり無理
だ。でも基本的に1人でいることに苦は感じない。
夜は旦那が帰ってきて、週末は旦那と過ごして、月に1回、いや、2ヶ月に
1回でも、誰か友達と会って話して「また話そうね」って言って別れられ
ればそれで結構満足かもしれないとまで思っている。
まぁ、でもそれはやはり回避性パーソナリティ障害のせいで、いろんな
ことが面倒に億劫になっている今だからそう思うのかもしれなくて、
本当に克服できたらもっともっと誰かに会いたいとか、家にいるのは
もったいないとか思うのかもしれないが。
HSPがわかった時も、安心したのを覚えている。
でもHSPだけでは説明がつかないことがやはりあった。
回避性パーソナリティ障害だと気づけて本当に良かった。