(原題:DES HOMMES ET DES DIEUX )観る者によって評価が分かれるだろう。もちろん製作国であるフランスと、全般的にキリスト教に関して疎い日本の観客とでは、受ける印象が違ってくるはずだ。私はと言えば、頷ける部分もあれば納得出来ない箇所も目に付くという、好悪相半ばの感想を持った。
96年、アルジェリアの北西部の山あいの修道院で活動していた7人のフランス人修道士が、武装勢力に拉致されて殺害された実際の事件を元にしている。彼らが滞在する村の有り様が実に興味深い。キリスト教の伝道に来ているはずだが、周りは当然のことながらイスラム教徒が多い。しかし、修道士たちは相手がどんな宗教を信じていようと分け隔て無く奉仕活動に従事する。それどころか、ムスリムの催しにも積極的に参加。イスラム教徒の間でも修道士たちに対する信頼は厚い。
キリスト教もイスラム教も一神教であり、神の前では平等であるという基本テーゼは共通している。イエス・キリストはイスラム教では預言者の一人でもあるし、本来は両者がいがみ合うこと自体が間違いなのだ。この“あるべき姿”を描写した部分は感動的である。世界中が互いの価値観をこのように尊重し合っていたら、どんなに良いだろうか。
しかし、理想論では全ては語れない。アルジェリアはフランスの植民地であり、激しい独立戦争を経て国家を樹立したはずだが、いまだにフランス経済の影響下にある。軍事政権とイスラム反政府勢力との抗争は植民地時代の政策に端を発しているとも言えるのだ(それを指摘するセリフも出てくる)。修道士たちが善意の奉仕者といっても、この国では異分子でしかない。
映画は彼らが帰国するか、あるいは留まって活動を継続するか、それを決断するまでを丹念に追う。結果は事実の通りになるのだが、これは一種の“殉教”だと言える。もちろん背後には我々部外者が“狂信”と捉える部分がある。その意味では彼らの行動には頷けない。
だが、彼らが帰国しても行くところがないと独白するくだりにはハッとする。寄る辺ない生活を送る者にとって、残されるのは信仰しかないのだ。本来、人生を実りあるものにするための宗教が、逆に人生を空洞化させてしまった者の拠り所として扱われていることの皮肉。この指摘はシビアだ。しかし、覚悟を決めた彼らがチャイコフスキーの「白鳥の湖」を聴きながら“最後の晩餐”に臨むシーンは図式的でつまらない。このように、本作は良いところと不十分なところが混在している。
グザヴィエ・ボーヴォワの演出は丁寧で、ランベール・ウィルソンやマイケル・ロンズデールといったキャストも万全だ。それだけに、製作スタンスの“ゆらぎ”が気になるところである。ただ、ストイックな作風のこのシャシンが本国では大ヒットしたという事実は、映画に対する認識についての(我が国との)国民性の違いに、改めて驚いてしまう。