元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ブロークダウン・パレス」

2016-07-29 06:20:16 | 映画の感想(は行)
 (原題:Brokedown Palace)99年作品。シビアな題材を扱っているにもかかわらず、描き方に気合が入っていない。あらゆる面で突っ込み不足で、安手のTVドラマみたいな弛緩した時間が流れるだけだ。

 オハイオ州の女子高校アリスとダーリーンは、卒業旅行としてタイのバンコクを行き先に選んだ。2人はそこでハンサムなオーストラリア人のニックと知り合い、一緒に観光名所めぐりをする。やがてニックは3人で香港に行くことを提案。当日、ひと足早くホテルを出た彼を追って2人は空港に向かうが、そこで思わぬ事件が起きる。荷物の中からヘロインが発見され、当局側に拘束されてしまうのだ。



 事態を呑み込めないまま2人は裁判にかけられ、懲役33年という判決を受ける。“ブロークダウン・パレス”と呼ばれる悪名高いタイの刑務所に投獄された彼女たちの前に、アメリカ人弁護士ハンクが現れ、どうやら件の空港でのトラブルは麻薬取締官のおとり捜査の巻き添えを食ったらしいことが告げられる。とはいえ、2人の荷物に麻薬が入っていたのは事実。ハンクは何とか再審請求をしようとするが、前途にはまだ困難な事態が待ち受けていた。

 麻薬の不法所持を疑われて海外の刑務所に入れられた主人公が辛酸をなめるという設定の作品としては、アラン・パーカー監督の「ミッドナイト・エクスプレス」(78年)を思い出すが、本作にはあの映画の持つ厳しさは見られない。事件の背景にはタイとアメリカ両国の麻薬をめぐる微妙な関係があるらしいが、それも軽く扱われている。

 そして何より、ヒロイン2人に対するイジメが生ぬるい(爆)。まさにどん底の、この世の地獄を見せつけて、人間性が変貌するぐらいにしてもらわないと、インパクトは獲得できない。少なくとも伊藤俊也監督の「女囚701号 さそり」(72年)みたいなエゲツなさを披露してほしかった。それが無いから、ラストの処理も取って付けたようになってしまう。

 しかしまあ、主演2人にクレア・デインズとケイト・ベッキンセイルという、当時としてはアイドル的な位置付けだった女優を持ってきた時点で、映画の“限界”が見えてしまったのだろう。他にビル・プルマンやルー・ダイアモンド・フィリップスも出ているのだが、手持無沙汰の様子だ。ジョナサン・カプランの演出は平板。映像にも奥行きは無し。良かったのはデイヴィッド・ニューマンの音楽ぐらいだ。
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「日本で一番悪い奴ら」

2016-07-25 06:20:55 | 映画の感想(な行)

 万全の出来ではないが、十分楽しめる快作であることは確かだ。少なくとも、やたら深刻ぶっている割には警察内のチマチマしたもめごとに終始している「64(ロクヨン)」の原作よりも、数段面白い。さらに本作は実話を下敷きにしており、まさに“事実は小説よりも奇なり”を地で行くインパクトの大きさが光る。

 大学柔道部での腕を買われて北海道警察に入った諸星要一だが、所詮は“体育会系要員”でしかなく、26歳で道警本部の刑事にはなるが、捜査も事務も満足にこなせない。成績抜群の先輩刑事の村井定夫は、諸星に“この世界も成果主義だ。とにかく犯人を捕まえて点数を稼ぐしかない。そのためには形振り構わぬ営業活動と、S(協力者=スパイ)を作ることが必要だ”と指導する。

 早速諸星は自分の名刺をばら撒き、組の内通者を得て暴力団員を次々と逮捕。その功績で本部長賞を授与される。調子に乗った諸星はヤクザの親分である黒岩と兄弟盃を交わし、彼から“業界内”の情報を得ると共に、ロシアルートの銃器横流しに精通するSも作り、拳銃の摘発にも大々的に乗り出す。黒岩はさらに大きな計画を諸星に持ち掛けるが、それが税関や道警本部及び警視庁をも巻き込む日本警察史上最大の不祥事に繋がることになる。2002年に実際に道警で起こった“稲葉事件”を元にした実録物だ。

 とにかく、警察の中にはびこる悪しきノルマ主義の扱いが強烈だ。警察庁は95年の長官狙撃事件を受けて、銃器取締の特命部署を全国の警察本部に設置する。その意図は悪くはないが、いつの間にか“銃器を押収すること”自体が目的化し、数字を挙げるため暴力団との“取引”が常態化。肝心の治安の維持なんかどうでも良くなっている。

 これは警察に限ったことではなく、役所だろうが民間企業だろうが同じこと。組織が大きくなってくると上層部が官僚化し、役にも立たない“仕事のための仕事”が大手を振って罷り通るようになる。それが行き詰まってくると愚にも付かない“責任のなすり合い”が横行。結局はウヤムヤに終わる。実際にはこの事件は発覚して10年以上経つのに、何ら根本的解決が成されていないことを見ても、それは明らかだ。

 諸星を演じる綾野剛は絶好調。先輩の言うことを真に受け、何ら疑問も持たないまま突っ走る単細胞ぶりを賑々しく表現している。果たしてそのハイテンションが事実通り長い期間にわたって持続するのかどうかは別にして(笑)、役柄としては目覚ましい求心力を発揮していると言えよう。ピエール瀧や青木崇高、中村獅童、YOUNG DAIS、矢吹春奈といった濃い面々も適役である。

 白石和彌の演出はケレン味たっぷりだが、それがワザとらしくなる寸前で抑制しているあたり、見上げたものだ。時代背景や主人公の内面描写に関しては不十分ではあるものの、絶妙のスピード感で乗り切っている。東映マークにふさわしいピカレスク編で、観る価値は大いにある。
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「大阪物語」

2016-07-24 06:40:37 | 映画の感想(あ行)
 99年作品。当時十代だった池脇千鶴のデビュー作だが、彼女のプロモーション・フィルムに徹しているところがいい。監督の市川準はデビュー作の「BU・SU」(87年)においても、同じくその頃新人だった富田靖子のイメージビデオ的な体裁を取っていたが、この映画は内容の深さを兼ね備えていたあの作品ほど上質ではない。しかしながら、割り切って観る分には申し分ない出来だと思う。

 大阪の下町に住む中学2年の若菜の両親は“はる美&りゅう介”という売れない漫才師だ。家庭は裕福ではないが、それでも若菜は10歳の弟と共に幸せに暮らしてきたはずだった。ところが、父親の隆介が20歳も離れた若い女を妊娠させてしまったことから事態は急変。母親の春美は夫に三行半を突きつけ、追い出してしまう。やがて隆介の浮気相手は女の子を出産するが、彼はそのシビアに状況に耐えられず、姿をくらます。仕方なく若菜は腹違いの妹の面倒を見ながら、父親の行方を捜すのだった。

 主人公の両親を演じるのは実際に夫婦でもある沢田研二と田中裕子だが、2人の漫才はちっとも面白くない。心象風景的自己満足映像で綴られる大阪の町の風景は何となくウサン臭い。脚本は犬童一心が担当しているが、設定こそ面白いがストーリーには起伏が無い。

 普通ならば失敗作として片付けられるところだが、池脇演じるこの若いヒロインがスクリーン上を闊達に動き回ると、映画が弾んでくるのだ。ラストに流れるモノローグに至っては、こちらも心の中で“がんばれ!”とエールを送りたくなるほど(笑)。

 ミヤコ蝶々をはじめ夢路いとし&喜味こいし、浜村淳、今いくよ・くるよ、中田カウス・ボタン、坂田利夫、チャンバラトリオ等々、関西芸人が大挙して登場してくるのも楽しい。さすが製作総指揮に横澤彪が名を連ねているだけのことはある。尾崎豊や真心ブラザースによる挿入曲も良い。

 市川準監督はこの頃はロクでもないものばかり撮っていたが、本作に限っては悪くない仕事していると思う。やはり、基本的にインスピレーションを得られる若い女優を主役に据えると真価を発揮するタイプの演出家であったのだろう。
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「ふきげんな過去」

2016-07-23 06:11:25 | 映画の感想(は行)

 ハッキリ言ってカス。存在価値なし。まさに観ていて“不機嫌”になってしまう映画だ。監督と脚本を担当した前田司郎とかいう輩は極限的にアタマが悪いのだが、それ自体は別に驚くようなことではない。無能な奴は世の中にいくらでもいる。問題は、そんなチンピラにカネを出したプロデューサーだ。くだらない人間にカネを渡して好き勝手なことをやらせると、その“被害”は広範囲に及ぶ。具体的に迷惑を被ったのはスケジュールを調整して本作に立ち会ったキャスト、そして安くはない入場料を払って作品に接した観客である(呆)。

 北品川に住む女子高生・果子の家は食堂を経営しているが、実際に切り盛りしているのは祖母とナゾの外国人。父親は一日中ブラブラしている。夏休みのある日、18年前に他界したはずの伯母・未来子が突然現れる。昔、ある事件によって前科者になり、当局からも目をつけられている彼女は、ほとぼりが冷めるまで家に置いて欲しいと言う。さらに未来子は果子の実母だと告白し、周りの家族はうろたえるばかり。未来子は果子の部屋に住み着き非常識な行動を取り始めるが、果子はそんな“母親”のペースに次第に巻き込まれていく・・・・という話だ。

 出てくるモチーフが、まさに“下手の考え休むに似たり”ということわざを地で行くようなつまらないものばかり。運河にワニが出るとか、未来子が昔過激派でダンナに大ケガを負わせたとか、それに懲りずにまた爆弾作りを漫然と始めるとか、未来子の同志らしき男が訳の分からないことを垂れ流すとか、ただの断片的な思いつきで面白くも何ともないネタを得意満面で羅列しているに過ぎない。

 芸能界の一部には過激派だの何だのに場違いな思い入れを抱く連中がいるらしいが、そんな調子外れの心情を披露してもらっても、観る側はウンザリするばかりだ。ストーリーらしきものは無いのだが、それは“狙って”やっているのではなく、最初から物語を構築する力量すら無いことは明白だ。特に終盤の展開など、映画作りを放り出してしまったような醜態をさらしている。

 困ったことに、このクズ映画には小泉今日子に二階堂ふみ、板尾創路、高良健吾、黒川芽以といった非凡な面々が顔をそろえている。彼らの頑張りも徒労に終わったわけで、ご苦労さんとしか言いようがない。映像は美しくはなく、それどころか限りなく薄っぺらい。

 それにしても、舞台になっている食堂は一体何を出しているのだろうか。セリフによれば“豆料理が名物だ”ということだが、それらしい段取りは全く存在しない。ただ“こっちが食堂という舞台設定にしたのだから、それらしい描写が無くてもかまわない”と言わんばかりの傲慢さが窺われるだけだ。こういう映画にはあらん限りの非難を浴びせて、二度と作らせないような姿勢を示すことが、映画ファンとしてのあるべき姿ではないかと、不遜な事を考えてしまった(笑)。
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「愛に翼を」

2016-07-22 06:21:35 | 映画の感想(あ行)

 (原題:PARADISE)91年製作。ジャン・ルー・ユベール監督の仏作品「フランスの思い出」(87年)の再映画化だと聞いて、さしたる期待もしないで観た。何しろ、ハリウッドが他国のネタをリメイクして上手くいったケースは(私の知る限り)無いのだ。

 同じフランス映画ではコリーヌ・セローの快作「赤ちゃんに乾杯!」(85年)が、アメリカで再映画化すると「スリーメン&ベビー」(87年)という凡作に終わってしまった例もある。しかも、あまり優秀とは思えない脚本家メリー・アグネス・ドナヒューの初監督作とあって、作品に対峙する前から腰が引けていた。しかし実際に観てみると、そこそこ良く出来ていたので取り敢えずはホッとした次第だ。

 内気で友人もいない少年ウィラードは、母親のお産の間に、田舎町パラダイスに住む母の友人リリーの家に預けられる。リリーの夫ベンは無愛想な男で、夫婦仲は良いとは言えない。実はベンとリリーは2年半前に3歳の子供を失っていて、その出来事がいまだに重くのし掛かっているのだ。ウィラードは一応2人と仲良くなり、ビリーというガールフレンドも出来るのだが、どこかしっくりいかない日々を過ごす。ある日、ベンは家を出てしまう。ウィラードは2人の仲を修復させようとするが、どうにもならない。一方、ビリーも家族に関しては大いなる屈託を抱えていた。

 当然のことながらオリジナルを超えてはいない。しかし、ドナヒュー監督は意外に健闘している。ドラマ運びは堅実で、これ見よがしのケレンもなく、かといって一本調子で観る者を退屈させることもない。そして何といってもベンとリリーに扮するドン・ジョンソンとメラニー・グリフィスの力演が光る。言うまでもなく、当時2人は本当の夫婦だった。本作では互いの阿吽の呼吸というか、心理描写のやりとりが絶妙だ。俳優が役を演じていることさえ忘れさせる。

 ウィラード役のイライジャ・ウッド、ソーラ・バーチ、シーラ・マッカーシーといった他の面子も実に良い味を出していると思う。デイヴィッド・ニューマンの音楽も要チェックだ。

 それにしても、舞台になるサウス・キャロライナの田舎は、「フランスの思い出」におけるプロヴァンスの田舎と比べると、何となくヤンキー臭くてちっともキレイではない。ひょっとしたらベンとリリーの内面を表現しているのかもしれないが、もうちょっと映像には気を遣ってほしかった。
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「ハリーとトント」

2016-07-18 06:28:18 | 映画の感想(は行)
 (原題:Harry & Tonto)74年作品。当時のアメリカ映画を代表する秀作だと言われているが、私は“午前十時の映画祭”で初めてスクリーン上で接することが出来た。なるほど、味わい深い内容で感銘度も高い。改めて老境を迎えての人生のあり方について考えさせられた。

 主人公のハリーは、愛猫のトントとマンハッタンのアパートに住んでいる老人だ。ここが終の棲家だと思っていたのだが、区画整理のために建物は取り壊されることになり、ハリーもアパートから強制的に立ち退きを迫られた。彼はトントを連れて市内に住む長男のバートの家に身を寄せることになるが、長男の嫁は露骨にハリーを嫌う。仕方が無いのでシカゴにいる長女シャーリーの元に行くことにするが、トントと一緒では飛行機の中に入れてもらえず、代わりに乗った長距離バスからも追い出され、中古車を買って目的地に向かうことにした。



 ようやくたどり着いたシカゴは寒暖の差が大きい土地で、特に冬は底冷えがするため老人にとって住みやすいとは言えない。シャーリーからの“一緒に暮らそう”という提案を断り、次男エディの住むロスアンジェルスに向かう。だが、久しぶりに会ったエディは失業中。それでもハリーは息子を励ましながら、温暖な気候の西海岸で何とか暮らしていくことを決める。

 ハリーと旅先で出会う人々との絡みの描き方が出色だ。特にヒッチハイクで旅行中の若い娘ジンジャーと知り合い、彼女の勧めで初恋の相手でダンサーだったジェシーに会いに行くエピソードには泣かされる。ジェシーは認知症を患い、養護ホームで暮らしている。彼女はすでにハリーのことを忘れていたが、彼と一緒に踊ると昔自分がダンサーだったことを思い出し、目を輝かせる。

 バートの次男ノーマンはシャーリーの家に先に到着していたが、そこでジンジャーと意気投合。コロラドにあるヒッピーのコミューンへと旅立つことになるが、ハリーは同行を求める彼らと別れる。若者の気負いに理解を示しながらも、すでに行動を共にする資格は無いことを自覚するほろ苦さが印象的。猫好きということで意気投合した老カウボーイや、ラスベガスで留置所に入れられた際に知り合ったインディアンの酋長、そして旅立つ前にニューヨークで永久に別れを告げたポーランド出身の老人など、それらの描写の中で失われていくアメリカの原風景が象徴されていくあたりも上手い作劇だ。



 よく“人間、何かを始めるのに「遅すぎる」ということはない”と言われるが、あいにく老人には出来ることは限られている。ハリーにとって、新天地でまた相棒を見つけて身の処し方を考えるのが精一杯だ。それでも、人生の終焉を受け入れる静かな気持ちを獲得していく主人公の“成長”は、観ていて気分が良い。

 ポール・マザースキーの演出は正攻法でソツがない。彼の最良の仕事の一つだろう。主演のアート・カーニーは本作でオスカーを獲得しているが、それも頷けるほどの飄々とした名演。エレン・バースティンやジェラルディン・フィッツジェラルドら、脇もシッカリと固められている。ビル・コンティの音楽も好調。観て良かったと思える作品である。
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横山秀夫「64(ロクヨン)」

2016-07-17 06:06:56 | 読書感想文
 瀬々敬久監督による映画化作品は観ていないし、観る予定も無い。何しろ、あの絶叫演技のオンパレードみたいな予告編は、鑑賞意欲を削ぐには十分である(笑)。だが、この原作は2012年の「週刊文春ミステリーベスト10」で第一位に輝くなど、多くのアワードを獲得しているベストセラーでもあり、一応チェックした次第だ。しかしながら、世評とは裏腹に楽しめない結果に終わってしまった。

 2002年、D県警本部で刑事畑から広報官として抜擢された三上義信は、かつて昭和64年に同管内で起こった幼女誘拐殺人事件(通称・ロクヨン)の捜査に当たっていた。結局犯人は見つからず、しかも身代金も奪われてしまう。時効間近になったこの事件に関し、警察庁長官が視察に訪れることが決まり、三上は被害者遺族宅への長官の慰問許可を取り付けて来るよう上司から命じられる。しかし先方からは色良い返事はもらえず、記者クラブの面々からは突き上げられ、しかも三上の娘は失踪中で本当は仕事どころではない。だが、実は今回の案件がロクヨンの新たな真相を見出すことになる。



 かなりの長編だが、呆れたことにロクヨンが解決に向けて動き出すのは全体の4分の3が過ぎたあたりからだ。では何が小説の大部分を占めているのかというと、刑事部と警務部との軋轢と、上司の無茶振りと、傲慢なマスコミ人種とのやりとりに神経をすり減らす三上の屈託である。そして、それらがあたかも天下の一大事だと思い込んでいる主人公の“ギリギリの行動”が大仰な筆致で綴られるのみだ。

 ハッキリ言って、そんな懊悩は当事者以外にとってはどうでも良い。某刑事ドラマのセリフではないが“事件は会議室で起こっているのではない。現場で起こっている”のである。内輪の話なんか、聞きたくない。もちろん、三上の立ち振る舞いが良く出来たサラリーマン小説みたいに面白ければ許せるのだが、どうでもいいモノローグがグダグダと続くだけで、読んでいて面倒くさくなってくる。

 ならば終盤近くに唐突に起こる別の誘拐事件と、ロクヨン捜査の進展が盛り上がるのかといえば、全然そうではない。どう考えてもあり得ないプロットが大手を振ってまかり通り、気勢の上がらないラストが待ち受けるのみだ。

 とにかくこれはミステリーでもなければ、正攻法の人間ドラマでもない。何とも中途半端なシロモノだと思う。横山秀夫の小説は他に何冊か読んでいるが、本作が一番面白くない。
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「セトウツミ」

2016-07-16 06:30:07 | 映画の感想(さ行)

 アイデアの勝利とも言える快作。原作(此元和津也によるコミック)は存在するのだが、この脱力系のネタをあえて映画化しようとする心意気は評価したい。刺激的な画面を挿入すればそれでヨシとするような昨今のトレンドに、真っ向から対抗するような姿勢は頼もしい限りだ。

 大阪のとある町の川べりで、毎日取り留めもない会話を交わす2人の男子高校生。一人は塾に行くまでの時間を潰すためにやってくる秀才の内海想、そしてもう一人はサッカー部を退部してする事がない瀬戸小吉。内海はいわゆる“スカした野郎”で、周囲を“軽く”見ていて友人もあまりいない。対して瀬戸は部活のハードさにも付いていけなかったお調子者のヘタレだが、陽気で屈託がない。正反対のキャラクターの2人ながらどこかウマが合い、川辺でのひと時を楽しんでいる。

 形式としては瀬戸がボケで、内海がツッコミ。話の内容は瀬戸のファンキーな家族のことだったり、やり始めた変なゲームことだったり、そして当然のことながら好きな女子について等々だ。映画は複数のパートから成る、いわばオムニバスものである。

 とにかく、方言のリズムと玄妙な掛け合い、そして主人公たちのグダグダな佇まいが観ていて実に気持ち良い。単なる無駄話の羅列ではなく、それぞれ前フリがあってちゃんとオチがある。起承転結がシッカリと構成されているのだ。ギャグのかまし方も堂に入っており、上映中は笑いが絶えなかった。

 しかしながら、そんなユーモラスな展開の裏にもペーソスが織り込まれているのはポイントが高い。内海は親とソリが合わず、開けっぴろげな瀬戸の両親のことを羨ましく思っている。だが、瀬戸の父母は離婚の危機にあり、認知症を患う祖父の存在も悩ましいところだ。2人が苦手とする横暴な先輩も、実は家を出て行った父のことを思っている。瀬戸の片想いの相手である樫村でさえ、家庭環境は万全ではない。

 そして何より、2人が他愛の無い会話を楽しめる時間が残り少ないことに胸が締め付けられる。やがて高校を卒業し、それぞれの道を歩むことになる彼らにとって、これから損得抜きで語り合える相手に巡り会える可能性は決して大きくは無い。もしかすると、これが最後かもしれないのだ。若者時代の一断面を提示することによって、人生の機微まで問う大森立嗣の演出はけっこうレベルが高い。

 主演の池松壮亮と菅田将暉は絶好調。2人とも近年は登板回数が多いが、演技の出来る若手男優は彼ら以外にはあまりいないので仕方がないのかもしれない。タンゴを基調とした平本正宏の音楽は見事。今年度屈指のスコアだろう。鈴木卓爾や成田瑛基、笠久美といった脇の面子も良い。ただし、樫村役の中条あやみはミスキャストだ。寺の娘がハーフというのは、どうも違和感がある(笑)。見た目の可愛さだけで起用するのも、ちょっと困りものだ。
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「薄れゆく記憶のなかで」

2016-07-15 06:21:25 | 映画の感想(あ行)
 91年作品。大した才能も無いのになぜか仕事が次々と舞い込んでくる演出家もいれば、本作で監督を勤める篠田和幸のように、見所はあるのに一作だけで現場から退いてしまう人材もいる。世の中、理不尽なことが多いものだ。

 長良川の流れを見つめて回想に浸る鷲見和彦は、10年前の初恋を思い出していた。その頃彼はブラスバンド部に所属する高校3年生だった。クラスメートで分厚いメガネをかけた香織は“友人の一人”でしかなかったが、ある日和彦は香織のメガネを誤って壊してしまう。ところが偶然に見た彼女のその繊細な素顔に胸がときめくのを覚え、対する香織の方も実は以前から彼のことを憎からず思っていたのであった。夏休みの合宿で2人はようやく“両想い”になることが出来、デートを重ね、夢を語り合う。だが、彼女には秘密があり、それを和彦が知ったことが原因で取り返しのつかない事態に陥ってしまう。



 何より、初めての恋に胸を躍らせる主人公たちの描写が素晴らしい。2人の何気ない視線の動き、立ち振る舞い、ものの言い方、すべてが自然で違和感が無い。また、バックの長良川周辺の美しい自然が彼らの心象風景として機能しているのも見逃せない。撮影監督の高間賢治による瑞々しい映像がそれを盛り上げている。

 ただし、川原での星祭りの夜の豪雨をきっかけに二人の関係が修復不可能になってしまうという展開は、重すぎるのではないだろうか。おかげで後半部分が不必要に暗くなってしまった。もうちょっと違和感の少ないモチーフを挿入するべきだったと思う。しかしながら、上質な前半部分だけでも本作の存在価値はあると思う。

 香織に扮する菊地麻衣子はこれがデビュー作。演技は達者で、“一見冴えないけど、メガネを外したらカワイイ”というベタな造形もサマになっている(笑)。和彦を演じる堀真樹の演技力も確かなもので、ナイーヴな若者像を上手く表現していた。ただし、彼はこのあといくつかの実績を残したが、今は引退している。残念なことだ。なお、撮影は全て監督の出身地である岐阜市で行われ、岐阜県教育委員会などが主催した上映会も行われたという。いわゆる“ご当地映画”の一本でもある。
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「教授のおかしな妄想殺人」

2016-07-12 22:20:26 | 映画の感想(か行)

 (原題:IRRATIONAL MAN)ウディ・アレン作品には珍しいサイコ・サスペンス(と言って良いだろう)。いつもの軽妙な笑劇を期待すると裏切られる。これはひとえに、主演俳優のアクの強さが映画全体を覆い尽くしていて、それが作劇の方向性を決定付けているためだと思う。キャスティングが映画を“型に嵌めて”しまうこともあるのだ。

 ロードアイランド州の小さな大学に赴任してきた哲学教授のエイブ・ルーカスは、人生の意味を見失い、孤独なニヒリズムに陥っていた。ある時、レストランで悪名高い判事の噂を耳にしたエイブは、その判事を完全犯罪によって葬り去ることを夢想する。このドン詰まりの日常から解放されるには、殺人というエキサイティングなイベントは打って付けだと勝手に合点した彼は、その計画を練ることに夢中になり、それによって明るく積極的な人生を取り戻そうとする。以前よりエイブを憎からず思っていた教え子のジルは、彼の(一見すると良い意味での)変化に戸惑いつつも惹かれていく。やがてエイブは計画を実行に移そうとするが、話はそれから二転三転する。

 序盤の言い訳がましいグチばかり垂れ流すエイブは、もちろん作者アレンの分身である。観念的な殺人妄想に取り憑かれて一人で浮かれてしまうのも、このキャラクターならば頷けよう。しかし、何とエイブが殺人を実際に行ってしまうあたりから、通常のアレン映画とは違うテイストを帯びてくる。

 主演のホアキン・フェニックスのギラギラした存在感は、どう考えても事が“未遂”には終わらないことを示している(まさにドフトエフスキーの「罪と罰」のパロディだ)。あとは完全犯罪を成し遂げたと思い込んだエイブと、事件の内容に疑問を持ち始めたジルとの知恵比べに終始。プロットはけっこう良く考え抜かれていて、ちょっとした綻びから完璧だったはずの計画が破綻していく様子が容赦なく描かれる。あちこちに散りばめられた伏線が終盤でちゃんと機能しているのにも感心した。

 ただ、最近のアレン作品らしい脱力系の前半とサスペンス主体の後半とが、カラーが異なって違和感を覚える観客もいることは想像に難くない。しかし個人的には“絶妙のコントラストである”というプラスの評価をしておこう(笑)。

 ジルを演じているのは「マジック・イン・ムーンライト」(2014年)に引き続いてアレン作品に登板するエマ・ストーンだが、演技もさることながらファニーフェイスとハスキーボイスが何とも魅力的だ。アメリカの若手女優の中では屈指の人材だと思う。パーカー・ポージーやジェイミー・ブラックリー等の脇役も良い。またダリウス・コンジのカメラによる明るい画調と、スージー・ベンジンガーの開放的な衣装デザインは、作品が陰惨になることを良い具合に食い止めている。
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