元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「モ’・ベター・ブルース」

2016-12-05 06:34:21 | 映画の感想(ま行)
 (原題:MO' BETTER BLUES)90年作品。スパイク・リー監督が快作「ドゥ・ザ・ライト・シング」(89年)のすぐあとに撮った映画だが、早くも前作の路線との決別を宣言しているあたりが興味深い。つまりは“自分は黒人層を代表するような作家ではない。一般の映画作家としての扱いをして欲しい”というところだろう。しかしながら、そのスタンスが映画作りの面白さに結実していないところが、何とも釈然としない気分になる。

 ブルックリン生まれのブリーク・ギリアムは、新進気鋭のジャズ・トランペッターとして高い評価を受けていた。だが、その性格は傲慢で、同じバンドのサックス奏者であるシャドーとはいがみ合ってばかり。2人のガールフレンドと二股をかけているが、どっちつかずで曖昧な態度を取り続けている。ある日ブリークは、それらのツケが全てまわってきたような災難に見舞われる。マネージャーの金銭トラブルの仲裁に入ったところ暴漢に殴られ、唇にケガを負ってトランペットを吹けなくなってしまったのだ。失意のうちに、彼はステージから遠ざかる。



 要するに、図に乗っていた野郎が身の程を思い知らされて、改めて自分を見つめ直すというパターンの話だ。まあ、それが悪いということではないが、問題は本作の語り口に覇気が感じられないことだ。

 以前も書いたが、リー監督が音楽の使い方が上手いというのは間違いで、正確にはテーマ曲の選定だけが非凡だということである。だからミュージシャンを主人公にしていながら演出にリズムが無く、展開がモタモタしている。彼以外の、職人的な監督が手掛けた方がもっとサマになったかもしれない。

 主演はデンゼル・ワシントンで、シャドーにウェズリー・スナイプスが扮しており、この2人の佇まいはさすがに絵になる。しかし、それだけなのだ。ストーリーに求心力が乏しく、主人公がミュージシャンとして再起するかもしれないという期待感を無駄に持たせているあたりも、何とも手際が悪い。

 リー監督はその後も映画を撮り続けているが、いまだに「ドゥ・ザ・ライト・シング」を超える作品をリリース出来ない(と、少なくとも個人的には思う)。いくら“黒人のために映画を作っているわけではない”と言わんばかりの態度を取っても、「ドゥ・ザ・ライト・シング」を作り上げたのは自分自身だという事実からは逃れられない。何とも難しい立場の映像作家ではある。
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「いきなり先生になったボクが彼女に恋をした」

2016-12-04 06:38:48 | 映画の感想(あ行)

 全く期待していなかったので、たとえ締まらない内容でも大して腹は立たない。それどころか、あまり退屈しないで最後まで観ることが出来た。昔のプログラム・ピクチュア、または2本立て公開のメインでない方の作品だと割り切れば、スクリーンに対峙していてもストレスは無い。

 日本の食品メーカーに勤めるヨンウンは、上司から来期の雇用契約を結ばないと告げられる。同時に恋人からもフラれ、落ち込んだまま沖縄への最後の出張に出かけるが、その間に会社は不祥事を起こして破綻。沖縄に足止めを食らうハメになる。ひょんなことで現地の外国語教室の韓国語講師を引き受けることになった彼だが、そこで韓国語をマスターしなければ勤めている旅行会社をクビになってしまうシングルマザーのさくらと出会う。彼女は韓国の取引先の社長が来日するまでに韓国語を習得する必要があり、ヨンウンに個人レッスンを頼む。思わぬ事態に狼狽えるばかりのヨンウンだが、懸命に頑張るさくらの姿にやがて心を動かされる。

 設定が強引なら、展開もベタだ。くだんの韓国人の社長の来日が繰り上がってますますピンチに陥るさくらをフォローするために、ヨンウン及び外国語教室のスタッフ達が奇策を考案するが、これが新たな騒動を引き起こすことが中盤の見せ場であろう。しかし、演出が脱力系なのでさっぱり盛り上がらない。ヨンウンとさくらの関係がどうなるのかは予定調和だが、突っ込んだ描写もなく平板なまま推移する。

 監督の朝原雄三は別の作品ではソツのないところも見せるのだが、本作に限っては気分が乗っていないような印象を受ける。時に時系列を戻す際の、テープを巻き戻すような処理は実に古臭い。

 ならば全然観る価値はない映画なのかというと、そうでもない。それは、主演の2人がけっこう“絵になる”からだ。ヨンウンに扮するのは“SUPER JUNIOR”とかいうK-POPグループに属するイェソンなる男。決して飛び切りのイケメンというタイプではなく、見た目は優しく真面目そうだが優柔不断で煮え切らないという、ラブコメの定番スタイルながら嫌みがなく好感度が高い。

 さくらを演じるのは佐々木希で、相変わらず演技はぎこちないが、デビュー時に比べて進歩しているのが見て取れる。もっとも他の若手俳優に比べると上達のスピードはかなりゆっくりしているとは思うが(笑)、それが本作では努力を惜しまないヒロインのキャラクターに合致していて、違和感がない。ひょっとしたら彼女は、目立つルックスとは裏腹に“遅咲き”の女優になるのかもしれない。

 佐藤正宏やふせえりといった脇の面子も悪くない仕事ぶりだ。沖縄の名所旧跡も多数登場し、観光気分も味わえる。なお、エンド・クレジットの後に“イェソンと希の韓国語講座”が勝手に始まったのには面食らった(爆)。
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「公共の敵」

2016-12-03 06:27:21 | 映画の感想(か行)
 (英題:Public Enemy)2001年韓国作品。日本では一般公開はされておらず、私は第16回の福岡アジア映画祭で観た。元ボクシング選手のハミ出し刑事と、連続殺人犯の顔を持つエリート金融マンとの壮絶な闘いを描くカン・ウソク監督作。かなり面白い。こういうシャシンに出会えることも映画祭の醍醐味だと思う。

 どしゃ降りの夏の夜、住宅街の道ばたで張り込みをしていた刑事チョルジュンは、ふいに尿意を覚えて電柱の陰で用を足すが、その際に怪しい男とぶつかって倒れる。怒ったチョルジュンは男に殴りかかるが、男はナイフを振りかざして襲ってくる。不覚にも傷を負って相手を取り逃がしてしまったチョルジュンだが、事はそれで終わらなかった。



 一週間後、近くの住宅で刃物でメッタ刺しにされた老夫婦の死体が発見される。一人息子で銀行員のギュファンは両親と仲が悪く、参考人として名前が挙がるが、チョルジュンは彼こそが雨の降る夜に刃傷沙汰に及んだ男だと直感する。そして、この殺人事件の犯人もギュファンだと断定したチョルジュンは、本格的に捜査を開始。対するギュファンも権謀術数に長け、容易にシッポを出さない。2人のバトルはエスカレートしていく。

 かなり血糊が多く、陰惨な話にもかかわらず全編笑いが絶えないのは、ソル・ギョング扮する刑事のキャラクターに尽きるだろう。その型破りな言動には目を見張るばかりだが、本人はいたって大真面目なのが痛快だ。この作品に限らず、優れた韓国映画の主人公は根本的にシリアス路線であり、それが周囲の状況によりたまたまコメディの世界に突入してしまう。その落差が大きな笑いを呼ぶのだろう。イ・ソンジェ演ずる犯人をはじめ脇の面子も万全で、テンポの良い演出により大いに楽しませてくれる。

 残念ながら日本で封切られなかったのは、関係者の話だと監督が買い付け料を吹っ掛けていたということだ。しかし、実績のない作家に大金を払うほど映画の国際市場は甘くない。ここは是非妥協してまずは知名度を高めることに専念してほしい。ただでさえ、日本で封切られないアジア映画の快作が少なくない昨今である。
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「PK」

2016-12-02 06:32:47 | 映画の感想(英数)

 (原題:PK)全然ピンと来ない映画だった。その理由は明らかで、当方、宗教ネタとは縁遠いからである。特に一神教とは相容れない。生憎こちらは八百万の神々が存在する国の住人だ。どの神が絶対的に正しいかどうかなんてのは、まるで興味なし。だから救い主を求めて主人公がいくら奮闘しようとも、観ているこちらには響くものがない。

 インドからベルギーに留学していた女子大生のジャグーは、ナイスな二枚目と出会って恋に落ちる。しかし彼はパキスタン人で、当然のことながら宗教が違う。親の反対もあって泣く泣く別れるハメになった彼女だが、それから数年経った今は母国のテレビ局で働いている。

 ある日、ジャグーは地下鉄で黄色いヘルメットを被って大きなラジカセを持ち、“神様、行方不明”と書かれたチラシを配る奇妙な男を見かける。彼は地元の者達から“PK”(酔っ払い)と呼ばれる変人で、話を聞いてみると、彼はヨソの天体からやってきて、自分の星に帰るために神様を探しているのだという。これはテレビ番組の絶好のネタになると思ったジャグーは、彼の行動をカメラで追うことにする。

 冒頭、地球にやってきたPKがトラブルに巻き込まれて母船を呼べなくなったくだりが紹介されるが、このSF仕立ての設定を宗教ネタに結びつけようという強引さには、正直ついて行けない。星間移動が出来るほど文明の発達した世界の住人であるPKならば、こういう面倒くさいプロセスを経ずに科学力で何とかなりそうなものだと思ってしまう(笑)。

 本作の主題は、宗教というものは人が生きる上で心の支えになり得るが、ヘタすると悪用されて害悪にも繋がるといったものだろう。それを宗教同士の“派閥争い”(?)が絶えないインドの状況と重ね合わせて、社会派テイストをも醸し出そうという作戦である。しかしながら、信心深くないこちらとしては、正直どうでもいいハナシなのだ。ここは単純にジャグーとPK及び件の彼氏による三角関係をフィーチャーしたラブコメに徹した方が、楽しめたかもしれない(爆)。

 監督のラージクマール・ヒラーニと主演のアーミル・カーンとのコンビは、かつてあの快作「きっと、うまくいく」(2009年)を生み出したが、再タッグ作であるこの映画は、まるで気勢が上がらない展開に終始。インド映画にしては上映時間は短めだが、キレもコクもない演出によってとても長く感じられる。ラストシーンなんか蛇足以外の何物でもない。挿入される歌と踊りのシーンは、楽曲のレベルが低くて興ざめだ。

 アーミル・カーンは頑張っているが、前作「チェイス!」(2013年)での肉体改造がそのまま継続している感じで、何やら不自然にマッチョである。ジャグーに扮するアヌシュカ・シャルマは正統派美人ではなくショートカットが似合うファニーフェイスだが、とても可愛い。本作は全米公開もされたとのことなので、ひょっとしたらハリウッド映画出演の話もあるかもしれない(^^;)。
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「イン・ザ・ベッドルーム」

2016-12-01 06:33:15 | 映画の感想(あ行)
 (原題:In the Bedroom)2001年作品。これと近い映画はロバート・レッドフォードの監督デビュー作「普通の人々」(80年)であろう。ただし、いくら意欲作とはいえ、しょせんはブルジョア家庭の微妙な鬱屈を小綺麗に追っただけのレッドフォード作品に比べ、この映画は真に切迫している。

 トム・ウィルキンソン扮する主人公は、医師とは言ってもメイン州の小さな漁港の町にある診療所の主に過ぎない。その豊かではないがそれなりに平穏だった生活が、一人息子が年上で子持ちのバツイチ女と付き合っていたことで粉々に打ち砕かれてゆく。その運命の残酷さを、これが初演出となるトッド・フィールドは実に抑制された静謐な画面と語り口で綴る。



 特に淡々とした映像の端々に不安なモチーフを巧妙に配し、終盤の思いがけない暴力シーンの伏線に繋げるあたりの計算高さには脱帽だ。もっとも、息子とそのガールフレンドにドラマを接近させた前半の展開に対し、主人公夫婦をメインに描く中盤以降のタッチが唐突に過ぎ、結果として映画が進むにつれ息子に関するエピソードが省みられなくなったのは欠点だと思う。ラストの余韻もいまひとつ粘りが欲しいところ。

 とはいえ、脳天気なお為ごかしばかりの当時のアメリカ映画の中では、突出した存在感を持っていたのは確かだろう。妻役のシシー・スペイセクは名演。マリサ・トメイの前半の頑張りも印象に残る。トーマス・ニューマンの音楽と、アントニオ・カルバーチェによる撮影は抜群の効果。その年のアカデミー賞主要5部門にノミネートされている。
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「続・深夜食堂」

2016-11-30 06:33:06 | 映画の感想(さ行)

 前回と同じく3つのエピソードから成るが、そのうち最後のパートだけは好きになれない。聞けばこの部分だけ原作(安倍夜郎によるコミック)と離れた映画オリジナルらしく、違和感を覚えたのはそのせいかもしれないが、いずれにしても鑑賞後の印象は格別とは言い難いのには困った。

 第三話の中心人物は福岡から上京してきた老女・夕起子だ。東京駅で不慣れな携帯電話で会話した後、夜遅くに路上で胡散臭そうな男に現金の入った封筒を渡す。相手は彼女の息子の同僚と名乗り、金を受け取るとそそくさと去って行った。彼女は帰ろうとタクシーに乗るのだが、偶然にも運転手は深夜食堂のマスターの知り合いである晴美だった。夕起子の話を聞いておかしいと思った晴美は、よもぎ町交番に彼女を連れて行く。警官の小暮は事情を聞くと共に、マスターに夕起子の面倒を見てくれるように頼む。

 要するに“振り込め詐欺”(この場合は“来て来て詐欺”だが)に引っ掛かった老人を、レギュラーメンバー達がフォローする話だ。夕起子は実の息子の連絡先どころか消息さえも知らない。もちろんこれには理由があるのだが、いくら御都合主義が約束事の当シリーズとはいえ、牽強付会に過ぎるのではないだろうか。百歩譲ってそういう背景があるとしても、簡単に詐欺に遭うとは考えられない。

 さらに言えば、夕起子と息子との折り合いの付け方にしても、詐欺事件の顛末にしても、何とも煮え切らない展開で不満が残る。そして何より、いくら福岡は東京から遠いといっても、こんなにも世間知らずでナイーヴな年寄りがいるとは納得しがたい。とにかく“博多ごりょんさん”をナメたらいかんばい(笑)。たぶん食堂のメインメニューの由来に言及したいためにこのエピソードを用意したのだろうが、もうちょっと筋書きを練り上げて欲しかった。

 残り二つのパートは楽しめる。喪服を着ることがストレス発散になるという変わった趣味を持つ女が、本当の通夜の席で出会った渋い中年男性に惹かれていく話は、絶妙のオチも付いて大いにウケた。近所にあるそば屋の息子・清太が、なかなか子離れしてくれない母親・聖子に、10歳以上も年長の恋人さおりとの結婚を言い出せずに悶々とする話も、予定調和ながらしみじみと見せる。

 マスター役の小林薫をはじめ、佐藤浩市、池松壮亮、キムラ緑子、小島聖、多部未華子、片岡礼子、谷村美月、オダギリジョーなど、豪華な顔ぶれを揃えながらそれぞれの個性を発揮させている松岡錠司の演出はソツがない。このシリーズの売り物である料理の描写も絶妙で、今回は焼肉定食と焼きうどん、豚汁定食がフィーチャーされるが、どれもすこぶる旨そうだ。新宿の裏通りのセットは申し分なく、お馴染みの鈴木常吉による主題歌も効果的だ。それだけに、第三話のヴォルテージの低さは惜しいと思う。
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「マグダレンの祈り」

2016-11-29 06:37:11 | 映画の感想(ま行)
 (原題:The Magdalene Sisters )2002年イギリス=アイルランド合作。まず驚くのが、ここに登場する“マグダレン修道院”のような前近代的な宗教施設が、つい最近(20世紀末)までアイルランドに存在していたという“事実”である。

 当修道院は19世紀に誕生し、新約聖書に登場する娼婦の身から改心して聖女となったマグダラのマリアにあやかって、社会的に阻害された女性の保護収容と仕事の斡旋を名目として設立されたが、その内実は虐待と強制労働が日常茶飯事の、狂信的なカソリックの戒律が支配した非人道的な組織であったことを告発している。この映画はそんな施設に無理矢理に収容された3人の若い女のドラマだ。



 1964年、ダブリンに住んでいたマーガレットとバーナデット、ローズの3人は、ふしだらな罪深い女と見なされてマグダレン修道院に収容される。そこは厳格なシスター・ブリジットに支配された、抑圧的な世界だった。3人は脱走すべく、あらゆる手立てを考え出す。

 なるほど、理不尽な境遇にもめげず、健気に生きていく彼女たちの姿は感動的に見える。しかし、ちょっと待ってほしい。果たして、ここに描かれた“事実”は本当のことなのだろうか。この“事実”が摘発されたのは本作の製作年度から数年前。しかも、証拠と言えるのは当事者の“証言”だけなのだ。第一、こんな“事実”が百年近くも埋もれていたとは考えにくい。

 まあ、それからの真相追求がどうなったのか分からないが、この映画からその“衝撃的な事実”を差し引いてみれば、よくある“女性の苦労話”でしかないのは辛いところだ。女性版「カッコーの巣の上で」だという批評も見受けられたが、物語の内容やキャラクター設定はあの映画に遠く及ばない。題材に依存するだけの作劇では限界があるのは当然だろう。

 俳優でこれが監督デビューのピーター・ミュランの演出は手堅いがここ一番の盛り上げ方が弱い。唯一の見所はヒロイン役の新人女優ノーラ=ジェーン・ヌーン。大きな目が実に挑発的で、本作以降の仕事ぶりは知らないが、一度見たら忘れられないインパクトを観る者に与える。
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「ぼくのおじさん」

2016-11-26 06:35:03 | 映画の感想(は行)

 一応楽しめる映画ではあるのだが、後半からの展開が冗長に過ぎる。上映時間をあと30分ぐらい削ってタイトに仕上げていれば、もっと評価出来たと思う。とはいえ観客席からは幾度となく笑いが起こり、鑑賞後の満足感を与えてくれることに関しては申し分ない。シリーズ化も狙える企画だろう。

 小学生男児・雪男の家に居候している父親の弟は、大学の哲学の教員というのが表向きの職業だが、実は講義は週に一回しかなく、ほとんどの時間を家でゴロゴロして過ごしている。性格は見栄っ張りで屁理屈ばかりこねているくせにケチで、雪男の宿題を見てやるどころか、小遣いを横取りしたりと、まったくもってどうしようもない人間だ。

 そんなおじさんに見合いの話が持ち上がる。相手はハワイの日系4世である稲葉エリーだ。当初は見合いを嫌がっていたおじさんだったが、何と一目ぼれしてしまう。しかし、祖母が経営するコーヒー農園を継ぐためエリーはハワイへ帰ってしまう。おじさんは何とかエリーに会うべく、ハワイへ行く作戦をあれこれと考え出すのだが、どれも不発。そんな中、雪男がおじさんを題材にして書いた作文が入選。副賞はハワイ旅行だった。こうして2人はエリーに会うためにハワイへと出かけるのであった。北杜夫が自身をモデルに書いたロングセラー小説の映画化である。

 松田龍平扮するおじさんのキャラクターが最高だ。絵に描いたようなダメ男で、周囲が受ける迷惑も少なからぬものがあるが、どこか憎めない。何をやらかしても“しょうがないなあ”と呆れながら、笑って許してしまいそうだ。テレビドラマ「あまちゃん」等でも実証済だが、彼は良い案配に“抜けた”役柄をあてがわれると、無頼のパフォーマンスを発揮する。

 そんなボケの演技を迎え撃つのは子役の大西利空で、容赦ない突っ込みを見せながら、このおじさんが好きでたまらない様子が観る側に伝わってきて好ましい。さらに脇に寺島しのぶや宮藤官九郎、キムラ緑子、銀粉蝶といったクセの強い面々が控えているので、映画的興趣は増すばかりである。

 しかし、後半舞台がハワイに移り、経営が逼迫するコーヒー農園の行く末や、エリーを追ってやってきた元婚約者等のパートが多くなると、途端にドラマが停滞する。いつしかおじさんの役回りは「男はつらいよ」の寅次郎みたいなものになり、それに呼応するかのように余計なモチーフが散見されるようになる。エリーを演じる真木よう子の大根ぶりも鼻につき、モタモタしたまま終盤を迎える。

 もっとエピソードを刈り込んでサッと切り上げればボロも出なかっただろう。この調子で2時間は長い(「男はつらいよ」シリーズだって1時間半程度だ)。山下敦弘の演出は、今回はリラックスしすぎていると思う(笑)。次回は戸田恵梨香扮する雪男の担任教師とのアバンチュールが描かれるのかもしれないが、その際はプログラム・ピクチュア然としたエクステリアを期待したいところだ。
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「眠狂四郎勝負」

2016-11-25 06:33:38 | 映画の感想(な行)
 昭和39年大映作品。シリーズ屈指の傑作と呼ばれているが、殺陣の仕上がりや映像のキレ具合は大したことがなく、少なくとも「眠狂四郎無頼剣」(昭和41年)の方がずっと上だと思う。しかしながら、職人・三隅研次監督の手際と脚本の巧さは無視できず、観る価値はある作品だ。この頃の大映の定番は粒が揃っている。

 狂四郎はひょんなことから朝比奈伊織という老侍と知り合うが、実は彼は勘定奉行の職にあり、政敵から命を狙われている。黒幕は第11代将軍・家斉の娘高姫で、彼女は名家の御曹司と結婚するものの早くに夫を失って自堕落な生活をしているが、嫁ぎ先の持つ金融や流通に関する利権を握っていた。それに目を付けた赤座軍兵衛をはじめとする腹黒い連中が彼女の周囲をうろついているが、朝比奈はそれを摘発しようとしている。 彼に味方した狂四郎も亡き者にしようと、敵は殺し屋を次々と差し向ける。その中には幕府に囚われている夫を救うため、仕方なく軍兵衛の配下になっている采女も含まれていた。



 とにかく、1時間半にも満たない上映時間の中にさまざまなプロットを詰め込んで、一分の乱れも無くストーリーが進んでいくシナリオには感心する。脚色を担当した星川清司の腕前は確かだ。三隅御大の演出もスムーズで、話が流れるように展開していく。

 だが活劇場面は弱体気味で、弓矢や鉄砲玉が全然狂四郎に当たらないってのは、いくらチャンバラ映画とはいえ、かなりの違和感ある。刀で軽くはじき飛ばす場面ぐらいあってもよかった(笑)。

 主演の市川雷蔵は本作においてもカリスマ性を発揮。ニヒルなスタイルで押し切っているが、敵の罠に簡単にハマって捕らわれる場面もあったりして、無敵ではないところを醸し出してもサマになる(爆)。ヒロイン役はお馴染みの藤村志保で手堅い仕事ぶり。浜田雄史をはじめとする悪役連中も良いが、何といっても朝比奈を演じる加藤嘉が光る。その飄々とした持ち味は、時として雷蔵を凌ぐ存在感を発揮。この頃から演技力には定評があった。
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「永い言い訳」

2016-11-21 06:01:52 | 映画の感想(な行)

 西川美和監督作品としては「ゆれる」(2006年)には及ばないが、「ディア・ドクター」(2006年)や「夢売るふたり」(2012年)よりは上出来だ。食い足りない部分が無いではないが、鑑賞後の満足感は決して小さくはない佳編だと思う。特に主人公の年齢に近い層が観ると、身につまされるものがあるだろう。

 人気作家の津村啓こと衣笠幸夫は、妻の夏子と連れ添ってからかなりの年月が経つが、夫婦としての間柄はとうの昔に終わりを告げ、今は単なる“友だち関係”でしかない。夏子が友人のゆきとバス旅行に出かけている間、幸夫は浮気相手を家に連れ込んでよろしくやっていると、バスが川に転落して友人もろとも妻が死亡したことが知らされる。

 仕方なく悲しみにくれる夫を演じる幸夫だが、そんな彼にゆきの夫である大宮は、妻を失った悲しみを切々と訴えるのであった。トラック運転手である大宮は家を空けることが多く、幼い2人の子供を抱えて途方に暮れていた。夏子の死に特別な感慨を持たなかった幸夫は、その後ろめたさを帳消しにするためか、大宮の子供達の面倒を見ることを申し出る。直木賞候補にもなった西川美和自身の小説を映画化したものだ。

 主人公のダメさ加減が良い。妻からはとっくの昔に愛想を尽かされていて(おそらく、長い間セックスレス状態)、だから彼女がいなくなっても感情を揺さぶらせることは無く、しかし何か贖罪になるようなことを実行しなければならないという義務感だけはある。この身勝手な男を、嫌味にならずに観る者に共感を覚えるようなキャラクターに練り上げる作者の力量には感心するしかない。

 それは具体的には、幸夫のマンションと大宮の住まいとの空気感の違いや、大宮の娘を自転車に乗せて坂道で難儀する場面などの、ディテールの積み上げによる。さらには、幸夫が初めて子供を前にして立ち往生してしまうバツの悪さや、大宮と彼が好意を寄せる女性に対する微妙な屈託をぶちまけるシークエンスなど、その追い込み方は尋常では無い。有名作家である幸夫を興味本位で取り上げるマスコミの嫌らしさも相当なものだ。

 そういう徹底的に辛口なスタンスだけではなく、主人公が徐々に人間関係を修復していくプロセスを、ポジティヴな視点を忘れずに的確に積み上げていく姿勢は見上げたものである。たとえ自己嫌悪でドン底に落ちようとも、自分を少しでも必要としてくれる人間を見出すことによって、立ち直っていく。その心理の不可思議さを、噛んで含めるように追った本作のクォリティは侮れない。

 ただし、終盤付近の展開は無理があり、それと共に説明的なセリフが大々的に挿入されるのはマイナスだろう。もっとストイックに物語を締めて欲しかったが、そこは作者の“どうしても言いたかった”という正直な真情の吐露と捉えるべきかもしれない。

 主演の本木雅弘は好演。どこから見ても立派なヘタレ中年で、気取った様子も無く実直に役柄を自分のものにしようとしている。大宮に扮する竹原ピストルも、無骨ながら好感の持てる役作りで及第点。夏子役の深津絵里や、池松壮亮、黒木華、山田真歩、そして子役2人と、脇の面子も実に良い。
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