元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「帝一の國」

2017-05-27 06:23:23 | 映画の感想(た行)

 全く期待していなかったが、意外や意外の面白さだった。理由はいろいろあるだろうが、一番の勝因はチャラチャラした色恋沙汰(のようなもの)がほとんどクローズアップされておらず、全編これ“オトコの映画”に徹していることだろう。もちろん、野郎ばかり出していれば内容は保証されるというわけではないが、本作には必然性と確固とした技巧が存在している。観る価値はある快作だ。

 私立の男子校である海帝高校は、飛び抜けた秀才たちが集まる全国屈指の名門だ。政財界に強力なコネを持つこの学校で生徒会長を務めた者には、有名大学への推薦はもちろん、将来の政治家への道が確約されている。事務次官の息子である赤場帝一は主席入学を果たすが、いずれは総理大臣になって自分の国を作るという野望を持っていた。その第一歩として、何としてでも生徒会長の座を得なければならない。

 帝一はその年の生徒会長選挙で候補になっている3人の2年生のうち、まずは最有力とされる氷室に取り入ろうとする。しかし、強引なやり方で顰蹙を買うようになった氷室に早くも愛想を尽かした帝一は、あっさりと2番人気の森園に鞍替えする。そんな中、奨学生の枠で入学してきた大鷹は人望が厚く、彼の動向が選挙の帰趨を決することなると察した帝一は気が気でない。古屋兎丸の同名コミック(私は未読)の映画化だ。

 キャストの大仰な演技とケレン味たっぷりの展開はヘタすると作劇を空中分解させるが、ここではそうならない。それは、物語の根幹が(普遍性の高い)政治的パワープレイをトレースしているからだ。力で押し通そうとする者、理想を掲げる者、権謀術数を駆使しようとする者、一歩引いて情勢を見極めようとする者etc.現実の政治の世界でも存在しそうなキャラクターを配し、いかにも“あり得そうな”言動を披露させることにより、ストーリーにリアリティを持たせている。

 もちろんここで言うリアリティとは普通の学園生活のそれではなく、野心を持った人間達の生態という次元における現実感である。また、単なる露悪趣味ではなく、若者の成長を描く青春映画の側面もしっかりとキープしているのがアッパレだ。もっとも、終盤における帝一の“成長”とはフィクサーとしてのあり方を模索するという極めてインモラルなものなのだが、その生き方も肯定していることにも感心する。

 永井聡の演出はノリが良く、最後まで飽きさせない。主演の菅田将暉は絶好調で、バイタリティの塊のような主人公像を上手く表現している。野村周平や竹内涼真、間宮祥太朗、志尊淳、千葉雄大といった他の若手の面子も実に達者だ。吉田鋼太郎や榎木孝明などのベテラン陣も影が薄くなりそうである。ヒロイン役の永野芽郁にさほど魅力が無いのは残念だが、あまり目立ちすぎると“オトコの映画”としてのスタイルが揺らいでくるので、これで良いのかもしれない(笑)。
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「エドワードII」

2017-05-26 06:28:16 | 映画の感想(あ行)

 (原題:EDWARD II )91年イギリス作品。シェークスピアと並び称される英国の作家クリストファー・マーロウの戯曲の映画化。ゲイの恋人とともに迫害されていく悲劇の王の姿を描く。ただしデレク・ジャーマン監督作品らしく、衣裳と舞台装置は現代で、セリフだけは原作通り。凝りまくったライティングに男の裸が跳梁跋扈するという、独特の映像が展開する。

 でも、正直言って、どこがいいのかさっぱりわからない。こういう舞台設定にすることで何か意味があるのだろか。いきなりアニー・レノックスが出てきて歌を歌う場面も意味不明。主演の男(スティーヴン・ウォーディントン)は別に美しくもセクシーでもない。ピーター・グリーナウェイ監督のように自らの美学を波状攻撃で仕掛けてくる大胆さもなく、画面には隙間風が吹きまくり、寒々とした印象しか受けない。

 でもひょっとしたら、こういうのが案外凄い芸術なのかもしれない。芸術はあまりに高尚になると、私のような凡人には理解できない次元に突入すると言われている。そういえば、当時この映画について書いてあった評論家連中の文章も、高尚すぎて何を言いたいのか全然分からなかったことを思い出す(苦笑)。

 さて、私はこの映画を封切り時(92年)に渋谷にあったシネマライズという劇場で観ている。ハッキリ言って、この小屋は私は好きではなかった。まず、非常に分かりにくい場所にある。そしてチケットを切る場所ってのが、非常に足場の悪い階段の途中にある。しかも階段にはワックスか何かがしっかり塗ってあって、これは危ないのではないだろうか。

 劇場の中はというと、黒一色で何やら怪しげな雰囲気。よく見るとコンクリート打ちっぱなしの壁面を黒くペイントしていて、しかも、椅子は見た目はスタイリッシュだが硬くてすぐお尻が痛くなるし、照明は場末のキャバレーみたいに薄暗い。これらはバブル以前のDCブランド専門のブティックの雰囲気と一緒で、作った当時は目新しかったのだろうが、その頃すでに場違いな感じを醸し出していた。やがてミニシアターのブームも去り、2016年に閉館してしまう。よく“興行は水もの”と言われるが、映画館自体のスタイルも栄枯盛衰は付き物だということか。
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「カフェ・ソサエティ」

2017-05-22 06:30:31 | 映画の感想(か行)

 (原題:CAFE SOCIETY)ウディ・アレン作品だが、いつものニヒリスティックな視線が希薄で、アレンの分身のようなインテリぶった野郎も出て来ない。その点では物足りないのだが、豪華なエクステリアの釣瓶打ちで、鑑賞後の満足度は決して低くはない。こういうやり方もアリだろう(もちろんそれは、アレンみたいな大物だから許されるのだが ^^;)。

 1930年代。ニューヨークに住む青年ボビーは、平凡な人生を嫌ってハリウッドにやってくる。彼の叔父は映画業界で敏腕エージェントとして鳴らしており、すぐに会えて仕事をもらえると期待していたボビーだが、さんざん待たされた挙げ句にやらされたのが叔父の“付き人(雑用係)”だった。それでもめげずに職務に励むボビーだが、同時に叔父の秘書のヴェロニカに心を奪われてしまう。

 だが、彼女には別に交際中の男性がいることが分かり、彼は傷心のままニューヨークに戻るしかなかった。やがてギャングをやっていた兄の計らいでナイトクラブの経営者に収まったボビーだが、数年後に好きな女が出来て結婚する。偶然にも、妻の名前もヴェロニカだった。ある日叔父が二番目の奥方を連れてボビーの店にやってくる。

 有り体に言えば若者のサクセス・ストーリーなのだが、シニカルな味わいはあるものの、それ自体あまり面白くはない(まあ、似たような筋立てである「ラ・ラ・ランド」よりは数段上質だが)。それよりも、当時のハリウッドは斯くの如しと思わせるようなゴージャスな御膳立てに圧倒された。名匠ヴットリオ・ストラーロのカメラによる流麗な画面造型と、スージー・ベンジンガーによる煌びやかな衣装デザインは、まさに目の保養だ。

 ただし、印象深いのはハリウッドの賑々しさよりも、陰影の濃いニューヨークの描写の方で、やはりこのあたりはニューヨーク派のアレンの名目躍如ということになる。狼藉をはたらくボビーの兄の扱いがポップで陰惨さが無いのをはじめ、ユダヤ教に関するギャグが散りばめられているのも面白い。

 ボビーを演じるジェシー・アイゼンバーグはナイーヴで優柔不断な等身大の若者像を上手く表現。叔父に扮するスティーヴ・カレルはさすがに海千山千で、食えないオッサンを楽しそうに演じている。ただ、ヒロイン役のクリステン・スチュワートはイマイチ。正直言って、私は彼女の御面相が好きではないのだ(笑)。スタッフが何とか彼女を可愛く撮ろうと努力していることは分かるが、個人的にはそれは徒労に終わっていると思う。

 もう一人のヴェロニカを演じるブレイク・ライブリーの方が魅力的に思えるが、出番がそれほど多くないのは残念である。なお、ナレーションはウディ・アレン自身が担当しており、クールな雰囲気が出ていて悪くなかった。
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アナログレコードの優秀録音盤(その6)。

2017-05-21 06:25:10 | 音楽ネタ
 所有しているアナログレコードの中で録音が優秀なものを紹介したい。まず取り上げるのが、16世紀にイングランドで活躍した作曲家、ジョン・ダウランドの室内楽曲やリュート独奏曲、歌曲などを集めたディスクで、演奏はパリ古楽奏団。79年録音。タイトルは「パヴァーヌ、ガイヤルド、エア、アルマンドと幻想曲」。フランスのCALIOPEレーベルからリリースされている。

 パリ古楽奏団は6人編成。うち5人がリコーダー奏者だという。曲自体は親しみやすいもので、誰が聴いても違和感は覚えないであろう。特にパヴァーヌは美しい旋律でしみじみと聴かせる。だが、本作の存在価値は録音にある。とにかく、レコーディング状況がユニークなのだ。



 録音はスタジオでは行われていない。かといってライヴ会場や教会の中でもない。レコーディング場所は普通の人家、それも古い建物の庭先である。かなりデッドな状態になるが、各音像は丁寧に録られており、切れ味は不足気味ながらボケたところはない。そして、このレコードには外部の“ノイズ”も収録されている。具体的には、小鳥のさえずりと家の前を通る自動車の音だ。

 B面5曲目のリュートのソロでは、演奏者のバックにしっかりと小鳥が定位し、盛大に鳴き声を聴かせる。自動車は遠慮会釈無く家の前を横切っており、向かって右から左に走っているのが分かる。これらは決して音楽の進行を邪魔するものではなく、逆にのどかな雰囲気で興趣を盛り上げてくれる。メジャーなレーベルでは決して採用されないであろう録音形式だが、面白さでは随一だ。

 スウェーデンのBISレーベルといえば、73年の創立から意欲的にクラシック系のソースをリリースしており、好録音の多いブランドとして知られるが、今回紹介するのは79年に録音されたトランペットとピアノのデュエットによるディスクだ。トランペットはエドワード・タール、ピアノはエリザベート・ヴェシュンホルツという奏者は馴染みは無いが、実績を積んだ手練れだということだ。



 曲目はガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」、マルティヌー、アレクシウス、ヒンデミットの各ソナタである。「ラプソディー~」を除けば知らないナンバーばかりだが、どれもクールな曲想とハーモニーの面白さで聴かせてくれる。ユニークなジャケット・デザインは小学生の絵を採用したらしい。

 録音はデンマークの高校で行われている。とにかくトランペットの音が最高だ。艶やかなサウンドが広い音場の中に吸い込まれていく様子には、感心するしかない。なお、トランペットは曲によってBACHとYAMAHAのものが使い分けられているらしいが、両者の音の違いも明確に描かれている。BACHはくすんだ渋い音で、YAMAHAは闊達で明るい。ピアノの音は幾分硬いが、適度なエコーが付随して気にならない。

 BISレーベルのディスクは他に数枚保有しているが、どれも音が良い。機会があればまた取り上げたい。

 経営危機に陥っている東芝が昔レコード会社を持っていたことは以前の書き込みで述べたが、その東芝EMIの創立20周年記念ディスク(非売品)が、なぜか実家のレコード棚にある。優秀録音ではないのだが、面白いので紹介したい。



 このレコードが製作されたのは70年代半ばだと思われるが、東芝EMIの創立が73年なので、これはその前身である“東芝レコード”の設立から数えて20年目という形で作られたのだろう。2枚組で、1枚は邦楽、もう1枚は洋楽が収められている。邦楽は短縮ヴァージョンが中心だが、洋楽は全てフルコーラスだ。

 興味深いのが、曲の合間に創立から“20周年”までの音楽シーンの概要がナレーションとして挿入されていることだ。その口調は何のケレンもない真面目なものだが、賑々しいヒット曲の数々と並べられると、ミスマッチな興趣を呼び込む。

 収録されている楽曲はどれも懐かしいものばかりだが、個人的にウケたのが米国のカントリー歌手ジェリー・ウォレスの「マンダム 男の世界」(原題は「LOVERS OF THE WORLD」)。ある年代より上の者達にとってはお馴染みの、チャールズ・ブロンソンをフィーチャーした男性化粧品のCMに使われたナンバーだ。もちろんヒットしたのは日本のみで、オリコン洋楽チャートでは1位を獲得しており、70年度の年間総合チャートでも20位にランクインしている。昔はヒット曲のジャンルの幅が広かった。
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「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス」

2017-05-20 06:36:06 | 映画の感想(か行)

 (原題:GUARDIANS OF THE GALAXY VOL.2 )面白いと思えなかったのは、何も前作を観ていなかったからではない。おなじみMARVELの作品ながら、設定自体が他のシリーズとは“一線を画した”ようなつまらなさ。大して工夫の無い筋書きを、狂騒的に粉飾してハデっぽく見せようとしているだけ。鑑賞後は疲労感だけが残った。

 地球からやってきたピーター・クイルをリーダーとする宇宙のはみ出し者チーム“ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー”は、今日も某惑星の依頼によるモンスター退治を引き受け、小金を稼ごうとしていた。ところがメンバーの一人であるアライグマのロケットが、その惑星の貴重品を勝手に拝借してしまったことから、彼らは追われる身となる。膨大な数の敵艦隊が迫り絶体絶命と思われたとき、ガーディアンズを救ったのは“ピーターの父親”を名乗る謎の男エゴだった。

 エゴが昔地球を訪れたとき恋人が出来て、その際に生まれたのがピーターなのだという。エゴは宇宙創成の頃から生きている“神”みたいな存在で、彼は自分の後を継いでくれる者としてピーターを指名したのであった。一方、ヨンドゥ率いる宇宙海賊や件の惑星からの追撃隊、さらにはメンバーのガモーラを付け狙う彼女の妹ネピュラなどもガーディアンズに迫り、彼らは四方八方からの敵に対峙するハメになる。

 同じMARVELのキャラクターの多くが地球(現実世界)を舞台に活動しているのに対し、ガーディアンズの仕事場は宇宙である。つまりは現実との接点もギャップも無い“何でもあり”の作品世界で、こういうシチュエーションではよほど話が面白くないと楽しめない。しかし本作のシナリオは実に幼稚だ。

 行き当たりばったりに見かけだけハデな登場人物を多数並べ、ワーワーギャーギャーと叫ばせて走り回らせることの繰り返し。そもそも、エゴがオールマイティの存在ならば、こんな七面倒臭いプロセスを踏まずにとっととピーターを拉致すれば良いではないか。しかも、意外な“弱点”もあるという設定には脱力するしかない。

 ジェームズ・ガンの演出は平板で、全編を埋め尽くすギャグ(らしきもの)は全くウケず。CG満載の賑々しい画面や、アクション場面の段取り、さらにはメカ・デザインなども既視感があってシラけてしまう。

 主演のクリス・プラットをはじめゾーイ・サルダナやデイヴ・バウティスタ、マイケル・ルーカーといった面々も、別に彼らでなくてもいいような役柄をこなしているのみ。シルヴェスター・スタローンとカート・ラッセルの扱いも大したことがない。エンド・クレジットの表記によれば次回作もあるようだが、私は観るのを遠慮したい。
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「結婚ゲーム」

2017-05-19 06:30:28 | 映画の感想(か行)

 (原題:Starting Over )79年作品。アラン・J・パクラ監督といえば「コールガール」(71年)や「大統領の陰謀」(76年)といった硬派な作品が有名だが、この映画では珍しくラブコメに挑戦している。その心意気やヨシなのだが、残念ながらあまり印象には残らない。やはり映像作家には向き不向きがあるのだろう。

 ニューヨーク在住のコラムニストのフィルは、ある日突然妻のジェシカから別れ話を切り出される。2人の間には子供もいないし、彼女はこれからはシンガーとして自由気ままに生きたいらしい。思いがけなく独身に戻ったフィルだが、新しい仕事も入り、ボストンに転居して何とか生活を落ち着かせる。ある日、兄夫妻から夕食に誘われた彼はその道中、何とバスの中で痴漢よばわりされる。その場は上手く切り抜けて兄の家に着いてみると、兄が気を利かせて女性を紹介してくれた。ところが、彼女はちょっと前に彼を痴漢と罵った女マリリンであった。

 こうして最悪の出会いをした両人だが、言葉を交わすうちにどこかウマが合うものを感じ、交際を始める。その後2人はデートを重ねて関係が深まるが、そんな中ジェシカがニューヨークから突然フィルを訪ねてきて、3人が一度に顔を合わせることになってしまった。さて、変則的な三角関係に直面したフィルはどうするのか・・・・といった話だ。

 ストーリーはありきたりで、途中で結末も読める。ならば捻った演出が施されているかというと、そうでもない。登場人物の内面描写に優れているわけでもない。結局、本作の売り物はキャスティングなのだろう。当時「トランザム7000」(77年)や「グレートスタントマン」(78年)などで男臭いアクション・スターとしての地位を確立していたバート・レイノルズが、ここでは冴えない中年男を演じるという、そのミスマッチが面白い。

 マリリン役のジル・クレイバーグはステレオタイプの役柄を血の通ったキャラクターとして表現していた。ジェシカに扮するキャンディス・バーゲンは、その昔“時代の先端を走っている女優”であったが、ここではそのテイストが茶化されているような役を振られているのが何とも玄妙である(苦笑)。撮影監督にスヴェン・ニクヴィスト、音楽にマーヴィン・ハムリッシュという一流スタッフを起用しているだけあって、さすがにその点は優れていた。
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「フリー・ファイヤー」

2017-05-15 06:31:51 | 映画の感想(は行)

 (原題:FREE FIRE )製作総指揮にマーティン・スコセッシが関与しているので期待していたが、実物は何とも気勢の上がらない出来であり、脱力するしかなかった。明らかに作者はアクション映画の撮り方を間違えている。虚構の筋立てに中途半端なリアリティを挿入することが、どれだけ作劇を阻害するのか分かっていないと見える。

 1978年のボストン。銃の闇取引のため、場末の倉庫に二組のギャングがやってくる。注文した機種と実物が違っていたという不手際はあったものの、取引は無事に終わりそうな気配だった。ところが前日に身内のトラブルで殴り合いをした者達が双方に存在しており、その私怨が取引の場で爆発。一方が発砲したことから、居合わせた全員を巻き込んだ銃撃戦が始まる。

 時代背景を70年代に設定したのは、ちょうどこの頃が“アクション映画といえば派手なドンパチが付き物”という定説が罷り通っていたからだろう。しかしながら、この映画はいただけない。冒頭“FBIの資料によると、実際に銃撃戦が起こっても人は簡単に死なないし、殺すことも出来ない”とかいう但し書きが表示される。確かにそれは正しいのかもしれないが、そのことを簡単に映画の中身に適用してもらっては困るのだ。

 登場人物達は闇雲に拳銃を撃ちまくるが、大半の被弾は致命傷には至らない。全員傷つきながらも、地味に匍匐前進を続けるしかないのだ。斯様な展開を延々と繰り返せば、観ている側は飽きる。いくら“急所に当たらなければ、人は即死しない”とはいっても、映像面では従来通り“一発か二発当たれば、倒れてそれっきり”という仕掛けにしておいた方が、断然見栄えが良いのである(しかも、相手が数発で御陀仏になるのならば、撃ち方や身のこなしにスタイリッシュな演出が可能になる)。

 そういうことを無視して、いたずらにリアリズム(みたいなもの)に拘泥していては、盛り上がりに欠けるのは仕方がない。そんなにリアリティに執着するのならば、作劇自体をドキュメンタリー・タッチにしてしまえば良かったのだろうが、そこまでの度胸は無かったようだ。

 長々と続く銃撃戦の段取りは上等ではなく、誰が誰を狙っているのか判然としないばかりか、途中で挿入される爆発や火災が何のカタルシスも喚起しないという有様だ。加えて、出てくる連中がどれも頭が良さそうには見えず、まったく感情移入出来ない。

 ベン・ウィートリーの演出は平板で、1時間半の上映時間がとても長く感じられる。ブリー・ラーソンやアーミー・ハマー、キリアン・マーフィ、シャルト・コプリー、ジャック・レイナー、マイケル・スマイリーといった出演陣もむさ苦しくてパッとせず、わずかに印象に残ったのが劇中で場違いに流れるジョン・デンヴァーの歌声だけだった。第41回トロント国際映画祭ミッドナイト・マッドネス部門で最高賞にあたる観客賞を受賞したらしいが、あいにく当方はそんなアワードのことは知ったことではない。
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アビスパ、連勝。

2017-05-14 06:46:58 | その他
 去る5月13日(土)に、福岡市博多区の東平尾公園内にある博多の森球技場(レベルファイブスタジアム)にて、サッカーの試合を観戦した。対戦カードはホームのアビスパ福岡とファジアーノ岡山である。

 前回のホームの試合(4月28日)に連続してスタジアムに足を運んだことになるが、自腹でチケットを買った前回とは違い今回はひょんなことから“招待券”が回ってきて、無駄には出来ないのでいそいそと出掛けた次第である(笑)。とはいえ、ホームチームの負け試合は見たくはない。自然と応援にも力が入った。



 序盤はアビスパの積極的な攻めが目立った。パスはよく通るし、空きスペースへの展開も巧妙だった。ところが決定力を欠いたまま時間が経つと、ファジアーノも調子を取り戻し、試合は膠着状態に陥る。正直言って、選手の奮闘ぶりとは裏腹に、ゲーム中盤は退屈だった。

 だが、このままスコアレスドローで終わるかと思われた後半44分、フォワードのウェリントンが相手ゴールにボールを押し込み、先制点を挙げる。そのままゲームセットで、アビスパは5月7日のアウェイのゲームに続き、白星を重ねることが出来た。この時点でアビスパは3位に浮上である。



 とはいえ、アビスパで順調にゴール数を稼いでいるのがウェリントンだけというのは、心配ではある。もしも彼が故障などで離脱した場合、攻撃力が落ちることも考えられる。まあ、言い換えれば一人のストライカーに頼ったようなチームの有り様では、上のクラスには行けないというのも確かなのだ。他の選手(特にフォワード)の、より一層の奮起を望みたい。
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「ノー・エスケープ 自由への国境」

2017-05-13 06:33:07 | 映画の感想(な行)

 (原題:DESIERTO)いくらでも面白く出来る題材ながら、観ていてあまり盛り上がらないのは、作り込みが徹底していないからだ。アイデア不足とキャラクター設定の甘さがラストまで尾を引き、活劇としても社会派映画のテイストにしても、空振りに終わっている。場合によってはアメリカの現政権の批判にも成り得たはずだが、誠に残念だ。

 メキシコからの不法移民を乗せてアメリカとの沙漠の国境へ向かうトラック。ところが途中でトラックはエンスト。十数人の乗客は徒歩で国境を目指すハメになる。やっとのことで国境のフェンスを抜けてアメリカ側に入った一行だが、先行グループと後続集団との間には距離が空いてしまう。そこに突如として銃声が轟き、先行した者達が倒れていく。狙撃者からの銃弾から何とか逃れた後続グループだが、無慈悲なスナイパーは彼らも追い詰めていく。武器も通信手段も持たない難民達は、果たして助かるのだろうか・・・・という話だ。

 理不尽な“人間狩り”を敢行しているのは、マフィアでも国境警備隊の不良分子でもなく、ただの白人のオッサンだということが早々に明かされるのは興醒めである。まあ、昔からアメリカで一番怖いのはギャングではなく、助手席にライフル銃を置いてピックアップトラックを運転している南部のマッチョな白人オヤジであることは、よく言われている。何しろコイツらは有色人種やハミ出し者を見つけると、容赦なく狙撃するらしい(「イージー・ライダー」でもお馴染みだ ^^;)。

 だから本作で犯人として設定されても別におかしくはないのだが、そこには切迫した情念や、救いようのない狂気といったものは見受けられない。悪い意味で、フツー過ぎる。いっそのこと最初から最後まで顔を見せず、謎めいた存在にしていた方が、よっぽどインパクトは大きかっただろう。難民側の面々もキャラは立っておらず、感情移入出来る者がいないのも痛い。

 中盤以降は難民達と白人オヤジとの追いかけっこが延々と続くのだが、その段取りが凡庸極まりない。もっと山あり谷ありのドラマティックな展開に出来なかったのだろうか。特に終盤、難民のリーダーとマッチョなオッサンが、岩山の頂をぐるぐる回るだけのシーンが漫然と流れるのには参った。

 監督はアルフォンソ・キュアロンの息子であるホナス・キュアロンで、これがデビュー作ということだが、その仕事ぶりにはメリハリが感じられない。ガエル・ガルシア・ベルナルやジェフリー・ディーン・モーガンといったキャストの存在感も薄い。印象に残ったのは、白人オヤジが飼っている凶暴な犬と、荒涼とした沙漠の風景ぐらいだろうか。観る価値はあまり見出せない。
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「レスビアンハーレム」

2017-05-12 06:23:38 | 映画の感想(ら行)
 新東宝の製作によるピンク映画。87年作品で、監督はアダルトビデオを手掛けていたらしい(私はよく知らないけれど)細山智明。

 心中しようとして山の中に入った女の子二人が、いつの間にか不思議な迷宮に引き込まれる。そこは悪い女王に支配された空間で、同じようにそこに入り込んだ女たちがたくさんいて、やがて女王に対して反乱を起こす・・・・・という何やらSFチックな設定だが、これが実にピンク映画らしい安っぽく、それでいて奇妙な味わいを持つ作品に仕上がっている。

 なぜか迷宮の中に電車が走っていたり、高速道路があったり、そして女王の宮殿が地面にゴザ敷いてその上にほったて小屋建てたようなチャチなものだったり、徹底的にいいかげんな舞台背景ながら、どういうわけか現実の裏側にある異次元の世界の雰囲気がぷんぷん匂ってくるのはこの監督の独特の映像センスのためだろう。たとえれば、アンドレイ・タルコフスキー監督の「ストーカー」に出てくる“ゾーン”みたいな場所だと言うならこれはホメすぎだろうか(ホメすぎだろうな、やっぱり)。

 公開当時のキネマ旬報誌によると、この作品は通常の成人映画の倍の製作費をかけ、撮影日数も一週間以上(!)という“大作”らしい。さらにスーパー16ミリという実験的な試みがなされている。16ミリで撮影し、35ミリにブローアップしたものらしいが、画質にまったく問題がない。そしてこれはピンク映画には珍しい同時録音方式がとられている。

 この映画には男は一人も登場しない。20数名におよぶ女優だけである。中でも強烈なのは女王に扮する秋本ちえみで、ド派手なメイクと巨大な張り形を付けたフリークぶりは、スゴイ。橋本杏子扮するリーダー格の女を中心に暴動は起こり、女王はあえない最期をとげる。ところが、女たちは誰一人その迷宮を去ろうとはせず、女だけのユートピアをそこで築く、という結末になっている。

 映像の面白さと使用される音楽(なぜかナツメロ歌謡曲が多い)の奇妙な雰囲気、実際観なければちょっと言葉では表現できないような作品だ。“カルト・ムービー”とはこういう映画のことをいうのであろうか。
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