虹色仮面 通信

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レジェンドが逝く

2022-03-19 06:15:44 | スポーツ
オートスポーツWEBより。

3月16日、本田技研工業は、スーパーGT GT500クラスに参戦するTEAM KUNIMITSUのチーム総監督で、二輪、四輪で活躍した高橋国光さんが亡くなったと発表した。82歳だった。

『国さん』の愛称で親しまれ、二輪、四輪で大活躍した偉大な選手、そしてモータースポーツの発展に尽くした第一人者が亡くなった。高橋国光さんは1940年東京都小金井市出身。まだ日本のモータリゼーションが未発達であった1950年代からバイクに親しみ、1959年の第3回浅間火山レースに出場。このときの活躍により、ホンダのワークスライダーとなった。

1960年代には、ホンダとともに若き日本人ライダーとしてロードレース世界選手権に出場。1961年西ドイツグランプリの250ccクラスで、日本人ライダーとして初めての世界選手権優勝を果たした。その後も単身ヨーロッパを転戦していたが、1962年の第3戦マン島TTで転倒。重傷を負った。

復帰後、1964年に四輪レースへ転向。ニッサンのワークスドライバーとしてR380シリーズや、スカイラインGT-Rの連勝記録に貢献。オイルショック後はフォーミュラでも活躍し、1977年F1日本グランプリにはティレル007でスポット参戦も果たした。

1980年代は、ポルシェ956/962Cで全日本耐久選手権で3連覇を達成。またル・マン24時間への挑戦も開始した。また1992年には、自らの名を冠したチーム国光を結成。土屋圭市とともにスカイラインGT-Rを駆り、シリーズ屈指の人気チームとして活躍した。

また1994年からは、ホンダNSXでル・マンに挑戦。1995年には土屋、飯田章とともにGT2クラスで優勝。JGTC全日本GT選手権でも活躍し、1999年に現役を引退するまで、トップドライバーのひとりとして愛され続けた。

一方で、JGTCを運営するGTアソシエイションの会長を務めたほか、引退後はTEAM KUNIMITSU監督/総監督としてチームを牽引。2018年には山本尚貴/ジェンソン・バトン組RAYBRIG NSX-GTがチャンピオンを獲得し、総監督としてスーパーGT王者に輝いた。

その長年の功績を称えられ、文部科学省から『スポーツ功労者文部科学大臣顕彰』を受賞した2020年には総監督として二度目のチャンピオンを得たが、その頃から悪性リンパ腫を患っており、闘病生活を送っていた。近年はサーキットを訪れる回数は少なくなってきており、スーパーGTでは2021年第8戦が最後の総監督としてのサーキットだった。

「高橋国光氏の訃報に接し、心よりお悔み申し上げます。高橋氏は、ホンダモータースポーツ活動の黎明期にライダーとしてともに世界の舞台にチャレンジして下さった方であり、四輪のレースにおいても四半世紀以上にわたりホンダのマシンで参戦し続け、数多くの勝利をともにあげてきました。高橋氏の存在はホンダにとってだけではなく、すべてのモータースポーツ関係者にとって宝そのものだと思います。これまでの多大な功績に対して、心より感謝申し上げます」と本田技研工業の三部敏宏代表執行役社長はコメントを残した。

世界GPでヨーロッパを訪れた際にその文化に触れ、日本のモータースポーツの発展を願い、大きく貢献してきた国さん。心からの感謝とともに、哀悼の意を表します。<了>

日本のモータースポーツにおけるレジェンドの1人であり、幅広いカテゴリーで活躍してきた人でもある。

私が自動車レースを見始めた頃(80年代前半)はすでにベテランではありましたが、赤と黒のアドバンカラーで疾駆する「国さん」の雄姿は今でも鮮明に記憶に残っています。
やはりポルシェ(956や962C)で走っていた印象が強いかなぁ。もちろんアドバンカラーで。
ル・マン24時間レースにも長年挑戦していたのも懐かしいですね。

あとはグループAでは、スカイラインR32・GT-Rでも活躍していました。
当時は大人気でしたね。

あの世でも、赤と黒のマシンたちを次々と駆っているのでしょうか?
少しは休んでくださいね!
心よりご冥福をお祈りいたします。