2002年2月22日 オーマイニュース(リンク)
「慰安隊」は、予備隊兵力の「第5種補給品」
前線での戦闘を終えて、交代で後方に送られた予備部隊の兵力が慰安婦を利用できたというのは、他の、将軍たちの回顧録とも一致する。チャ・ギュホン将軍(予備役陸軍大将)も、自身の回顧録「戦闘」(1985年)で、予備隊時代に経験した移動式軍慰安所制度について、次のように回想している。
(1952年)3月中旬の気候は、春を嫉妬するかのように肌寒かった。(…)敗残兵を残らず掃討したあと、予備隊になって部隊の整備をしているとき、師団恤兵部から将兵を慰問しに来た女性慰安隊が部隊の宿営地付近に到着した、との報せがあった。中隊の人事係の報告によると、彼女たちは24人用の野戦テントにベニヤ板と雨合羽で仕切りをした野戦寝室に収容されたそうで、他の中隊の兵士たちは、列を作るほどたくさん利用したそうだ。
一方、キム・フィオ将軍(予備役陸軍少将)も、「移動式」ではあるが、これとは少し違った角度から慰安婦制度を記憶している。
キム将軍は、軍自らが慰安所を設置、運営したというより、連隊の幹部たちが、当時私娼街(売春街)だった「鍾三(鍾路3街)から、大金を渡し慰安婦として連れて来たものだったと記憶している。キム将軍は、彼の自伝「人間の香り」(2000年)で、そのことを次のように回想している。
「(中部戦線の)首都高地戦闘も忘れられ、脱走兵発生も落ち着きつつあった。まもなくFTX(野戦訓練)に本格突入するために、小火器および装備の点検、補給品の整備などの真っ最中だった、ある日の朝だった。連隊1課から中隊ごとに第5種補給品(軍補給品は1~4種までしかなかった)の受領指示があり、行ってみると、わが中隊にも1週間に8時間の制限で、6人の慰安婦が割り当てられてきた。(…)だが、私は白昼、多くの人が行き交う中で、列に並んで分隊のテントを利用するなどというのは、道徳的にも良心がとがめるので、あまり気乗りがしなかった。小隊に2人が割り当てられ、そのうちの1人が、最初に小隊長のテントに割り当てられてきた。私は出身などについて二言三言、言葉を交わしただけで、何かしてやれることもないので、それまでに貯めていた乾パンを一袋持たせ、先任の下士官に引き渡した。」
2人の将軍の証言によると、軍部隊に、いわゆる「第5種補給品」という名で慰安婦たちが割り当てられ、24人用の野戦テントが慰安所として仮設(チャ・ギュホン将軍)されたり、分隊の幕舎を慰安所代わりに使ったり(キム・フィオ将軍)した。
慰安隊が「第5種補給品」扱いを受けたのは、日本軍従軍慰安婦が「天皇の下賜品」、「軍需品」として扱われたことと相通じる。また、兵士たちが列に並ぶほどたくさん利用したことや、小隊長のテントにまず割り当てられた後、兵士たちに割り当てられた点なども、日本軍従軍慰安婦被害者が証言する慰安所の風景とそっくりだ。
運営の仕方は、証言によってやや違いがある。チェ・ミョンシン将軍によれば、前線での慰安部隊への出入りは「チケット制」で運用された。だが、だれでもチケットがもらえたわけではなかった。戦場で勇敢に戦い、功の大きかった者から順にもらうことができた。また、功の大きさによってチケットの枚数に違いがあったそうだ。これは、軍人たちが軍票または現金を払って利用した日本軍の慰安所とは異なる。
むしろこれは、北海道やサハリンに強制連行された朝鮮人労働者、日本人労働者のために、会社が用意した慰安施設で働いていた「産業慰安婦」の制度とそっくりだ。日本が犯した代表的な戦争犯罪である従軍慰安婦問題の陰に隠れて、産業慰安婦問題はあまり知られていない。
しかし、日本の軍需企業は、労働者たちに一種の「成果給」として慰安所を利用できるチケットを提供するなど、労働者を統制するために慰安所制度を利用したことがわかっている。結局、こうした事実を総合すれば、韓国戦争期の軍慰安婦制度は、「日本軍従軍慰安婦制度の残滓」という結論に達することになる。
「恥ずかしい日本軍慰安婦制度の残滓」
そのせいか、回顧録に軍慰安婦制度を記録した将軍たちは、一様に、慰安所運営の妥当性に対する疑問とともに、戦争の痛み、そして絶対的貧困の惨状を指摘している。
チェ・ミョンシン将軍は、自身が回顧録に記録した、韓国戦争当時経験した従軍慰安婦制度について、「明るみに出したくない軍部の恥部だが、動かせない事実を記録した」と述べた。その一方で、チェ将軍は、当時の暗鬱な現実と時代的状況を引き合いに出して、不可避性を力説した。
「当時は、戦争が長期化することにより、多くの若い女性たちが生活のために米軍部隊で体を売り、前線の近くにまで押し寄せる時代だった。当然のことながら、私娼には性病が蔓延し、私娼を放置した場合、性病による戦力の損失も憂慮された。そのため、軍では将兵たちの士気高揚と戦力の損失防止のために、慰安隊を編成して、軍医官の性病検診を経て将兵が利用できるようにしたのである。しかし、ある意味では、(売春婦たちを、軍の慰安隊に吸収することにより)当時の社会の必要悪として、人権の死角地帯に放置されていた多くの売春街の女性たちの人権を守ったという側面もある。」
しかし、当時の連隊長だったチャ将軍は、軍慰安婦制度を企画した軍首脳部の主体が誰かについては、「よく分からない」と答えた。またチャ将軍は、慰安隊の規模についても、「名称の上では部隊(特殊慰安隊)であるが、部隊編成表によって編成されたものではないので、慰安婦や私娼の事情(需要と供給)によって、慰安隊の規模がその時々で変わり、正確な人数を算出するのが難しかったのだろう」と指摘した。
「小隊長さん、チケットをもう一枚もらえませんか?」
(…)わが5連隊では、「慰安部隊」を利用するとき、いくつかのルールを作った。慰安部隊への出入りは、チケット制で運用することにした。だが、誰もがチケットをもらえるわけではない。戦場で勇敢に戦い、功を立てた者から順に配る。もちろん、勲章をもらった場合、当然優先権があり、憧れの対象である。
「5連隊は階級に関係なく勲章をたくさんもらった人から順に慰安婦を利用できる」
私がこのルールを作ると、部隊内ではひとしきり口喧嘩が起きた。
「これからは、お前たちはみな俺の弟だ、いいな?」
「ちょっと待ってろ。すぐ俺がお前たちに登頂記を発表するから…。楽しみにしていろ。」
すべての注目が慰安部隊に注がれていた。勇敢なパク・パンド中佐もルールに従って2枚のチケットをもらい、最初に慰安所に行くことになった。
私は当時連隊長だったので、この話を後日大隊長から聞いたのだが、パク中佐は童貞だったからか、慰安婦の相手をすることを頑なに拒否したそうだ。さらにチケットも、ほかの仲間に渡そうとしたのだが、ルールに反すると言って、分隊員たちが無理やり担いで、慰安部隊のテントの中に放り込んだそうだ。
すべての分隊員は、テントの中を覗きながら、歴史的事態(?)を見守っていたが、なんと、純真なパク・パンドは、女がズボンを脱がそうとすると、「嫌だ」と言って逃げようとする、それを無理やり脱がそうとする、すると決死的に逃げる、外から見守っている分隊員をしばらくの間、大笑いさせていたそうだ。
しかし、なにぶん狭いところなので、結局は女に捕まったのだが、相手が童貞だと知った女が、冗談交じりに彼のモノを触りながら、「おやまあ、こんなちっちゃいのを持って来たの?」と言ってからかうと、ついに彼は、一発の銃(?)も発射することなく、顔を真っ赤にして逃げ出だしてきたというのだ。
分隊員たちは、自分の分隊長にとって屈辱の夏にならないように、その日の夜、徹底的に講義し、事例を聞かせて、結局パク・パンド中佐を説得した。翌日、再び試みた末、パク・パンド中佐は結局成功する。
しかし、それからが問題だった。一回慰安部隊に行ってきたパク中佐は、完全に味をしめてしまったのである。
「あの…、小隊長殿。あの…、チケットをもう一枚もらえないでしょうか?」
そんな状態にまでなってから、報告が私のところに上がってきたので、私は思わず吹き出してしまった。
「ああ、こいつはまったく。そうか大隊長がなんとかして二枚ぐらいもらってきてやるよ…。ハハハ…。」
その時以来、私はなんだか気にかかるようになった。純真なやつが、戦争のことしか知らなかったのに、ある日突然、人生の何かしら新しい面を知ることになったとしたら…。
(「チェ・ミョンシン回顧録-死線を越えて」、267~269ページより引用)
陸軍本部の公式記録である「後方戦史」の「特殊慰安隊実績統計表」(1952年)によっても、当時、慰安隊を利用した将兵は少なく見積もって年間20万人を越える。また、「慰安隊を利用できる予備隊に交代する前から、将兵たちの話題は、慰安隊のことで持ちきりだった」というチェ将軍の証言から分かるように、当時、韓国戦争に従軍したすべての兵士は、軍が設置・運用した「特殊慰安隊」の存在を知っていた。
まさにその「公然の秘密」が、50年ぶりに、いまさらのように暴かれたのは、この露わにしたくない軍部の恥部が、日本軍慰安婦制度の残滓だからかもしれない。
もちろん、韓国軍慰安隊は、動員の仕方、期間、規模などにおいて、日本軍の従軍慰安婦制度とは本質的な違いがある。しかし、相当部分が、日本軍従軍慰安婦制度と同様の方法で運用されていることも事実だ(表3を参照)。
表3 日本軍・韓国軍慰安婦制度の異同(→リンク)
まず、士気高揚と戦力の損失防止を掲げた設置目的からして似ている。また、兵士たちが、軍隊のテントの前で列を作って利用し、軍医官が性病検診をするという、利用・管理の風景も似ている。また、日本軍の軍票の代わりに、チケットで対価が支払われるというやり方で運用された。
これは、目撃者たちの証言でも裏付けられている。韓国戦争当時、この珍しい制度を初めて経験したキム・フィオ将軍は、最初に慰安隊を目撃した瞬間、直感的に「これはかつて日本軍の従軍経験がある一部の幹部たちが、部下の士気高揚のために発想したことから始まったんだろう」と思ったそうだ。そのため、キム将軍は、34年間の軍生活において初めて見た公然たる軍慰安所の運営事例について、その当為性を別にして、永遠に気まずい記憶として頭に刻みつけられているという。
この「気まずい記憶」は、まさに8・15解放と48年の政府樹立以来、初期の国家および軍部の形成に大きな影響を与えた親日派清算問題と表裏一体なのだ。たとえば合同参謀議長は、初代のイ・ヒョングン議長から14代のノ・ジェヒョン議長まで、陸軍参謀総長は初代のイ・ウンジュン総長から21代のイ・セホ総長に至るまで、日帝の軍経歴者が独占していたということから推して、韓国戦争当時、慰安婦問題は、未清算の親日派問題と直結しているということが、直感的にわかるのだ。
キム・グィオク博士は、「韓国戦争軍慰安婦問題は、日本軍慰安婦制度の不幸な落とし子だといえる」と述べ、「この問題も、(日本軍慰安婦問題のように)被害女性と社会団体そして学界が連帯して解決すべき、われわれの過去の清算問題の一つ」であることを強調した。
(了)
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