犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

米下院慰安婦証言~検証編②

2007-02-18 00:39:04 | 慰安婦問題

 さて、次は韓国人の証言者。

 まず,キム・グンジャさんは,中央日報の記事では,慰安婦になった経緯についての証言がなく,たんに

16歳だった42年に中国に連行された

という説明があるのみ。「連行」という言葉が使われています。また2月8日の連合通信によれば,

「十六歳のとき,従軍慰安婦として連れて行かれ,3年間日本軍の性の慰み物にならなければならなかったキム・グンジャ(81)おばあさん」

「幼くして孤児になり,親戚の家で養育されるうち,16歳のとき,わけもわからないまま中国の琿春に連れて行かれ,解放されるまで…」

と紹介されていて,「日本による強制連行」と矛盾しない書き方になっています。

 ところが,以前の北海道新聞の記事(2005年6月23日)では次のようになっています。

「幼いとき両親をなくした金さんは、六十数年前、日本植民地時代の韓国江原道で、養女に出された。ある日、養父から「お使いに行っておくれ」と言われて、汽車に乗せられた。女性たちがたくさんいて、兵隊の姿も見えた。着いたのは、中国吉林省琿春の「慰安所」」

 連合通信の記事では,「親戚の家で養育」とあり,北海道新聞の記事では「養女に出された」とある。秦郁彦『慰安婦と戦場の性』によれば,戦前の日本で,身売りされた娘は売春業者の養女という形式をふむ例が多かったことを根拠に,韓国人元慰安婦の中にときどき出てくる「養女」というのも,同様なケースだと推測しています。上記の「養女」もおそらくは売春業者に売られたものでしょう。そこから就職を斡旋された先が,軍慰安所だった。この推測が正しければ,「日本による強制連行」とは関係がありません。

 次は,イ・ヨンスさんの場合。


 中央日報の記事で,慰安婦になったいきさつについては,

1944年の16歳の時に台湾に慰安婦として連行され

と,はっきり「連行」と書かれている。一方,2004年12月4日の全国同時証言集会「消せない記憶-日本軍「慰安婦」被害女性を招いて」での証言は,以下の通りです
(→記事)。

「1944年、16歳の時に「軍服みたいな服を着た男」に連行され、台湾へ。移動中の船の中で、日本の兵隊たちに繰り返し強かんされる。その後、連れて行かれた先の台湾で、日本軍「慰安婦」としての生活を3年間強制された。」

 
この証言では「日本軍による強制連行」が強く示唆されています。

 
また,韓国挺身隊研究所のホームページにある証言(→記事)では

「貧しい家の一人娘でタルソン普通学校に入学したが,家が貧しくて一年しか通えずに退学した。よその家で乳母の仕事をする母親のかわりに弟を育て,9歳から13歳まで紡績工場に勤めた。友達と一緒に,金儲けの欲にかられて家出し,台湾にある軍慰安所に連れて行かれた。」

となっています。


 一方,『慰安婦と戦場の性』にある証言(1996年,日本での講演)では,

「近所のおばさんの仲介で日本人に連れられ」

となっており,もっとくわしい証言(世界平和木槿の会,原文韓国語)を見ると,

「私は1928年12月13日,今の大邱直轄市北区コソン洞で,貧しい家の一人娘として生まれた。家族は祖母,父,母,兄が一人,それに弟が四人の九人家族だった。
 母はスジョン普通学校の前に住むお金持ちに乳母として住み込んでいた。それで弟たちは私が育てた。私たちが住んでいた家と田畑は,すべて母が乳母に行っていたお金持ちのものだった。
 1944年,私が満16歳の秋のことだ。私のおない年の友達の中にキム・ブンスンという子がいたが,その母親が「お前,履き物一つ正しくはけないなんて,どういうことさ。お前,うちのポクスン(ママ。プンスンの誤りか)といっしょにあっちに行きなさい。あっちに行けば,いろんなものがあるよ。ご飯もたくさん食べられるし。あんたの家も楽にしてやるって」と言った。当時,私の身なりはぼろぼろで,お話にならなかった。
 何日がたったある日の明け方,ブンスンがうちの窓を叩いて,「そっと出ておいで」とささやいた。私は忍び足でブンスンについて,家を出た。家で着ていた黒いチマ(スカート)に,ボタンのついた長い木綿のチョゴリを着て,げたをつっかけていた。行ってみると,川原で見たことのある日本人の男が出てきていた。彼は四十にならないくらいにみえた。国民服に戦闘帽をかぶっていた。彼は私にふろしき包みを差し出し,その中にワンピースと皮靴があると言った。ふろしきをそっと広げると,たしかに赤いワンピースと皮靴が見えた。それをもらって,幼心にどれほどうれしかったかわからない。それで,つい何も考えずに気軽についていってしまった。」

 友だちのプンスンの場合は親による人身売買,イ・ヨンスさんについては,業者の甘言によって騙されたケースです。そしてついていった先が慰安所だった。最初の連合通信の記事の「連行」という言葉とはずいぶんニュアンスが違う。業者は日本人ということになっているけれど,少女を騙すほど朝鮮語が達者な日本人がいたかどうか。当時の国語は日本語で,学校に通った子どもなら日本語が話せたでしょうが,ヨンスさんは日本語ができなかった(別の証言にあり,後出)。「国民服に戦闘帽」といういでたちで「軍人」らしさを出そうとしているようですが,軍人ではなく業者でしょう。

 イ・ヨンスさんについては,こういう資料もある(→記事)。


「1928年大邱に生まれた容洙さんは、(満)14歳のとき家から呼び出され、他の4人の少女とともに日本人に連れられて汽車で慶州から大連まで運ばれました。帰りたさに泣くとそのたびに激しく殴られ蹴られながら、海軍兵士の乗った軍船の船底に入れられ、44年の正月を上海で迎えます。」

 一般に韓国は数え年を使いますが,前の証言では原文の韓国語でちゃんと「満16歳」と書いてあるのに,ここでは「満14歳」になっている。引用者はそれに基づいて,

「14歳の少女を性奴隷にしてしまうなんて、なんとむごいことでしょうか。」

と書いている。だれが証言を改竄したのでしょうか(証言そのものが変わった可能性もありますが)。


 いずれにしても,「従軍慰安婦」問題の核心は「国家権力による組織的連行」があったかどうかということです。

 今回の3人は,それぞれ若くして悲惨な体験を強いられ,気の毒としか言いようがないですが,いずれも「国家権力による組織的連行」の証言者としては不適格です(オランダ人のケースは軍による連行ですが,軍上部の指示に逆らった戦争犯罪であって,組織的連行とはいえない)。
 まあ,今となっては生存者は非常に少ないし,今までのさまざまな検証の中で,慰安婦証言以外に「組織的連行」が証明された例が一つもないので,しようがないのかもしれません。ホンダ議員にしたところで,何も裁判で勝とうとしているわけではないから,「適格性」については厳格に考えていないのでしょう。


 とにかく,このような「さらし者的ショー」は,もういい加減やめてほしいものです。


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