仏滅後二千二百二十余年が間、迦葉・阿難等、馬鳴・竜樹等、
南岳・天台等、妙楽・伝教等だにもいまだひろめ給はぬ法華経の肝心、
諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字、末法の始めに一閻浮提に
ひろめまいらせ給ふべき瑞相に日蓮さきがけしたり。
わたうども二陣三陣つづきて、迦葉・阿難にも勝れ、天台・伝教にもこえよかし。
わづかの小島のぬしらがをどさんを、
をぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき。
仏の御使いひとなのりながら、をくせんは無下の人々なりと申しふくめぬ
〈わづかの小島のぬしらがをどさんを、〉と、命を狙われる立場にあって、
ときの為政者をわずかの小島の主がと呼ぶあたり、その雄大な鳥瞰視的な
抵抗姿勢。
その他、公にされたという、「立正安国論」
〈 汝(なんじ) 須く(すべからず)一身の安堵(いっしんのあんど)を思わば 先ず(まず)四表の静謐(しひょうのせいひつ)を祷らん(いのらん)者か〉
近代でいえばユネスコ憲章の精神にも相通ずるような、「人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」という一文。
あなたが自分自身の安泰を願うのなら、まず世の中の平穏(四表=自分の前後左右の方角や周囲、静謐=平穏、平和)を祈ることが必要ではないか。と、
考えれば、クリスチャンの経済学者、矢内原忠雄が戦前に東大総長の座を引き摺り下ろされたときにこの一文に感化されるように、キリスト者が仏教者に畏敬の念を抱いたように、宗旨は異なるとはいえ
日蓮が弟子にあたえられたというお手紙、特に「種々御振舞御書」並びに、「開目抄」という文に着目したというのもうなづけるのだった。
聖徳太子が法華経に着目した時代に視点を移すと、まだ、民主主義とかけ離れた、君主制すら確立されていない時代。
それは官僚制を確立させようという国家の礎つくりの格闘。
一七条憲法の発令。
近代の官僚と
古代史との官僚と引き比べることも想像を逞しくさせていく。
寺社の創建、官僚の育成。晩年の仏典精読と保存作業。
これに、前後して、物部との戦と、その後の内政権力闘争、
一七条憲法のことまで、含めていくと、とても、これだけの沢山の輝かしい功績が
一人で出来たのだろうかという疑念は、
それはあるでしょう。
歴史学のその後の分析もむべなるかなというところも。
多分に後付けという部分も考えられるという反証が
いくつも。
たしかに、晩年の静かなる威厳あるイメージ。
誰しもが受け止める正統性を果敢に確立するための装飾の匂い
業績自体はタイムスパンからいっても、聖徳太子一人のというよりか
国際的緊張のもとで蘇我馬子や推古天皇と協力のもとで
成された業績だろうという見立て。
日本書紀だけの記述にたよることの危険を
唱えられている部分は
うなづけるところではある。
であっても、
法華経への共感とその慕われかたにおいては
遜色のないものと自分には受け取れるのだった。
官僚が古代に比べて
進化したなんて
感じてる人もすくないのでは、
それは確かに、
昭和、平成を顧みて、
一時期、こんな言葉でふりかえる人もいたっけなと。
醜悪な汚職、事件がつづいても、
優秀な官僚がいたから、日本はという。
まあ、一理ないこともないけれど、
政治家は選挙という禊があっても、官僚はどうなのか、
いいも悪いもふるいさえかけられることもなく、ずっと、官僚ではないんかい
民間より短い、それでも、天下りさきが、
天上がりじゃないのと揶揄されるような時もあったっけ。
それに、官僚の不祥事続きの昨今、
それを批判できるほど真っ向、
経済界も政治家もそれほど、きれいでも、優秀でもなさそう。
一時世界を席巻した日本企業も新興国に追い上げられ
ちょっと影が薄くも感じられることも。
その上、重厚長大産業と思われていた、日本経済を引っ張ってきたともいわれるところからの、
不祥事、業績低下。モノづくり王国といわれてきたそのなかでも、
東芝はどうだ。監査法人は、不正会計をのうのうとゆるしていたんだろうね。
白物家電だって当時の勢いはない。
鉄の産業でも、おさめていた先での車両にヒビ。重大インシデント。
命にかかわる危険は深刻の度を深めている。
顧客志向と表明しながら、
財界も、官僚も。
政治家は三流でも
企業家が頑張ってるから安心さ
と言っていた世代は
過去のもの。
身を粉にして普通に、
悪い事せずというか、できなくて、
納めるもの納めて、
投票義務も果たして、
ただ、家族のことを
ぼやくひとに至っては、
それこそ、関心事は、周囲になく、
それこそ、次々と、五感を刺激させてくれる
小市民的な満足に浸っている。
誘惑に事欠かない。
オルテガ・イ・ガセットのいうとおりだ。
スペインの生哲学者、社会学者。
いくら法整備が、文明が、制度が、といっても、
民主主義は永久革命。
上からの民主主義に頼る時代ではない。
これからは、悪なんてなくなりはしないというぐらいに、
どこまでいっても、仏と魔との闘い。
ハッカーが裏をかくように、
法を整えようとしているさきから、法の裏をかいくぐっていこうとするのも人間。
性善説よさようなら。
性悪説もさようなら。
冷厳たる実相を
見つめる他なし。
いにしえの聖徳太子がみつめたように、命を解き明かしたという
法華経の文を
いつぞや見ていた番組で注目してみたのは、
100分で名著シリーズの「法華経」だったなあと。
多分に内村鑑三もそうだけれど、矢内原忠雄も、日蓮の文章から、
自身の時局。
おかれた自身の立場。
促される天の声のように、受け止めた部分も感得できようかと。
左傾化したひとが取り上げるようにいう矢内原像は
クリスチャンのマルキストと言いたいようだ。
そういう人には読んでもらいたい、神国VS神国
それらと、佐藤優の『21世紀の宗教改革』
戦争と知識人の使命・矢内原忠雄は
知識人の顔と預言者の顔
その栄光と悲哀を明かしていますし
後者は、上からの宗教改革ではなくて、下からの宗教改革、
ひいては、それが、世界宗教になる普遍的原理であることを
悲哀感からではなく異なる立場から羨望をもって説いているという感じが。
よくいうリベラリズムを標榜する一部からは同調圧力だ、危険だ。その論調をささえるべく、矢内原忠雄の抵抗を持ってきたりする。
わからないわけでもないんだけれど、
戦争反対、護憲、安保法案反対
共謀法成立反対、いつか来た道をたどるなと、
なると、
自分の受け止めかたは、かなり違います。
おおくの間違った意見は条文もみていないし、国会質疑も聞いていない。
もちろん、丸山真男が述べたような、日本的ファシズムの精神
それへの警鐘、
無責任体質の相貌。
それなどは、わかります。
それだからこそ、責任という意味では、ジャーナリズムの刷新が求められるという
時代状況ではないかとも
報道機関に関わるひとりひとりが、長いものに巻かれている。
編集責任者が左と言えば、もしくは、右といえば、確証もない
事実は事実であろうがそれを、無理につなぎ合わせたような
捏造記事までだして煽り立てている。笑っちゃう。
昔と違って、マスコミ人のステータスはかなり下がってしまっている。残念です。
最終は
つらつらと、書きつらねた内容と関連する画像を
加えておきます。