決断することはさけ、何度、立ち止まろうとするのだろう。今一度、立ち止まって考えよう。のフレーズ。確かに決断せずに考える振りして、文句言うだけ。優先度の高い議論はほったらかしで、なにかあれば、今一度、立ち止まって考えよう。
現政権の疑惑だけにはとことん追求する。
追及するのは、野党だけの商売でもない。
並行して、やるならできるはずなのに、決断することはさけ、何度立ち止まろうとするのだろう。なにかあるとすると、常套句のように。
散々現政府の事を決断力ないと揶揄?
むしろそれらに当てはまるのって、まるっきし左傾化野党の自分の事じゃないのかと。そのような感慨に。今の日本は右傾化してるから軍靴の音が聞こえるって、言いたいのがそれだけのことなら、かえって、読む気も失せるような評論も。よくよく、最後まで、読んでみると、自分とは真逆の論であったりとする。今の日本は変えてはいけない部分を変えて、変えなきゃいけない部分は頑なに触れさせようとはしない方向に誘導されている。とか。その主張の中身。喰いつきのいい始まり、良い感じだっただけに残念。三島を理解している物言いだったはずが、読み終ってみると、なんだ、護憲派だったりして、肩すかし。
また、その憲法理解というのも、特定野党の論と全くうり二つだったりして、げんなりすることも。学術会議における国会の騒ぎ。まるで応援団。国民からしたら、「安心安全な社会生活への貢献を期待したいところなのに、コロナ禍対応に至っても学術的側からの発信も乏しかった」「そういう感情しかない」しかも、学術団体のその執行部に入り込んでいる一部政党のために働く人たち。不当介入、任命拒否したっていうけれど、任命権があるわけだから、それを行使したまでで、あの騒ぎ。「結論を出さずに考え続けること」それが政治における「バランス」というのなら、政治に求められるのはハムレットのように考え続けることではなく、実行すること。「バランス」などとそこでいう必要はない。それこそ、「アンバランス」ではないのって言えてくる。根は左傾的に凝り固まったような文筆家も登場したりしてくる世の中。政権批判に適当に三島の言葉を引っ張ってきて、さも三島を理解しているみたいに、語ろうとする様子だけれど、まどろこしいったら、そのことだ。三島さんが左翼学生たちの集会に出向き、集まった左翼学生たちの質問ににこやかに真剣に応答していた映像。久方の映画館。マスクと消毒液。ソーシャルディスタンスよろしく、ドキュメンタリーの映像を視聴していた数年前。
自分の場合はまわりの歓声とか頷きが増してくるほどに、上の世代のこれらの学生運動、当時の中学生時代の思い出として振り返る自分がいた。当時の学生活動家にそれほど共感あるわけでもない。静かにダンマリで見続けてしまう流れに。確かにその後の反体制気質の学生気分で過ごした学生時代もあるが、ドキュメンタリー映写見つめるほどに、笑う箇所も、そこ、違うだろうと、ひとり呟いていた。皆と同様の反応は出来なかった。
まあ、その他にも幾人かは自分と同じ人はいたとは思いたいが確認の仕様はない。それであるからして、検索上で、三島のことが引用されたりすると、やはり、チェックしてしまうのだろう。なのに、結果はというと、先にいったような肩すかしがほとんどなのだ。事件の報道があった翌日。
教師から、君の感想は?聞かれて、「目的と手段が合っていません」中学生の自分がそのように答えてしまったことを振り返ることも。遠い遠い記憶の断片。「目的には、まさか異論はない?」陰での周囲のささやき。
今の報道番組。特に報道ステーションが同じように三島をダシにして都合の良い部分だけをつまむ。三島が、生きていたら朝日らマスコミに対して、口を極めて面罵してただろう。
安倍政権に対しての批判、そこにもってくるって、どう理解したら、そうなるの。という感じ。
そして、菅政権に対しても、岸田政権に対しても。『安部がー』の変異した論調。あいも変わらずと、どうしても受け取らざるを得ないんだよなあ。三島まで引用して書いた人は政府批判ありきだから全く考えが及ばなかったんだろうなぁ。
と思ってしまう。というかバランスが云々等、言ってること自体がどう見ても左翼お抱えの学術会議のかたに近い。言わして貰えば、バランス欠きっぱなし、で自国防衛のための技術にはNG。技術情報、中国への流出には無防備。自分が知っている限りの三島由紀夫が死をもって言いたかったこととは、憲法改正をして自衛隊を軍隊とし、アメリカから自立した国にするということだったと思います。
警察は庶民の治安を守る義務が有り・政府は国民の生命財産を守る義務が有る その任に当たっているのが自衛隊。78年経った現在でさえ、憲法の文面を素直に読めば不保持は続いている。それが条文解釈、憲法審査会、憲法学者の間で言葉の遊びになっていた。なんとか安倍前総理の働きにより、集団的自衛権をフルスペックではなく限定容認させたが、憲法自体は国民が読んで納得できる文言になっていない。森友問題は近畿理財局の処理ミス。加計学園は獣医師会の岩盤規制に風穴を開けました。桜を見る会は通年行われているので今更問題でも何でもない。それ相応の批判の当たっているところは、双方、攻守かわっていずれの政権にも傷がっていう理解に落ち着く。もっと、質さなければならない、基本、国家の背骨の部分に当たるところであって、それをなおざりにしては、国力の存立、基盤が損なわれていく。
志位委員長、北朝鮮にリアルな危険があるとは思わない発言。過去の言動が今にきて、失言だったことが明らかに。核開発。ミサイル攻勢。韓国と息を合わせたような慰安婦問題の蒸し返し。拉致は解決済み発言まで擁護しかねない韓国の反日カードの振りかざし。国内でのあいちトリエンナーレでは表現の自由の文言を振りかざしての擁護する側へと、陛下の肖像画を焼く行為やら、安部人形と模されような人形の靴での踏み付け彫刻がまさか、芸術の範囲内であるかの如くに。
いい加減に、して欲しいことばかりだ。
そのうえ、日韓請求権協定。済んだことまで、問題視する韓国側を擁護する側にまわって、発言を繰り返している。今の日本は変えてはいけない部分を変えて、変えなきゃいけない部分は頑なに触れさせようとはしない方向に誘導されているっていうなら、天皇制批判とか元号制度批判が出てくるあたり、どう理解せよということなんだろう。現憲法を守れというなら、そういう主張などは、象徴天皇制を謳っている現憲法にそぐわなくはないかいと。ほかでもない。特定政党のいう護憲と、現憲法の基本的理念はどうかんがえてもそぐわない。
現憲法はプロレタリア独裁でもなく、国民主権、象徴天皇制。加えて国際協調、平和主義。
象徴天皇制に暮らす、今の日本とはずいぶんと違ったイメージを抱かざるを得ない段階的社会主義政府、民主連合政権。それに、日米安保破棄しなければという主張もあわさってくると、それどうなんって、思わざるを得ない訳で。その論に、違和感なく、賛意を寄せる、支持者のほうではそんなことには頓着しないみたいではある。世界に類例がない9条の戦争放棄を謳っている憲法が国を守っているんだとか強調され、しかもその上固く信じてる風でもあるあたり、どうかんがえても心配してしまうのだ。他国から、踏み込まれる場合は、相手が、9条の旗を掲げていようがいまいが、そんなことは関係なく、ふみこまれる時は踏み込まれる。そう考えるほうが、現実的。そう考えたくないほうが幻想的。違憲だ。違憲だということは、簡単にいわれるほどに、だったらどれだけ憲法理解しているのか知らんが、災害時に、その存在を違憲だと言っておきながら、活用しますだなんて、如何にも不遜、自衛隊員に失礼極まりないではないの。と言えてくる。そして衆議院選挙。改憲議論も遠のいて、この選挙で問われたのは従来の政策をどうこうよりも、主だったのは政治とカネ。いつまでやってるんだろう。その飽き飽きしていた間隙をぬって、意外と傾聴されたのは、国民民主党だ。年収の壁のこともそうだが、給料の事。真正面から所得の話を全面に、出したことだ。玉木党首。国のふところ増やすこと言う前にまず国民の懐、富ませ。のフレーズ。ある意味、分かりやすい。それも、ポピュリズムか知らんが、なんと言われようと、
「私は誰とやるかよりも、何をするかで考えていた。何をするかによって一致したら合意していくっていうのを、合意する相手も時によって変えていく」と語る玉木雄一郎、従来の考え方に囚われない柔軟な手法を示していた。他の野党からのやっかみも。あんた、与党に擦り寄り。予算に賛成して、例の国民民主の案、盛り込まれるはずの公言してたことも棚ざらし、忘れたの?とかの批判。懐かしい絵姿。学生の頃は自分も、無党派層のちょっと毛の生えたもの。とはいえ、今現在の雰囲気とは、違って、推し並べて、大半が反体制気質でいた。ご多分に漏れず、自分もその内の反体制気質の一人だった。何でも見てやろう精神で、好奇心から、政治にも、無関心ではなかった。当時の田中角栄首相にも、アンビバレンツな感情があるとはいえ、平均的といわれる学生感情とも違って、下宿先での出くわした選挙遊説姿を見て、聴衆の一人となり、角栄と握手までしてるくらいだから、笑っちゃう。