2発目の原爆が長崎に投下されました。しかし、その情報が入っても議論は延々と続きました。鈴木貫太郎は、会議で結論を導くことは出来ませんでした。そこで、臨時閣議を開き、そこに議論の場を移しました。しかし、ここでもポツダム宣言受諾の条件をめぐって東郷外務大臣と阿南陸軍大臣が対立する構造は同じ。他の閣僚の意見も割れました。
閣議が始まって6時間以上経っても合意には至らず、頼みの綱は昭和天皇でした。膠着した事態を打開するため、鈴木貫太郎は御前会議を開き天皇臨席のもとで方針を決定しようとしました。
日付が変わった8月10日、午前0時過ぎ、異例の時刻に御前会議が始まりました。しかし、2時間経っても結論は出せません。ついに、鈴木貫太郎は天皇に決断を仰ぎました。本来、天皇は大日本帝国憲法体制のもとでは、政府の決定事項に対して裁可を行う存在でした。決定された事柄の責任は政府がおうと定められ、天皇は無答責、つまり責任をおわないとされていたのです。天皇に判断を委ねることはまさに異例。
昭和天皇の、お言葉、鈴木貫太郎を偲んでおられる。肝胆相照らす、君有りて、すべてが成されることに。
日本が分断されることもなく済んだことも、二人の勇断におうところかと。
鈴木貫太郎の奥さんのタカさんは北海道の出身であり、父親は足立元太郎という方です。この方は、札幌農学校(現:北海道大学)の二期生であり、同学年には五千円札に載っていた新渡戸稲造氏や町村金弥氏がいます。
タカさんは昭和天皇の教育係。年齢差からいっても養母さんですね。
太平洋戦争最後の首相に鈴木貫太郎を乞い願ったのも昭和天皇。
妻が見た「二・二六事件」 天皇に愛された夫婦
戦争終結を目指して指導者たちの合意を模索することに。軍部の反乱やクーデターによる国家崩壊の危機をもはらむ中で、いかに戦争を終わらせるのか。そこで鈴木が賭けたのが、天皇自らが下す決断、いわゆる「聖断」だった。
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終戦エピソード 昭和天皇 鈴木貫太郎 阿南惟幾 田中静壱 青年将校
あとは今上天皇のお言葉
この時期どうしても、印象にめぐってくる事象としては、さきの象徴としてのお務めについての今上天皇のおことば 。
わたしどもの想像の域を超えますが、陛下が常に道を求め行く求道者のようなイメージを、
ニュース報道での会見ぶりを見て国民の一人として受け取りました。
天皇は日本国の象徴であり国民統合の象徴。
bsプライムニュースでは、国体について
富岡幸一郎と白井聡
関東学院大学教授・富岡幸一郎、京都精華大学人文学部専任講師・白井聡のスタジオ解説。
両者のトークに耳を傾けていました。
当時日本が天皇制が維持されるかどうかにこだわった理由。
また連合国側が天皇制の維持を認めた思惑。
マッカーサーは天皇制を残した方が自分たちにとって有益だと確信したからに他ならないということ。
まあ、議論の流れとしては、ほぼほぼ理解していたとおり。
白井聰さんのほうが、やや、悲観的、
富岡幸一郎のほうが、肯定的、楽観的。受け止め方。
戦後の米国追従姿勢は米国からもたらされたあたかも疑似改良天皇制に原因があるかのように、そこまで、卑屈に、
論じてしまうこともないんじゃないかと。
富岡さんのほうは、安倍外交の評価できるところを持ってきて、向こうのペースに乗っかているようにみせて、
けっこう、肝心の日本の主張すべきところは譲っていない点を、評価しているような。
だから、戦後の国の形、国体はそんなに悲観したもんじゃないっていう主張。
まあ、国体って言葉も死語にちかづきつつもありますもんね。
日本体育大会のことだと思ってる人大半、わざわざトーク番組組んでて、そう思う人、白井さんのほうからの指摘、
自虐ネタですか?
最後に
学生の頃読んだ、憲法とはなにか。入門書、憲法教室
を画像として加えておきます。