トトヤンの家庭菜園

小旅行、読書、テレビ番組、家庭菜園のブログです。

真に語りたい側は

2024-03-04 19:50:06 | 携帯小説

あれだけのことを、起こして。帰国無罪、望郷の念?

知る由もなかったとはいえ、いまだ、明らかに全てが語られているとは思えない。

よど号事件犯の妻。自由恋愛とも、思えない。

どのようにして接点が?

隣のサークル部員から、求めに応じて、渡したカセットテープ.太陽がくれた季節。青い三角定規。類推するに、部員から、部員へと。

返されることもなく、そのままだ。人を介してあの異国で、何度も、何度も

聴いていたってこともあり得そうでもある。

連れ添い、亡くなり、子供達は、その後帰国できていたっていうのもビックリ。

こういう自由は、一方に許されながら、一方では不自由をしいられたまま。未だ日朝の間で、解決叶わずの拉致問題、神戸の有本さんのご家族のお気持ちからすれば、関連する疑念多しで怒り心頭到底、許されるものでもないはずなのに。


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白昼の囚人

2024-01-05 20:05:37 | 携帯小説

『白昼の囚人』笹沢佐保
『離愁』多島 斗志之(たじま としゆき)
『スパイ・その苦い歳月』『エンタープライズ爆破計画』『金と女と死』『ろくでなしはろくでなし』『赤い標的』藤原 審爾(ふじわら しんじ)

『お登勢』 「茜いろの坂」 『北国物語』『夜の傾斜』『海の壁・兜町殺人事件』『石狩平野』『見知らぬ橋』『蘆火野』『放浪家族』 船山馨の小説。


『動脈列島』『神は裁かない』 『風の骨』『毒煙都市』清水 一行(しみず いっこう)



『逃亡』帚木 蓬生(ははきぎ ほうせい)
『飢餓海峡』水上 勉(みずかみ つとむ)
『世界で一番優秀なスパイ』結城 昌治(ゆうき しょうじ)

『熱帯夜』山崎 洋子
『多国籍企業殺人事件』『権力の朝』『パリ遺言特急』『亡命機101便応答せよ』和久 峻三(わく しゅんぞう)


『妄執果つるとき』 (徳間文庫) 西村 寿行(にしむら じゅこう)
『白い華燭』(しろいかしょく)、嵯峨島昭(宇能鴻一郎)による小説
その他
『D機関情報』西村 京太郎
等々、今思いつくところの好みの作品です。推理小説っぽいのがお薦めかも。



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世の中エセ、リベラリスト多し

2023-11-19 00:52:59 | 携帯小説

オルテガがリベラルに対立する存在として捉え、全体主義、ファシズムや、マルクスレーニン主義に対して厳しく批判、対立したように、学生時代に、ちょうど、選挙権、投票どうするかの頃、下宿先で、昼一の教授の講義のおさらいでもするように、普段決して議論しないような政治的な話題で議論になって、なかなか、お互いの事を気にかけるキッカケにもなった思い出深い場面。だから、政治の季節、つまり、解散がどうこうと言われ出すと、あの頃の印象的な激論、相手の一言、こちらの、それに対しての応戦の一言などが走馬灯のように駆け巡るのだ。バカな、博物館行きのカビはえた、思想にこだわったまんまで、やれ、投票の選択肢の一つだなんて、笑っちゃうぜ。はっきりとした、主張。なかなか、おぬしやるなぁという、気持ちで初めての相手に、興味津々。じゃ、自民の候補をそっちはまだ.マシぐらいで、捉えて言ってるのかと思いきや、そうでもなくて、関心は、中道政党にあると、宣い始めた。こういう会話.油回ってくるのは、三人ぐらいが丁度いいのかもしれない。自分は、聞き役と合いの手ばかりの役回りという感じで、長時間が、瞬間に過ぎてしまったような、錯覚に。あっという間と思っていたら、3時間が。アルバイトの時間が迫ってしまって、そのお邪魔していた、その部屋から、直接アルバイト先に向かうことに。思い起こすことは、当時の学生、自分も含めてあの頃は、反体制気質そのものだったのに、あの頃でさえあえて、日本共産党の存在は、投票の選択肢にも、なかった。三人が3人とも.はっきり確認できる事だった。よって、それ故に、象徴的に思い出してしまうのだろうか。オルテガといえば、聴けば、その事を思い出して反応してしまうのだ。

しかし、昨今、オルテガのことを間違って理解しているとしか、いいようのない評論家の引用。ぶち当たることのなんと多いことよ。最近の痛感することの一つです。

自分が何故。オルテガを、担ぐかと、いえば
それは.気に入ってるからで。早いはなし、
短めに言えば.大衆の病理をこれでもかというぐらいに、あかして、それでいて、大衆に立脚した、政治の必要性を、語っているからで。つまりは.立ち位置としては新生保守。と言ったところか。

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政治家&教育者

2023-11-08 23:14:44 | 携帯小説
牧口、犬養ともに抱いた期待。どこかでこの二人は共感をし、そして僕たちにはわからないかもしれないのですが、なにか同じ目標、同じ理想が、この二人の目には映っていたのではないか。これは推測できます。古島が犬養と牧口をつなぎ合わせたということは、本当に犬養のことをよくわかった古島、本当に牧口のことがよく理解できていた古島が、接着剤のように、この二人が同じ思考法といいますか、同じものを目指す。同じものというのは、究極は一人ひとりの人間の幸福ですよね。教育の果たす役割ですよね。これをどうも近いものとして認識をして、この二人をくっつけたのではないかな、ということが十分に想像できます。犬養の考えは、明治政府の教育は忠君愛国ばかりだ。忠君愛国というのは非常時のことである。常時のことではない。常時の教育というのは立憲国民の教育、つまり憲法に基づいて一市民として生きていくということが非常に重要だ。そのことが疎かにされているのは非常に困る、と言っているのですね。これは牧口の教育観に非常に近い。犬養の教育観が、古島の文章で初めてわかりました。牧口と犬養の教育観の共通点が少しずつ見えてきます。という文言があります。つまり、巻頭の序の「天下に教ふ可からざるの人なく また以て教えざるべきの人もなし」という揮毫を犬養がしたためて、牧口の生涯の夢であった発刊に際して贈った源を辿ると、「古島氏の普通ならざる尽力に基づく」ものであった。牧口自身が書いている通りだと思われます。古島が牧口に犬養を紹介したということは間違いなく事実として確定できると思います。古島という人がいなければ牧口と犬養はたぶん結びついていない。そうすると、なぜ古島は犬養を牧口に紹介したのか。古島と牧口はいかなる関係だったのか。その後、これは小説『人間革命』のなかで書かれていますけれども、出獄後、戸田はすぐに古島を訪ね、戦況を確認している。小説のなかで古島は弁護士ということになっていますし、「小島」になっていると思います。しかし、モデルは間違いなく古島です。それで戸田は7月3日出獄した後に古島を訪ねて、実際に戦争がいつ終わるのかということの確認をしているわけですね。古島が当時の政治の中枢で行われていることを把握していた。古島が把握しているということを戸田は知っていた。古島という人がそういう存在だということは、あらかじめ戸田はよく理解をしていた。もとを正せば、古島が犬養を牧口に紹介している時期から人間関係が続いているのですね。古島という人は信仰には入っていません。信仰しているわけではないのです。それにもかかわらず、これだけ牧口を護り、戸田との繋がりを継続してきたというところにポイントがありますね。これは邪推ですが、もしかすると昭和33 年3月16 日に岸総理を呼ぼうということになったのは、まだ古島との関係が残っていたのではないか、パイプが残っていたのではないか。それが可能にさせたのではなかろうか、という推測が成り立ちますね。あくまでも推測です。可能性があったのではないか、ということです。これは今後の課題です。ここですこし視点をかえてみます。古島一雄は、長い期間にわたって犬養の秘書でした。犬養のことをずっと見てきたわけですね。犬養のことをそばにいて理解していた。その古島が、なぜ犬養を牧口に紹介したのでしょうか。古島については、伝記をはじめとして、いくつかの研究対象が残っているのですが、それらの著述を読んでも、牧口との関係が一切出てこないのです。牧口と古島の関係について、確証がとれないのです。仕方がないので、古島が犬養をどう見ていたのか、我われが知っている牧口とどういう重なりがあるのかなと考え、このような手法をとることにしました。そこでまず、古島が犬養をどうみていたのかということに、いったん焦点をあててみましょう。なかなか資料がないので、ちょっとやっかいなのですが、古島の「人間木堂の面影」という一文があります。まず、田中総裁、田中義一ですね。田中義一が突然亡くなるのです。その後継でどうにかして、犬養を引っ張り出さなければならない状況になる。そこで政友会の森幹事長が犬養に総裁就任のための要請に行くことになるわけです。ところが、犬養は並大抵の人ではない。並大抵の人ではない人は面倒くさい存在です。スイッチを押し間違えるととんでもないことになってしまいます。それを森幹事長はよくわかっていたので、側近の古島に一緒に行ってくれと頼みました。それに対して古島がどう答えたのかというと、「ソレは御免を蒙る」と断ったわけですよ。要請があったとしても一緒に行くのは嫌だと断ったわけですね。古島曰わく、「私は政友会員ではない。が、君が折角出掛けるならば、参考の為めにコレ丈を言って置く。犬養といふ人は打てば響く人だ、大きく撞けば大きく鳴る、小さく打てば小さく響く。党がどうしても犬養でなければならぬといふならば、誠心誠意を以て直ちに犬養の心臓にぶつかるの外はない」(「人間木堂の面影」、鷲尾義直編『犬養木堂伝(下)』、原書房、1968 年、631 頁)。こういう人だということですね。犬養が総裁になるということで周りが噂していたことは、おそらく犬養が色々な条件を出してくるのではないか。森幹事長は、それを想定していたらしいですね。ところがそれに対して古島は、そうじゃない。大きく打てば大きく鳴るし、小さく出ればそれだけのこと。もっとも大事なことは「誠心誠意を以って直ちに犬養の心臓にぶつかる」ほかはないと言ったわけです。現実にどうだったのかというと、犬養は無条件で総裁の就任を引き受けた。古島のアドバイスがきいたのですね。ものの見事です。それからこういうようなことも古島は書いているのですね。犬養の考えは、明治政府の教育は忠君愛国ばかりだ。忠君愛国というのは非常時のことである。常時のことではない。常時の教育というのは立憲国民の教育、つまり憲法に基づいて一市民として生きていくということが非常に重要だ。そのことが疎かにされているのは非常に困る、と言っているのですね。これは牧口の教育観に非常に近い。犬養の教育観が、古島の文章で初めてわかりました。
底流で繋がっていないとあの揮毫を贈るということはまずないでしょう。牧口と犬養の教育観の共通点が少しずつ見えてきました。牧口と犬養は16 歳違う。同世代として生きたわけではありません。犬養は江戸時代の末期に生まれています。安政2年ですから。牧口は明治4年ですから16 歳違います。宗教がどうのこうのというよりも、むしろものの見方とか、友に親切。研究を通してみるとどうもそういうようなことが言えるのではないかと思います。「一面極めて優しい方であったが、其半面には又非常に負けじ魂の強い方でありました」「不慮の災難に倒れられたのは、教育改革のためにも真に惜しむべきである」牧口の犬養の死に対する感想です。


一方は銃弾に倒れて、一方は牢獄に死す。そのまなざしは等しく。二人の軌跡は未来に向けてのいろいろな大切なことを考えさせてくれます。
(画像左下は古島一雄)

陽明学という学問の「象詞記」のなかに、「天下にかわる可<べ> からざるの人なし」。世の中にピンチヒッターになって自分に代わる人がいるのかというと、それはいない。自分は自分でしかない。そういうような文章があるそうです。天下に変化しないような人は存在しない。自分に代わる人はいないし、自分で生きていくなかで絶えず変わっていくのだ。絶えず変化していく。変化していかない人はいない、という趣旨の文章があるそうです。これをもとに犬養が考えたのではないか、というのがひとつの説です。

※(抜粋論文の引用元)
―牧口常三郎と犬養毅―



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思い出作り

2023-08-01 21:04:54 | 携帯小説
機会があれば、例えばこういう琳派の作品にもふれてみたいと思っている。


昨年は西に向かい、今年は東に。

昨夏の倉敷市、大原美術館にいったことを振り返っている。
たとえ1年であったとしても懐かしいかつて過ごした場所に再び訪れるというのもいいものです。


それから2012年だったか。金山の美術館前での合流。

旅先の行程に今回は美術館は含まれてはいないが、一応、久々に会うのも悪くはない。

夏はどこにいっても混んでいるだろうけれど、いつかは北海道なんかも、いいなあと。

訪ねたこと、いまだない、石狩など。いつかは行ってみたいもの。


小説作品「新選組始末記」で名高い、子母澤寛が生まれた地でもあるらしい。
過去の、歴史にまつわる関心事でもある。
隣国との関係とか
文豪と世にいわれる人々たちがどのように眺めてきたのかという問い。
漱石にしても正岡子規にしても。近代のあり方を生き方を自身に問うている。
誰かがそれらの文豪のことを佐幕派史観文学とか、、、、、そういう解釈も。なるほどと。


自分の維新史で尊敬する人物、あげるなら、誰が何と言おうと
この二名、変わることはない。
玉虫佐太夫。と、それから、小栗忠順(上野介)。




居間に掛けて、眺めている絵は「睡れる幼きモデル」児島虎次郎作
大原で買った複製画。あの時は
詩人の茨木のり子が詩で詠っていたフランス画「ルオーおじさん」にも出会えた。それから、クロード・モネの作品「睡蓮」もみた。
そして、しばらく、見入っていたのがこの絵だった。


美術館のオーナーは倉敷紡績ビニロン、プラントを戦後復興の中国に。ウィン・ウィンの先駆けした大原孫三郎。


今の隣国に関しては、自身の感想としてはアンビバレンツな複雑な感情あるものの学生時代に頂いた絆の証は大事にしています。





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