国そのものの意欲的なステップアップの取り組み。過去の歴史に学んでみようかと。ひとっとびに明治の頃に
当時の攘夷一辺倒の輩と二重写しのように、眺めてもいる。
改革派のなかでも先々を考え始めていた連中。万機公法に決し、後々の国の処し方をまでを、意見する中で温度差の始まり。PKО反対、安保反対とか、言ってる連中なんかを、あの頃でいう単純な攘夷派として見つめていた。
さどかし、表向き、パフォーマンスの開明派。理解しているようにみせて、TPPなんかも結局のところ反対ですか。それ無いでしょ、と笑っていた。
働き方改革も、ようは、前向きにどうとらえるかの問題。
コラボレーション、ステップアップ。
明治時代に日本の工業の発展に貢献したヘンリー・ダイアーという御雇い外国人。
「大日本」という日本への観察眼がちりばめられた書を残している。副題は「東洋のイギリス」。
ダイアーがもっとも魅せられて書き残したかったことは、それは、日本人の頑張る必死さの根源を知りたいということではなかったか、という解説も。
以前、通勤途中のラジオで聞いたことがある。(2016.12.8 )
東京大学月尾さんのコーナー。全国8時です。
それは「“ものづくり日本”の父、ヘンリー・ダイアー」というタイトルで、お雇い外国人のヘンリー・ダイア―に感謝、という内容でした。
「明治維新という一大事業を推進する動機となったのは、物質資源の開発や国富の増進ではない。ましてや西洋の習慣の闇雲な模倣の追求でもない。安政の不平等条約を5ヵ国と締結してしまい、世界から劣等国として見下されることは耐え難いという、名誉を重んじる気持ちこそが最大の動機である」と引用しています。
ダイア―が見抜いた、日本のたぐいまれな精神。騎士道にも似て汚れない精神。のちに新渡戸が解くところにある武士道。
「大日本」という日本のガイドブックのようなそれでいて専門的なずしりと重たい本、ダイアーが西欧人に紹介したいところの核心部分。
現在、日本は激変する国際情勢のなかでもがいてるように見えますが、官も民もこの言葉を今まさに思い起こすべきときのように思われます。
月尾さんの解説もそのまま引用させてもらいながらの紹介を。
日本政府はなんと、大臣より高い月給を、しかも24歳の大学を卒業したばかりの青年ダイアーに払っていたというのは驚きでした。
イギリスの大学というとオックスフォード大学やケンブリッジ大学を思い浮かべますが、当時、技術の分野で世界最高の大学は1451年に創設されたグラスゴー大学でした。
文系では「国富論」を書いたアダム・スミスや、「金枝編」を書いたジェームズ・フレーザー、理系では蒸気機関の改良で名高いジェームズ・ワットや、アインシュタイン以前の最高の天才といわれるウィリアム・トムソンが卒業している名門です。
ダイアーはその世界最高の大学(機械工学と土木工学)を主席で卒業したばかりで、突然、東洋の島国に行ってほしいといわれ、多分、複雑な心境だったと思いますが、恩師のウィリアム・ランキン教授の推薦で1873(明治6年)、8人の教授陣とともに日本に到着します。
当時の平均寿命は現在より短かったといえ、大学を卒業した直後に発展途上国の大学を創って教育できたと考えると、大変な能力だったと思います。
その分、給料は高額で、明治政府のナンバー2である右大臣の岩倉具視の月給が600円のときに、ダイアーの月給は660円でした。
なかなか換算は難しいのですが、現在の金額では月給200万円、年俸2400万円程度ですから、いかに期待されていたかが分かります。
明治時代に日本は短期間で先進欧米諸国に追いついていきますが、それは明治維新を実現した中心人物の多くが、幕末に密出国して欧米諸国との格差を痛感したことに出発点があります。
長州藩からはのちに初代内閣総理大臣になる伊藤博文、内務大臣を勤めた井上馨、初代法制局長官に就任した山尾庸三などなどに共通する危機意識。
伊藤博文と山尾庸三が1870年(明治3年)に「工部大学校建設の建議」により技術者を育成するための学校を設立する提言をし、伊藤や山尾が密航するときに手配をしてくれたジャーディン・マセソン商会に、校長になる人間の紹介を依頼します。
そこで選ばれたのがスコットランドのグラスゴー大学を卒業したばかりで24歳のダイアーだったのです。
1875年(明治8年)から工部大学校の授業が開始されますが、当然、すべて英語でした。そのようなハンディキャップがあるにも関わらず、ダイアーのもとからは優れた人材が育っていきました。
例えば、第5期生の田邊朔郎は、6年間の勉強の成果として設計した琵琶湖疎水という大土木事業を自身で工事責任者として完成させたわけですから、大変な人材が集まってきたことになります。
それ以外にも東京駅や日本銀行本店を設計した辰野金吾、赤坂離宮を設計した片山東熊、アドレナリンを発見した高峰譲吉、本家のスコットランドで現在は世界遺産に登録されているフォースブリッジという鉄骨の鉄道橋の工事監督をした渡辺嘉一など211名が卒業していきます。
欧米諸国に追いつくため様々な分野で外国人を政府の顧問などに雇いますが、その御雇外国人のなかで最も多い分野が技術関係の指導者でした。
1874年(明治7年)の資料では426名の政府の御雇外国人のうち、228名(54%)が工部省の雇った技術者でした。
日本に8ヵ月しか滞在しなかった札幌農学校の実質的な初代校長ウィリアム・クラークは「ボーイズ・ビー・アンビシャス」という言葉で多くの人に知られていますが、10年近く滞在して多数の優秀な人材を育てたダイアーは意外に知られていません。
ダイアーは日本がイギリスのような議院内閣制の憲法による民主国家になることを期待していましたが、伊藤博文がドイツを見習った立憲君主制の憲法を採用したことに落胆しています。
それが、帰国の切っ掛けとも言えないでしょうが、帰国後も、日本に対する関心は衰えることがありません。スコットランドでその後日本について20年間研究し、1904年に出版されたのが「大日本」という大著なのです。
当時の日本についての百科事典といってもいいような内容で、歴史、文化、教育、軍事、産業、貿易、財政について説明していますが、出版が日露戦争の勃発から半年後であったため、急遽、追加して日露戦争の結末を予測しています。
当時、グラスゴー大学に留学していたロシアの将校たちの勉強態度と比較して、日本は絶対に勝つと書いているのがおどろきです。
追記として、経済学の先生の所見を
ヘンリー・ダイアーと日本
その後の展望
北 政巳
ダイアーは、前述した如く「西洋の日本」で資本主義の成熟期を迎えたイギリス・スコットランドから
「東洋のイギリス」で資本主義への道を歩みはじめた極東の日本へ到来し、
「社会進化論」を実践.成功して帰国、再び母国でその実現に努めた。
グラスゴウ西部スコットランド短大の創立等の輝やかしい業績を残したが、工部大学校(東大工学部)程ではなかったという本人の思い。
そのことが、彼をして一層「日本論」へ、日本への探求の情熱を傾けたさせたのではなかったか
彼は・率直に日本から学ぶべき点として①優越感の撤廃、②道徳・教育水準を高めて国民的能率の増進、
③国有企業の成功(鉄道例)、④平和・共存共栄の思想を挙げる。
しかし日本の未来について警告も与えている。
即ち中国と日本の比較から、前者が東洋文化を保守的に保っているのに対し、
後者日本は「西洋のカの論理」を吸収して発展したため、その償いとして西欧と同じ類の運命をたどるかもしれないとする。
国民倫理についても、キリスト教は定着できず仏教も対応できず、
「忠誠心」「愛国心」を根本としたが、果して将来はどのように進展するのであろうかの疑問を投げかける。
さらに個人主義の高揚こそ真の国民主義であり、そのため物質的・便宜的哲学の必要性を訴える。
日露戦争については、日本の立場をH ・スペンサーの「事実による抑圧された三段論法」で弁護し、日本は自身の放恣のためではなく、生存のために戦いで、国際通商の自由と友好のため」、「東洋と西洋のより深い融合のために」、「自由を求めて欧米のために」戦ったと定義する、そして日露戦争の中でも、自分の教え子が「エンジニアの重要性を、鉄道は軍隊・物財を迅速に輸送し、造船所は船舶を早急に修理し、種々な機械を巧案、製造し、電信・電話は勿論のこと化学.機械.電気工学においても威力を発揮して証明」したと賛める。
しかし今や日本人の「世界」は、明治以前の中国・朝鮮ではなく、太平洋沿岸・アジア全域に拡大した。
またその脅威を「黄禍」と警戒する動きも生まれつつあった。
またインドでは、日本の活躍に刺戟されて独立への動きも始まっていた。
ヨーロッ.ハではドイツ資本主義が、また太平洋沿岸ではアメリカ資本主義が膨張しつつあった。
さらに同盟国イギリスについても・日本警戒論が高まりつつあった。
そしてダイアー自身も「日本は今や世界の他の工業化諸国と同じ社会・経済問題に直面している。
興味あることは東洋のイギリスが西洋のイギリスの経験から、
どれほど教訓を生かしきれるかであると(苦肉の表現を文末に載せざるをえなかった。)
そして伊藤博文の日本の二〇世紀初めの目的」の弁明・①近代文明の世界性・②東洋と西洋の思想の調和、
③中国.朝鮮の再生、④東洋での平和・通商の促進の実現が、世界に敵を生むことの可能性を心配する。
その日本の将来を憂慮する中で、カントの『恒久平和論』の3点、 ①エンジニアの貢献で世界は狭くなった、② 民主主義勢力の拾頭による国際関係、③知識の拡大と社会科学の発達による「真理」探究への努力それを通じての団結(世界平和)の結実を期待し、その先導的役割を日本に熱望していたのが良く分かる。
それ以後の歴史は我々の知るところである。日本の国民倫理は軍国主義一辺倒になり、第一次大戦では友好国であったものの、第二次大戦では敵対国として「東洋のイギリス」と「西洋の日本」は戦うことになる。
ダイアーは、その悲劇を見ることなく一九一八年に没した。彼にとってはせめてもの幸いであったろう。
しかし戦後〇〇年、再び日本の経済力が世界に拾頭した今日、一〇〇年前の我国工業化の父ダイアーの著作と思想が注目されても不思議ではない。
私にはこれほど今なお新鮮味を失はない「日本論」を、如何にして彼は綴りえたのであろうかとの率直な疑問が浮んでくる。そして彼の「社会進化論」が再び日の眼を見るのではなかろうかとさえ思えてならない。