「目にはさやか」でなくても、風は夏の季節のものとは明らかに違ってきました。
芭蕉の句の、ものいえば唇寒し秋の風 には、“座右銘”として、「人の短をいふ事勿れ。己の長を説く事勿れ」いう詞書がついています。
およそ芭蕉に抱くイメージから遠い、諺そのもののようないいかたが、辛うじて下五の“秋の風“の季題で救われています。
芭蕉の頃には、こうした諺や格言めいた内容を短詩型でいう習慣があったようです。耳慣れた歌の形式にしておくと、記憶しやすいし、誰の耳にも馴染むという効果を考えてのことでしょう。
さらには、文学の概念も、今とはおよそかけ離れた、いわゆる学問という捉え方がありましたから、教訓的なにおいのするものが入っていないと文学とは感じにくかったと思われます。
例えば、蓼太の むっとして戻れば庭に柳かな 世の中は三日見ぬ間の桜かな など、多分に教訓めいた意味合いを感じて、かえって俗耳に入り易かったものと思われます。
ところで、この「ものいえば唇寒し」の意味は、芭蕉翁の詞書のとおりなのでしょうが、普通、ものはあまり言わないほうが良いというように解釈していると思います。転じて軽々しくものを言えば、とんでもない災難を招くという意味でも使われています。
「口は禍の門、舌は災いの根」ともいいます。さらに進むと、「沈黙は金」「問答無用」と展開します。
要するに、伝統文化として、自己主張は精神的未熟者のすることであるといった考え方があって、黙って流れに逆らわないのを美徳としてきたのです。
為政者にとっては、これは都合のよいことこの上ない伝統でしょう。「日本人社会では debateは一般化しない」と断言しているアメリカの学者がいましたが、それでも、近頃、少しづつ、唇を震わせながら、怒りの声を発する人が出てきたのは、ささやかな前進です。
論理的な議論を戦わすのは依然として苦手でも、どんなに唇に寒くても、納得できないことは、出来ないと表明しなくては、暮らしが変わることはありませんから。
芭蕉の句の、ものいえば唇寒し秋の風 には、“座右銘”として、「人の短をいふ事勿れ。己の長を説く事勿れ」いう詞書がついています。
およそ芭蕉に抱くイメージから遠い、諺そのもののようないいかたが、辛うじて下五の“秋の風“の季題で救われています。
芭蕉の頃には、こうした諺や格言めいた内容を短詩型でいう習慣があったようです。耳慣れた歌の形式にしておくと、記憶しやすいし、誰の耳にも馴染むという効果を考えてのことでしょう。
さらには、文学の概念も、今とはおよそかけ離れた、いわゆる学問という捉え方がありましたから、教訓的なにおいのするものが入っていないと文学とは感じにくかったと思われます。
例えば、蓼太の むっとして戻れば庭に柳かな 世の中は三日見ぬ間の桜かな など、多分に教訓めいた意味合いを感じて、かえって俗耳に入り易かったものと思われます。
ところで、この「ものいえば唇寒し」の意味は、芭蕉翁の詞書のとおりなのでしょうが、普通、ものはあまり言わないほうが良いというように解釈していると思います。転じて軽々しくものを言えば、とんでもない災難を招くという意味でも使われています。
「口は禍の門、舌は災いの根」ともいいます。さらに進むと、「沈黙は金」「問答無用」と展開します。
要するに、伝統文化として、自己主張は精神的未熟者のすることであるといった考え方があって、黙って流れに逆らわないのを美徳としてきたのです。
為政者にとっては、これは都合のよいことこの上ない伝統でしょう。「日本人社会では debateは一般化しない」と断言しているアメリカの学者がいましたが、それでも、近頃、少しづつ、唇を震わせながら、怒りの声を発する人が出てきたのは、ささやかな前進です。
論理的な議論を戦わすのは依然として苦手でも、どんなに唇に寒くても、納得できないことは、出来ないと表明しなくては、暮らしが変わることはありませんから。
あちらで育つ。帰国後、時期を迎えたお嬢さんは
ボーイフレンドができるのですが、その内に相手が離れていく・・。
それの繰り返しが続き、知人は苛苛状態へ。
どうやら、お付き合いの過程で、どうもお嬢さんは
自己主張が強く、”控えめ”と言う単語が辞書にないと判明。
こんな事になるのなら、単身赴任をしていれば・・なんてこぼしていました。白人さんと結婚すればとも言えませんし。世の中、難解そのもの。
ps=天草にいる知人の誘いで久しぶりに九州・熊本へ
一人旅。天草五橋他と熊本城見学後、
先ほど帰阪。
天草四郎と加藤清正の名前を再認識。
帰途、新幹線の車中から遠賀川を見ました、
水量豊富。
と言う次第で、とりあえず、本コメントは雑そのもの
ですが、そう、書きなぐり・・、お許しを。
ダンマリを決め込んでいない事だけを記す意味。
そう、主題の本論に関しては改めて・・。
人と人が出会い・・語り合い・・もめる・・傷つきあう・・許しあう・・というプロセスが人間成長となる
って聞いたことがありますが、片方が自分の気持ちや意見を出さなければ平穏無事に収まる。
職場・町内会では参加しても静かにお話を聞くだけにして、喋らないように・・と教えてくれた人もいます。その理由が”アンさん、損するよ”だって。
テレビのCMで朝日新聞社の”言葉って何?”
なかなかの企画ですね、いろんな人が語っています。
”希望”もありました。
寡黙でいると無視され、饒舌は煩がられ、とかくこの世は難しい。
よって、ブログへの投稿だけでも楽しみましょうか?
そう、学生時代は不登校していなかったので。
とかく棲みにくい世です。といって、口ほどにもの言う目も持ち合わせていないとなると、流されまいと懸命に踏みこたえねばなりません。
角を立てることも次第に減ってきています。何かつまらない。
もっと、怒ったり、悲しんだり、思い切り笑ったりしてみたいというのが本音です。
ブログで憂さ晴らしというところでしょう。相手が見えないことを好い事にして、自分も頬かむりですから、ちょっと卑怯ですかね。
饒舌は煩がられる、そのとおりですが、ついつい口数が多くなって書き過ぎです。、”さむー”
それというのも、かつての不登校の埋め合わせでしょう。