弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

小平桂一「宇宙の果てまで」

2008-06-24 20:00:09 | サイエンス・パソコン
ハワイのハワイ島マウナケア山山頂(標高4205m)に、日本のすばる望遠鏡が設置されています。
すばる望遠鏡について、このブログでは以前、海部宣男「すばる望遠鏡の宇宙」として取り上げました。海部宣男氏の著書であるすばる望遠鏡の宇宙 カラー版―ハワイからの挑戦 (岩波新書 1087)に依ったものです。

すばる望遠鏡の建設推進は、初代の小平桂一氏から海部氏が引き継ぎ、海部氏の時代に本格建設及び完成にいたりました。
「外国の領土に、数百億円もする日本の国有財産を設置できるはずがない」という常識を覆し、すばる望遠鏡設置計画を実現したのが小平氏らしいです。てっきり、カリスマ的リーダー資質を備えた方かと想像しました。
そこで、小平氏著作の以下の本を読んで見ました。
宇宙の果てまで―すばる大望遠鏡プロジェクト20年の軌跡 (ハヤカワ文庫NF)
小平 桂一
早川書房

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読んでわかったことは、小平氏は決してカリスマ的リーダーなどではなく、もちろん優秀ですが、夢多き天文学者の一人であり、普通の天文学者として一生を終えても決しておかしくない人でした。

私が子どもの頃、小学校か中学か忘れましたが、学校の図書館にパロマー天体写真集という大判の写真集が備えてあり、それを見て天体の美しさに見ほれたものです。
小平氏も同じパロマー天体写真集を高校生のときに見ているのですね。
同じ写真集で啓発されながら、一方は普通のサラリーマンから弁理士へと流れ、他方は夢を追い続けて天文学者となり、世界一の大望遠鏡を実現したのですから、人生はまさにいろいろです。

小平氏は若い頃にドイツに留学し、そこで知り合ってドイツ人女学生のウタさんと結婚します。日本に帰り、3人の娘さんの子育て時代にウタさんは日独の文化の違いに悩まされたそうです。

日本の天文学者の間で、「空気の良いマウナケア山山頂のようなところに、日本は大望遠鏡を設置すべきだ」という議論はずっとあったようですね。実現すると思っていた人は少ないでしょうが。
小平氏が停年(注1)まで15年の年になったとき、「残り15年間を、一天文学者として研究に打ち込むか、海外大望遠鏡設置に注力するか、軌道望遠鏡の仕事をするか」と思案します。そのとき、奥さんがドイツ人であることも手伝って、残りの学者人生で海外大望遠鏡設置を推進しようと決めたのです。

1982年当時、小平氏は東大附属の東京天文台に勤務していました。三鷹にあります。そしてハワイ望遠鏡実現のため、出かけるところといえば、本郷(東大)、虎ノ門(文部省)、永田町(国会議員)です。
偶然に文部省の高官と隣り合わせに座る機会があり、海外大望遠鏡について水を向けてみると「天文台が国立の研究所にでもなればですね」という意外な回答が帰ってきます。「何処か僕たちが知らない所で、知恵者が相談をしているようにも思えた。」
その頃、国会議員が「大望遠鏡計画推進議員連盟」を発足させます。推進者は与謝野馨氏で、加藤紘一氏を表に立て、船田元氏や扇千景氏が名前を連ねているということろがおもしろいです。

外国領土に日本の国有財産を設置できるのか。南極の昭和基地は、「外国」ではないので例外だそうです。
外務省の友人に調べて貰ったら、1件だけ「希有の例」が見つかりました。岸信介氏の肝いりでフィリピンに建立された戦没者慰霊塔です。日本の国有財産です。
戦没者慰霊塔と、数百億円の天文台とは全く異なりますが、しかし「前例」として足がかりにはなります。

1989年頃ですか、ある日思い切って大蔵省に出かけます。旧友の一人が相当に地位の高い役職に就いています。海外大望遠鏡計画について説明すると「文部省はどうですか」と尋ねます。「外国領土に、こんな何百億円もする国有財産をおいて運用するのは、前例のないことですから。そこは大きな問題です。」と答えます。

「そうですか。でも、置くことを禁じる法律はありませんよ」

このことばが、その後すばる望遠鏡を語るキーワードとなっていますね。

海外大望遠鏡設置計画は徐々に具体化し、既に国立天文台に改組した組織では活動が活発になります。
ここで驚くべきことに、もろもろの繁雑な事務処理を、基本的には天文学者が身を粉にしてこなしているのですね。新天文台の設備計画にしても、細部に至るまで、天文学者が勉強し、納得して先に進んでいます。
私のようなサラリーマン経験者は、餅は餅屋で、事務処理なら事務処理を得意とし業務とする人が、設備計画なら設備を得意とし業務とする人が担当するものと思っていますから、天文学者が何から何までお膳立てしなければ計画が推進しないというのは驚きです。
天文学の研究を志した優秀な研究者たちの多くが、すばる望遠鏡実現のために人生の多くを捧げているようでした。


すばる望遠鏡設置計画は正式に走り出します。小平氏の停年まで8年を残す頃、望遠鏡の稼働が小平氏の停年までに間に合わないことがはっきりします。この時点で、小平氏は建設のリーダーを前出の海部氏にバトンタッチするのです。

その後小平氏は国立天文台長に就任し、天文台長としてすばる計画を後押しします。

完成したすばる望遠鏡は、極めて短期間のうちに高性能を発揮するに至ります。
日本の多くの天文学者が建設計画に集められ、また三菱電機が主契約社としてリスクを負いながら望遠鏡を設計し建設し、各自がその能力を十二分に発揮して、突出した総合能力を実現したようです。

(注1)普通は「定年」といいますよね。不思議に思ってネット検索したところ、学校関係者が「停年」を使っているようです。あとは相撲界で使われているそうです。
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