日本が抱える教育問題について、非常に具体的な事例で分からせてくれる話を読みましたので、ご紹介します。
ここでいう教育問題は、国民があまねく受けるべき教育というより、「リーダー」と呼ばれることを目指す人が受けるべき教育です。タブー語を用いれば「エリート教育」ということもできます。
日経ビジネスオンラインから
「そこまでヒドイの? ケア・テーカーと呼ばれている日本人支社長たち」
大上 二三雄
2012年1月6日(金)
『古い米国人の友人が半年ほど前、日本の大手メーカー米国本社に幹部として転職した。先日、彼と暫くぶりに邂逅し食事をした席、酒が廻ったあたりで話題は、彼の勤務先における日本人駐在員の評価に移った。
・・・・・
余程言いたいことが溜まっていたのか、彼の毒舌は続く。
「彼らは、日本にある本社の事情は良く知っている、だがそれ以外の事には驚くほど無知だ。役割に応じたスキルは不足しておる、学ぶ意思も無い。ディナーの話題はタイガーウッズか日本人メジャーリーガーに関することくらい。自国の歴史や文化を正確かつ興味深く説明できず、政治や国際問題について語れないビジネスエクゼクティブなんて、日本以外の先進国では考えられないぞ。この間の話題は原発問題だったが、我々の方がディテールを含め良く理解していたのは、最早ブラックジョークの域だ」』
国際社会で生き抜いていくためにはどのような能力と知識が必要なのでしょうか。
『目標を提示し、能力に応じた各人の役割を規定し、進捗に応じ情報収集の上適確に判断を下し、次のアクションにつなげていく。いわゆるPDCA(Plan Do Check Action)のサイクルを廻して行く能力。このような当たり前の能力こそが、最も重要である。』とした上で、以下のように論じています。
『次に重要なのは、日本に関する知識である。その中でも、重要なのは現代日本の政治経済や社会、それから明治維新以降の近代史であろう。平安や江戸時代の話は、ファンタジーや教養としての意味が有るが、必須科目であるとは思わない。多様性の中で、近代・現代日本の政治経済や社会を語っていくためには、それと世界を対比して行くことが望ましい。アジアや欧米の近代史に日本を対比して語らうことが出来るようになれば、ある程度の評価を得ることが出来る。
日本以外の先進国やアジア諸国は、階級社会(Class Society)により成り立っている。ビジネス分野に於いてそれは、MBAプロトコルと呼ばれる見えない壁を形成している。MBA資格の有無が重要なのではなく、「話が出来る相手かどうか、を見極める手段である。この文化の根源は、ギリシャ時代の自由市民(Free Citizen)に遡ることが出来る。すなわち、一定レベルの教養(Liberal Arts)を習得した者のみが、自由かつ平等な権利を有する市民たり得る、という考え方である。』
日本の各界でリーダーたらんとする若者は、上の話を心して聞くべきです。
何か付け加えようと考えましたが、上の引用にすべてが現れています。
戦後の日本の教育は、「国民にあまねく同じ教育を」という方針でなされてきたと思います。一方、上記の議論で「リーダーに必須」とされている教養(リベラルアーツ)は、すべての国民に必須というわけではありません。リーダーを志す、おそらく同学年日本人のうちの10%程度が身につけていれば十分と思われます。そして、このような素養を身につけるのは、現在の6334制でいったら高校と大学教養課程でしょう。
現在の日本では高校はほぼ全入、大学は同世代人口の約50%が進学しています。このうちから同世代人口の10%程度の学生が身につけるべきリベラルアーツは、どのようにして修学したらよろしいのでしょうか。
おそらく、高校進学の時点で、リベラルアーツを修養する高校とそうでない高校とに道が分かれるのでしょう。その場合、リベラルアーツを修養する高校に進学した生徒は、大学受験の詰め込み教育から解放される必要があります。どのような入試制度になるのでしょうか。
いずれにしろ、これは「エリート教育」として戦後一貫して日本でタブーとされてきた方向ですね。
ところで、上記のような制度が過去には日本に存在しました。旧制高校です。私が父親から聞いた限りでは、知識を必要とする入学試験は高校受験までです。ひとたび高校に入学すると、旧制高校では学生がお互いに切磋琢磨し合い、詰め込み教育はありません。大学入試は、さほど勉強せずともクリアできたようです。“大学では勉強した”と父親は言っていました。
旧制高校制度は、戦後進駐軍によって解体され、消滅しました。“日本を弱体化するための陰謀”といわれていますが、結果からすればその通りになりました。
もう一点、教養(リベラルアーツ)を備えていなくても、欧米人から尊敬を受けることができる場合があります。日本文化を深く心得ている場合です。上記記事は続きます。
『アジアの末端に位置する日本では、入りこんできた様々な文化が熟成され、渾然一体となり完成されている。このような日本の伝統的な文化、例えば芸術や宗教、伝統的な儀式、皇統などについてその経緯から現在までを語ることが出来れば、階級社会における見えない地位は、間違いなく向上する。
筆者の友人の奥様は、修学旅行以外は京都を出たことが無い和菓子屋の娘さんであったが、茶道や華道、日本舞踊などを一通り修めていた。ご主人のロンドン赴任に同行したところ、英語が全く話せなかったにも関わらず、彼女はあっという間にパーティの花形となった。
そのうち、スペインやフランスの貴族たちのパーティにお呼びが掛かるようになり、今では国際的にアンティーク家具を商う貿易商として、ロンドンの社交界を中心に活躍している。和を極めることがグローバルに繋がる、良い例と言えるだろう。』
同じ話を深田祐介氏の「新西洋事情 (1975年)
」「西洋交際始末 (1976年)
」のどちらかで読みました。そこでは、華道のたしなみがある日本女性がアメリカで尊敬を集めた話が載っていました。
身近なところでは、茶道の心得があるとずいぶん役に立つようです。私の母親は茶道をやっていまして、父親のビジネスで外人が来日したときにはわが家で茶道を披露するのが恒例になっていたと聞きました。
ここでいう教育問題は、国民があまねく受けるべき教育というより、「リーダー」と呼ばれることを目指す人が受けるべき教育です。タブー語を用いれば「エリート教育」ということもできます。
日経ビジネスオンラインから
「そこまでヒドイの? ケア・テーカーと呼ばれている日本人支社長たち」
大上 二三雄
2012年1月6日(金)
『古い米国人の友人が半年ほど前、日本の大手メーカー米国本社に幹部として転職した。先日、彼と暫くぶりに邂逅し食事をした席、酒が廻ったあたりで話題は、彼の勤務先における日本人駐在員の評価に移った。
・・・・・
余程言いたいことが溜まっていたのか、彼の毒舌は続く。
「彼らは、日本にある本社の事情は良く知っている、だがそれ以外の事には驚くほど無知だ。役割に応じたスキルは不足しておる、学ぶ意思も無い。ディナーの話題はタイガーウッズか日本人メジャーリーガーに関することくらい。自国の歴史や文化を正確かつ興味深く説明できず、政治や国際問題について語れないビジネスエクゼクティブなんて、日本以外の先進国では考えられないぞ。この間の話題は原発問題だったが、我々の方がディテールを含め良く理解していたのは、最早ブラックジョークの域だ」』
国際社会で生き抜いていくためにはどのような能力と知識が必要なのでしょうか。
『目標を提示し、能力に応じた各人の役割を規定し、進捗に応じ情報収集の上適確に判断を下し、次のアクションにつなげていく。いわゆるPDCA(Plan Do Check Action)のサイクルを廻して行く能力。このような当たり前の能力こそが、最も重要である。』とした上で、以下のように論じています。
『次に重要なのは、日本に関する知識である。その中でも、重要なのは現代日本の政治経済や社会、それから明治維新以降の近代史であろう。平安や江戸時代の話は、ファンタジーや教養としての意味が有るが、必須科目であるとは思わない。多様性の中で、近代・現代日本の政治経済や社会を語っていくためには、それと世界を対比して行くことが望ましい。アジアや欧米の近代史に日本を対比して語らうことが出来るようになれば、ある程度の評価を得ることが出来る。
日本以外の先進国やアジア諸国は、階級社会(Class Society)により成り立っている。ビジネス分野に於いてそれは、MBAプロトコルと呼ばれる見えない壁を形成している。MBA資格の有無が重要なのではなく、「話が出来る相手かどうか、を見極める手段である。この文化の根源は、ギリシャ時代の自由市民(Free Citizen)に遡ることが出来る。すなわち、一定レベルの教養(Liberal Arts)を習得した者のみが、自由かつ平等な権利を有する市民たり得る、という考え方である。』
日本の各界でリーダーたらんとする若者は、上の話を心して聞くべきです。
何か付け加えようと考えましたが、上の引用にすべてが現れています。
戦後の日本の教育は、「国民にあまねく同じ教育を」という方針でなされてきたと思います。一方、上記の議論で「リーダーに必須」とされている教養(リベラルアーツ)は、すべての国民に必須というわけではありません。リーダーを志す、おそらく同学年日本人のうちの10%程度が身につけていれば十分と思われます。そして、このような素養を身につけるのは、現在の6334制でいったら高校と大学教養課程でしょう。
現在の日本では高校はほぼ全入、大学は同世代人口の約50%が進学しています。このうちから同世代人口の10%程度の学生が身につけるべきリベラルアーツは、どのようにして修学したらよろしいのでしょうか。
おそらく、高校進学の時点で、リベラルアーツを修養する高校とそうでない高校とに道が分かれるのでしょう。その場合、リベラルアーツを修養する高校に進学した生徒は、大学受験の詰め込み教育から解放される必要があります。どのような入試制度になるのでしょうか。
いずれにしろ、これは「エリート教育」として戦後一貫して日本でタブーとされてきた方向ですね。
ところで、上記のような制度が過去には日本に存在しました。旧制高校です。私が父親から聞いた限りでは、知識を必要とする入学試験は高校受験までです。ひとたび高校に入学すると、旧制高校では学生がお互いに切磋琢磨し合い、詰め込み教育はありません。大学入試は、さほど勉強せずともクリアできたようです。“大学では勉強した”と父親は言っていました。
旧制高校制度は、戦後進駐軍によって解体され、消滅しました。“日本を弱体化するための陰謀”といわれていますが、結果からすればその通りになりました。
もう一点、教養(リベラルアーツ)を備えていなくても、欧米人から尊敬を受けることができる場合があります。日本文化を深く心得ている場合です。上記記事は続きます。
『アジアの末端に位置する日本では、入りこんできた様々な文化が熟成され、渾然一体となり完成されている。このような日本の伝統的な文化、例えば芸術や宗教、伝統的な儀式、皇統などについてその経緯から現在までを語ることが出来れば、階級社会における見えない地位は、間違いなく向上する。
筆者の友人の奥様は、修学旅行以外は京都を出たことが無い和菓子屋の娘さんであったが、茶道や華道、日本舞踊などを一通り修めていた。ご主人のロンドン赴任に同行したところ、英語が全く話せなかったにも関わらず、彼女はあっという間にパーティの花形となった。
そのうち、スペインやフランスの貴族たちのパーティにお呼びが掛かるようになり、今では国際的にアンティーク家具を商う貿易商として、ロンドンの社交界を中心に活躍している。和を極めることがグローバルに繋がる、良い例と言えるだろう。』
同じ話を深田祐介氏の「新西洋事情 (1975年)
身近なところでは、茶道の心得があるとずいぶん役に立つようです。私の母親は茶道をやっていまして、父親のビジネスで外人が来日したときにはわが家で茶道を披露するのが恒例になっていたと聞きました。
仕事が終わった後でのディナーなどどれだけ話題を出せるか、または相手の話にどれだけついていけるか、かなり苦労しました。
で、自分が達した結論は、日本語でまず、日本の事情や自分の考えを持たないといけないということ。
それから新聞を読む時間が長くなりました。 新聞が全てを語っているわけではありませんが、一冊読むと大抵の話題や状況は理解できます。一冊読むのに少なくとも1時間は掛かりますが、頭のトレーニングにはなりますね。
あと、日本のことを自分なりに語れるかでした。
日本語で話ができない人は、たとえTOEICなどの得点が高得点でも実際の場面では無口になるのを目の当たりにしました。 これも日本の教育の結果の1つかもしれません。
薀蓄もちょっとはあった方が良いような気もします。
幸い、自分は、生来の無用なお喋りなところがこの部分を少し救ってくれました。
suehiromは、実際の生活の中で、上記著者が主張していると同じことを実感されているのですね。そしてその実感をもとに、先進諸国のエリートたちと対等に渡り合える教養を身につけるべく努力されているのですね。
私は、社会人になってから、日本の近現代史をはじめとして勉強するように務めていますが、社会人になってから身につけた知識は忘却が速いです。ごく最近勉強したこと以外はどんどん忘れていきます。
やはり、高校や大学教養課程でしっかり勉強したことの方が一生の糧となるようですから、あのころに勉強しておけば良かったと後悔します。
そういった観点では、教育制度を変えていかないと本当の意味で世界と渡り合える人材を輩出するのは難しいのかもしれません。
外国の人と日本の近現代史に関して最後に議論したのは、もう20年近く前になります。
オリエンタルホテルの英会話教室で、キャシー先生を相手に真珠湾攻撃の真相について議論したのが最後でした。懐かしい思い出です。
suehiromさんは実際のビジネスの場面で日々そのような経験をされているということで、その活動を通じて知識がご自分の血肉になっているだろうと推察します。
昨年末に、Global_Functionでの私の上司が訪れて、ディナーのときは、日本とドイツの税制から話が始まり、政府の対応についてなどで1時間くらい話になりました。
また、子供らが大きくなるにつれ、日本のしくみや政治、歴史のことを詳しく話せないのもおかしいのではとも思っています。
たしかに語学の向上も必要ですが、母国語でちゃんと話や討論ができるようでなければ、海外の方と一緒に仕事をするときに、浅くみられてしまうようです。
まだまだ、勉強する必要があります。