弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

桃園川源流

2015-08-23 21:50:11 | 杉並世田谷散歩
先日、このブログの「荻窪_教会通り界隈」記事で、天沼弁天池について紹介しました。その中で、昔は弁天池の湧き水が桃園川の源流であった、と書きました。

本日は、その桃園川について書きます。
私が歩いて回ったのは、荻窪駅近くの職場から、昼休みの時間内に歩き回れる範囲に限定されます。そのため、桃園川のほんの源流しか回っていません。最も遠くは天沼熊野神社付近までです。

ウィキペディアによると、桃園川(ももぞのがわ)は、東京都杉並区および中野区を流れる河川で、全区間暗渠化されています。中野区内では「中野川」とも呼ばれるこのこと。

『東京都杉並区の天沼弁天社内にあった弁天池に源を発し1.5kmほど東へ流れる。中杉通りを越えた後に南下、杉並区立けやき公園のところで中央線より南に流れ、そこから東へ転じ、環状七号線を越えたところからはほぼ大久保通りと併走する形で中野区を東へ横断する。中野区と新宿区の境界にある末広橋脇で神田川に合流する。』
『元々桃園川は水量が少なかったため、江戸時代の1707年(宝永4年)から練馬区関町南付近で千川上水からの分水を受けていた。その水は青梅街道沿いに流れた後、荻窪駅前のりそな銀行荻窪支店東側の地点から北への水路を通り、桃園川に流れていた。』


上はgoo地図、下は明治20年地図です。

今回も、古地図史料出版株式会社が発行している「東京近傍図(1/2万)七面組 明治二十年作 陸地測量部作」から、桃園川源流付近を上に示します。ピンクはJR荻窪駅、青は桃園川源流で、いずれも私が塗ったものです。
左端中程から右下に向かう道路が青梅街道です。
明治20年地図によると、桃園川源流は二股に分かれています。八幡祠の左を北西に向かう源流が、天沼弁天池に発する源流です。上のgoo地図で「区立郷土博物館分館」と記載されている緑の部分が、現在の弁天池公園です。
そして、明治20年地図ので「天沼村」の文字の上を西に向かう源流が、千川上水から受けた分流が流れる水路のはずです。但しこの地図では、水路は青梅街道まで連続しておらず、途中で途切れています。また、青梅街道沿いにあったはずの分水(六ケ村分水)も記載されていません。

まずは、私がたどった経路を写真とともにご紹介します。
弁天池からの源流です。
南から弁天池公園をみたとこです(下写真)。
 
逆に弁天池公園から南を見ると、細い路地が伸びているのがわかります(下写真)。この路地が、おそらく桃園川源流の痕跡でしょう。
 
路地をたどっていくと(左下写真)、ちょっと広い道路に辿り着きました(右下写真)。
  

このれんが道が、桃園川の本流です(下写真)。道の向こう側にある緑地は天沼もえぎ公園です。
 

それでは、もう一つの源流を、青梅街道からたどることにします。
下の写真は荻窪駅北側の青梅街道を北西に見ています。りそな銀行の横に、路地の入口が見えます(左下写真)。車止めの柵があるところが、昔は水路だった路地のお約束です。れんが道が先まで続いています(右下写真)。
  

ここかられんが道をたどっていくと(左下写真)、教会通り商店街を突っ切ります(右下写真)。
  

そして、先ほどの弁天池公園からの細い路地です(左下写真)。どう見ても、青梅街道から続いているれんが道の方が立派です。弁天池公園からの路地は、小さな支流が大きな本流に合流したようにしか見えません。れんが道をさらに東進すると、道はだんだん広くなっていきます。中央に緑地帯が出現します(左下写真)。
  

もっと行くと中央緑地帯がさらに広くなります(下写真)。私が到達したのはここまでです。熊野神社の近く、といったところでしょうか。
 

以上が、私の見た現在の桃園川源流の様子です。

それでは、千川上水から分水されて桃園川に流れた経路についてたどってみましょう。
千川上水は、玉川上水からの分水です。玉川上水は、多摩川の羽村取水所で取水され、延々と東進して、新宿を経由し、最後は四谷大木戸に達し、そこから江戸市中に水道として供給されました。私は以前、羽村取水所から順次玉川上水をたどったことがあります。一日で歩ける距離を刻みながら、何日もかけてです。ブログ記事としては、玉川上水(1)から始まり、玉川上水(11)までです。千川上水分水地点については、玉川上水(7)に書きました。

玉川上水の全体地図です。

このうち、鷹の台から三鷹までの詳細図は下の地図です。ここで、境浄水場の手前に千川上水を記載しています。


左下の写真は、玉川上水から千川上水が分流する地点で、千川上水を見たところです。右下の写真で千川上水の始端に水が流れている様子が見られます。
 
千川上水

千川上水は、ここから延々と流れ、遠く王子にまで到達します。玉川上水事典の千川上水によると、
『(千川上水は)玉川上水の完成から42年後の元禄9年(1696)に開削された。開削の目的は、湯島聖堂、上野の東叡山、小石川の白山御殿、浅草寺御殿への引水にあった。』とあります。
その後、何回も廃止・再開を繰り返したようです。最後は昭和41年(1966)まで使用していました。
『かつては、産業用水として、明治8年(1875)創業の王子製糸をはじめ、板橋浄水場にあった陸軍の火薬工場、王子村紙幣寮抄紙工場へ用水を利用。その外、水車による精米、小麦やそばの製粉、農業用水は20ヵ村に波及し水田面積100㌶、取水制限の際には、「番水約定」のもと、樋口には水争いを避けるため村役人も昼夜立ち会うのである。
平成元年(1989)高度下水処理水を日量1万㌧放流、水量の70㌫は善福寺川へ、30㌫は板橋に至り、流末は石神井川である。』

この千川上水は、青梅街道と交差します。西武新宿線上石神井駅の近く、関町一丁目信号です。ここを起点として、千川上水からさらに分水して青梅街道沿いに東進する「七ヶ村分水(明治以降は六ヶ村分水)」が存在しました。「七ヶ村分水」サイトに説明があります。このサイトには、「嘉永二年 水車設置にかかわる絵図」  「武蔵野市史 続資料編八井口家文書五」に掲載された絵図を元に、その一部をイラスト化したものが掲示されています。この絵図で、青梅街道沿いに形成されているのが七ヶ村分水、その末端近く、「天沼村」と記載された孫分水が、我らが桃園川への分水ですね。上に書いた、りそな銀行脇から続くれんが道が、孫分水の現在の姿です。

その他情報サイト
第五章・第二節/六ケ村分水と天沼弁天池
荻窪警察署管内の知識
1-6 さんぽ:千川分水

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