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弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

ウッドベリー著「パロマーの巨人望遠鏡」(3)

2013-06-21 21:18:28 | サイエンス・パソコン
第1回第2回に引き続き、ウッドベリー著「パロマーの巨人望遠鏡〈下〉 (岩波文庫 青 942-2)」の第3回です。
200インチ反射望遠鏡のためのガラス円盤は完成しました。下巻では、望遠鏡の機械部分・電気部分の設計・製作、円盤を研磨して精密な放物面の反射鏡に仕上げる工程、人里離れたパロマー山の頂上に建設するための苦労が詳細に記録されています。以下、本に沿ってたどっていきます。

《北極星を観測できるマウンティング》
当時の望遠鏡のマウンティングとしては、当然ながら赤道儀が用いられます。小さな望遠鏡であれば、鏡筒の片側に赤道儀マウンティングを取り付ければ完成です。40インチのヤーキス望遠鏡はこの方式です。もっと大きくなると、マウンティングをフォーク形とし、鏡筒の両側からフォークの先端で支えます。ウィルソン山の60インチ反射望遠鏡はこの方式でした。
ところが、ウィルソン山の100インチとなると、フォークでは負荷がかかりすぎます。そのため、両端に軸受を備えたヨーク式とし、鏡筒を2つの軸受の間に設置しました。2つの軸受を結ぶ線は北極星を向いています。そしてこの方式だと、北極星に望遠鏡を向けようと思っても、軸受が邪魔をして向けることができないのです。
パロマー200インチでは、ヨーク式を用いながら北極星をも観測できる形態を志向し、北側の軸受部分を巨大な馬蹄形としたのです。

《サンディ大佐》
当時、安心して天文台建設を任せられる元請けメーカーを見つけることができませんでした。ヘールらは、アメリカ海軍のクライド・S・マクダウェル大佐に注目しました。呼ばれたマクダウェルはヘールら3人で一日話し合い、夕方には、どうやってこの事業を組織化し成功させるかをヘールらに示しました。ヘールの決断は迅速であり、その場でマクダウェルを責任者として任命することを決めてしまいました。

《西へ、西へ》
アメリカ東部のコーニング社で製造された200インチのガラス円盤は、鉄道でカリフォルニアまで運ばれることになりました。円盤は立てて貨車に積むしかありませんが、それでも、その高さでトンネルや橋を通過できるか難しいです。円盤は線路上17フィート7インチの高さがあり、コーニングからカリフォルニアまでの鉄橋のうち少なくとも2つは、上下間隔が17フィート10インチでした。この本では、東部を出発した列車が西部に到着するまでの一部始終を克明に描いています。

《反射鏡研磨の責任者はトラックの運転手》
200インチ鏡製作の全責任を担ったアンダーソン博士は、この仕事に最適任の人を選びました。彼の名はマーカス・H・ブラウンといい、カリフォルニア州ロング・ビーチの養鶏農場から来た者であり、当時はトラックの運転手でした。
このときをさかのぼる32年前、マーカス・ブラウンは父親の農場で働いていたとき、自分が農業を好きになれないことがわかりました。そこで彼は独り立ちし、小学校を修了するとあらゆる種類の仕事に就きました。そのうちに、つてがあってウィルソン山のトラック運転手となります。ブラウンは運転手をしながら、天文台のガラスの仕事をしたいと考え、自分で光学理論の勉強を始めました。
数年が経ち、パロマーの200インチ望遠鏡計画が明らかになると、ブラウンは行動に出ました。ブラウンはアンダーソンを訪ねて、研究所に光学ガラス工として就職したいと申し出ました。アンダーソンは、ブラウンが一人前のガラス工になれるなら、ウィルソン山で働いてもらおうと承諾しました。見習い工から始めたブラウンは、こうして3年間をガラス工として過ごし、家では光学の勉強を進めました。
1931年の段階では、誰が200インチの主任光学ガラス工になるかわかりませんでした。アンダーソンは、第1候補、第2候補が仕事を受けないことが明らかになった後、ブラウンに決定したのです。
初志を貫徹したブラウンにしろ、表面上はトラック運転手に過ぎなかったブラウンを採用したアンダーソンにしろ、日本だったら考えられないような物語ですね。アメリカという国が持っている底力を感じ取ることができる逸話でした。

ブラウンは、研磨作業を行うための21人のチームを編成しました。この21人は、ガラスの経験を積んだか否かは全く考慮されませんでした。ブラウンは、仕事に興味を持ち、それをやり続ける能力を持った若い人を選びました。

円盤の研磨では、まず円盤表面を球面に研磨し、次いで放物面に研磨します。球面研磨は終わりました。このあと、ベンガラと水の混合府つで円盤をさらに研磨して仕上げ、千分の5インチのガラスを削り取ります。この作業に3年はかかると予想され、ブラウンはその前に3ヶ月半を費やして研磨工場の清掃を行ったのでした。
著者のウッドベリー氏は、この研磨作業を実際に見学し、ブラウンとも話をしています。

《インスピレーション》
それまで、反射望遠鏡の反射鏡は、ガラスに銀をメッキしていました。
当時、カリフォルニア工科大学にジョン・ストロングという27歳の奨学生がおり、赤外線分光学の研究をしていました。彼はガラスの表面に石英をメッキする実験を行い、うまく行くことがわかりました。突然、彼はアルミニウムだと思いつくのです。なぜ鏡を従来ありきたりの銀の代わりに、アルミニウムでメッキしないのか。アルミニウムは紫外領域では銀よりも反射能が強く、錆びるということがありません。彼は石英と同様にアルミがメッキできるだろうと考え、アンダーソンに説明しました。すぐにストロングは、24インチの鏡にAlメッキを成功させました。ストロングはさらにウィルソン山の100インチのアルミメッキを行い、そしてパロマー山の200インチ巨大鏡をメッキする機械の設計も彼に依頼されたのでした。

《後日物語》
ウッドベリー氏の取材は1939年まで続き、あと1年ぐらいでパロマー建設が完了するだろうというところで一度は物語を終えました。ところが戦争が勃発し、1年で終わる予定の仕事は7年もかかることになってしまったのです。
戦争中、鏡の仕事はほとんど中断されました。あらゆる科学者と職工の熟練は、新しい兵器の考案に必要とされました。カリフォルニア工科大学はロケットの研究、光学工場は海軍のために測距儀のプリズムの製作などに活躍しました。
戦争が終了して6ヶ月後、反射鏡の研磨作業が再開されました。最終の作業では、作業時間が短くなり、テストの回数はますます増えます。ガラスを5千分の1インチ削る仕事にまる1年かかりました。1947年3月、鏡の全表面を、あらゆる点で完全な放物面と光の1は長以内の誤差、1インチの5万分の1の誤差に磨き上げました。
そして1947年10月、鏡は完成しました。

11月19日に鏡はパロマー山上に輸送され、12月はじめにはアルミニウムメッキを難なくやってこなしました。ジョン・ホプキンス大学で新しい地位についていたストロングがメッキのためにパロマーに来ていました。

この本の記述は、以上で終わっています。

パロマー計画のスタートからカウントすると、もう90年以上前の話であるにもかかわらず、この本を読むと昨日のことのように開発の情景が思い浮かびます。
ザカリー著「闘うプログラマー」でも感じましたが、アメリカ人が執筆するドキュメンタリーは、徹底的に「人」に取材し、執筆も「人」に焦点を当てている点で秀逸であるとの印象を受けます。
巻末、2002年に成相恭二氏が執筆した解説によると、日本のすばる望遠鏡を計画し建設するに際しても、皆さんでこの本を参照したということです。

なお、私は中学時代に、木邊成麿著「反射望遠鏡の作り方 (1967年)」でパロマー望遠鏡の建設物語を読んでいたのですが、そのときの記憶として、鏡用の円盤は第二次大戦中の長い間、コーニング社の焼き鈍し炉で深い眠りについていたと思い込んでいました。そうではなかったことが今回判明しました。木邊著を再読しましたが、私の思い違いでした。
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