8月7日NHKスペシャルの「硫黄島」を見ました。
わが家の家族の一人が日頃お世話になっている地域の剣道の先生が、硫黄島からの生還者でその番組に出演されるということだったのです。
数年前、硫黄島の戦闘を扱った書籍というと、アメリカ側から取材した書籍ばかりでした。硫黄島の擂鉢山山頂に今まさに星条旗を掲げようとしている有名な写真があります。ブラッドリー著「硫黄島の星条旗(表紙写真)」(文春文庫)は、この写真に登場する6名のアメリカ兵の運命をたどった物語です。また、古書でシャーロッド著「硫黄島」を見つけ、こちらも購入しました。従軍記者シャーロッドが実際に見た硫黄島の戦闘記録です。
日本人に取材した硫黄島記録がなかったのは、日本軍が全滅したために語り部がいなかったためかと思っていました。しかし今回調べてみたら、2005年のうちに日本人が執筆した硫黄島関係の書籍が4冊も出ているのですね。NHKの番組によると、日本軍2万人以上が戦死しましたが1000人ほどは生還していたのです。戦後固く口を閉ざしていたこれらの方々が、最近になって語りはじめたのかもしれません。
米国にとって硫黄島は特別の戦場です。この島だけで22,000人の米兵が戦死したのですから。太平洋のどの地域の戦闘でも、私の印象では、日本軍の戦死者数に対して米軍の戦死者はだいたい一桁ぐらい少ないのではないかと思います。それに対し、硫黄島では米軍の戦死者数が日本軍のそれを上回りました。このような戦場は、硫黄島以外ではペリリュー島があるくらいでしょうか。
それに対し日本側から見ると、ガダルカナル、アッツ、サイパン、レイテ、ルソン、いずれの戦場も、日本兵が辛酸をなめ、万から十万の戦死者を出し、玉砕またはそれに準じた結果に終わった場所ばかりです。硫黄島だけが特別ではありません。
NHKの番組では、硫黄島だけが特別の玉砕地であるようなナレーションを行っていましたが、この点は誤解を生むのではと気になりました。
戦時中に書かれた山田風太郎の日記によると、日本軍が苦戦する戦場として最初に国民が注目したのがガダルカナル(1942年)のようです。アッツ島での玉砕(1943年5月)は、日本人に大きな衝撃を与えました。サイパンは「絶対国防線」といわれた島で、この島の陥落(1944年7月)は、島の日本民間人が犠牲になったことも加え、日本にとって衝撃でした。当時の日本人にとっての硫黄島玉砕(1945年2月上陸)は、これらに次ぐ程度の事件だったと思います。
「太平洋の各地で、日本兵がいかに戦い死んでいったか」この点は常に気になっています。大岡昇平の「レイテ戦記」は、文庫本で3冊の大部です。レイテ島における日本兵の戦闘状況をこれでもかと詳述しています。おそらく大岡昇平には、彼の地で亡くなった日本兵の「自分たちのことを記録に残してくれ」という悲痛な声が聞こえていたのでしょう。その本を読む私にも「自分たちのことを読んで知ってくれ」という声が聞こえてくるようでした。
ルソンも、ガダルカナルも、そして硫黄島も全く同じです。私たちは、戦場で苦しみ抜いた日本人の様子をもっとよく知っておきたいです。
ところで、米軍から見た硫黄島の戦闘です。
米軍が上陸した海岸の砂浜で、米兵は日本軍による砲撃銃撃で大打撃を受けます。前掲のシャーロッドによる著書は、砂浜で砲弾を受けて死んでいく米国青年達の姿を克明に描いており、あまりの悲惨さに、私は最後までこの本を読み切ることができませんでした。
米軍はやっとの思いで島の西端にある擂鉢山を制圧し、その山頂に星条旗を掲げます。このときに有名な写真が生まれました。しかし戦闘はまだ序の口だったのです。星条旗を打ち立てようとする写真には6人の米兵が写っていますが、そのうち3人は、その後の戦闘で戦死し、島から生きて帰れませんでした。島の北東に広がる岩山地帯での死闘で、米軍はさらに大きな損害を被ったのでした。日本軍が構築した地下陣地は、それだけ強力だったということです。
この地下陣地に立てこもり、40℃の灼熱と飢えと渇きに苦しみながら何週間も何ヶ月も耐え、最後は火炎放射器で焼き尽くされた日本兵のことを思うと、言葉もありません。
わが家の家族の一人が日頃お世話になっている地域の剣道の先生が、硫黄島からの生還者でその番組に出演されるということだったのです。
数年前、硫黄島の戦闘を扱った書籍というと、アメリカ側から取材した書籍ばかりでした。硫黄島の擂鉢山山頂に今まさに星条旗を掲げようとしている有名な写真があります。ブラッドリー著「硫黄島の星条旗(表紙写真)」(文春文庫)は、この写真に登場する6名のアメリカ兵の運命をたどった物語です。また、古書でシャーロッド著「硫黄島」を見つけ、こちらも購入しました。従軍記者シャーロッドが実際に見た硫黄島の戦闘記録です。
日本人に取材した硫黄島記録がなかったのは、日本軍が全滅したために語り部がいなかったためかと思っていました。しかし今回調べてみたら、2005年のうちに日本人が執筆した硫黄島関係の書籍が4冊も出ているのですね。NHKの番組によると、日本軍2万人以上が戦死しましたが1000人ほどは生還していたのです。戦後固く口を閉ざしていたこれらの方々が、最近になって語りはじめたのかもしれません。
米国にとって硫黄島は特別の戦場です。この島だけで22,000人の米兵が戦死したのですから。太平洋のどの地域の戦闘でも、私の印象では、日本軍の戦死者数に対して米軍の戦死者はだいたい一桁ぐらい少ないのではないかと思います。それに対し、硫黄島では米軍の戦死者数が日本軍のそれを上回りました。このような戦場は、硫黄島以外ではペリリュー島があるくらいでしょうか。
それに対し日本側から見ると、ガダルカナル、アッツ、サイパン、レイテ、ルソン、いずれの戦場も、日本兵が辛酸をなめ、万から十万の戦死者を出し、玉砕またはそれに準じた結果に終わった場所ばかりです。硫黄島だけが特別ではありません。
NHKの番組では、硫黄島だけが特別の玉砕地であるようなナレーションを行っていましたが、この点は誤解を生むのではと気になりました。
戦時中に書かれた山田風太郎の日記によると、日本軍が苦戦する戦場として最初に国民が注目したのがガダルカナル(1942年)のようです。アッツ島での玉砕(1943年5月)は、日本人に大きな衝撃を与えました。サイパンは「絶対国防線」といわれた島で、この島の陥落(1944年7月)は、島の日本民間人が犠牲になったことも加え、日本にとって衝撃でした。当時の日本人にとっての硫黄島玉砕(1945年2月上陸)は、これらに次ぐ程度の事件だったと思います。
「太平洋の各地で、日本兵がいかに戦い死んでいったか」この点は常に気になっています。大岡昇平の「レイテ戦記」は、文庫本で3冊の大部です。レイテ島における日本兵の戦闘状況をこれでもかと詳述しています。おそらく大岡昇平には、彼の地で亡くなった日本兵の「自分たちのことを記録に残してくれ」という悲痛な声が聞こえていたのでしょう。その本を読む私にも「自分たちのことを読んで知ってくれ」という声が聞こえてくるようでした。
ルソンも、ガダルカナルも、そして硫黄島も全く同じです。私たちは、戦場で苦しみ抜いた日本人の様子をもっとよく知っておきたいです。
ところで、米軍から見た硫黄島の戦闘です。
米軍が上陸した海岸の砂浜で、米兵は日本軍による砲撃銃撃で大打撃を受けます。前掲のシャーロッドによる著書は、砂浜で砲弾を受けて死んでいく米国青年達の姿を克明に描いており、あまりの悲惨さに、私は最後までこの本を読み切ることができませんでした。
米軍はやっとの思いで島の西端にある擂鉢山を制圧し、その山頂に星条旗を掲げます。このときに有名な写真が生まれました。しかし戦闘はまだ序の口だったのです。星条旗を打ち立てようとする写真には6人の米兵が写っていますが、そのうち3人は、その後の戦闘で戦死し、島から生きて帰れませんでした。島の北東に広がる岩山地帯での死闘で、米軍はさらに大きな損害を被ったのでした。日本軍が構築した地下陣地は、それだけ強力だったということです。
この地下陣地に立てこもり、40℃の灼熱と飢えと渇きに苦しみながら何週間も何ヶ月も耐え、最後は火炎放射器で焼き尽くされた日本兵のことを思うと、言葉もありません。
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