弁理士の日々

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徳大寺有恒さん逝く

2014-11-08 23:37:28 | 趣味・読書
自動車評論家、徳大寺有恒さん死去 辛口の新車批評
朝日新聞デジタル 11月8日(土)11時20分配信
『「間違いだらけのクルマ選び」などの著書で知られる自動車評論家の徳大寺有恒(とくだいじ・ありつね、本名杉江博愛〈すぎえ・ひろよし〉)さんが7日、急性硬膜下血腫で死去した。74歳だった。葬儀は親族だけで行う。喪主は妻悠子さん。後日、しのぶ会を開く予定。』

1976年に刊行された徳大寺有恒著「間違いだらけのクルマ選び」は、私にとってクルマを見る目を大きく変えさせる契機となった著書でした。このブログでも、間違いだらけのクルマ選び間違いだらけのクルマ選び(2)として記事にしてきました。エッセンスを再掲します。
  
1976年当時、日本の乗用車は、外からの見てくれとアクセサリーの豪華さばかりを競い合い、クルマの基本性能がなおざりにされる状況でした。徳大寺氏はこの本の中で、そのような現状をめった切りにし、国産の主立った乗用車を個別に徹底的に批評したのです。

日本の自動車産業は大いに発展していましたが、その内実は、チャラチャラしたつまらない方向に向かっていました。
ヨーロッパではすでにフォルクスワーゲンのゴルフが登場しており、実用車というのは、外観は小さく、内部空間は広いことが必要であり、FFとすることでその要件を実現していました。
日本はというと、見てくれは大きくかつ格好良く、逆に内部空間は決して広くなく、ドライバーからの視界は最悪であり、くだらないアクセサリーだけが満載です。ラジアルタイヤは装着されておらず、オートマも普及していません。

そのような時代に徳大寺氏のこの本が発売されました。一大センセーションを巻き起こしたと私は理解しています。
私自身は、その後の自分のクルマ選びにおいて、常にその時点で発売されている最新の「間違いだらけ・・・」を購入し、徳大寺氏が及第点をつけた車種を選ぶように心がけました。

そして日本の乗用車の開発動向はその後大きく転換します。ファミリーカーはFFが当たり前、ラジアルタイヤ標準装備、外観は小さく内部空間は広くドライバー視界も広く、4輪独立懸架と、徳大寺氏が指し示した方向に収斂していくのです。
私は、日本自動車業界のこの方向転換は、徳大寺氏の影響が極めて大きかったと推理しています。まさに「社会現象」です。

ところがその影響で、日本のクルマはどれを見ても(私には)同じクルマに見えるようになってしまいました。私から見れば没個性ですね。


その徳大寺さんが、終戦直後から1976年まで(つまり最初の「間違いだらけ・・・」を出版するまで)の間、次々と登場した国産車のほとんどにご自身が乗りまくった経験に基づいて書かれた本が「ぼくの日本自動車史」です。つい最近、この本を読んだばかりで、徳大寺有恒著「ぼくの日本自動車史」として記事にしました。

徳大寺さんは昭和14(1936)年生まれです。徳大寺氏が中学生になる頃、父親は水戸でタクシー会社をはじめていました。そしてそのころ、徳大寺氏は実際にクルマを運転し始めるのです。中学2、3年の頃には、町中で普通にクルマを運転していたというから驚きます。アニメ「イニシャルD」の藤原匠君が実在していたかのようです。

クルマ好きの徳大寺氏は、以後ずっと、その時代に登場する車種に必ず搭乗し、そのクルマの性格を自分で確認してきました。父親のタクシー会社が所有するクルマはもちろん、あらゆるツテをたどって、全車種を経験しようとする執念です。そしてこの経験が、徳大寺氏のクルマ批評の根幹となっています。

大学を卒業した徳大寺氏は本流書店に勤務しますが、この会社を1年で辞め、カー用品の会社を始めました。会社は急成長し、徳大寺氏の金回りも良くなりました。
しかし、徳大寺さんが始めた会社は、連鎖倒産のような形でつぶれてしまいました。その心労がたたってか、徳大寺さんは糖尿病性の高血圧症状で倒れてしまいます。その病気での入院中、ヒマなので原稿を書きはじめました。それが、「間違いだらけのクルマ選び」のもととなった原稿でした。ツテを頼って原稿を読んでもらった草思社の社長、加瀬昌男さんは、「書き直してくだされば出版しましょう」といいました。

原稿書き直しの直前、徳大寺さんはフォルクスワーゲンのゴルフを購入しました。
会社を潰した徳大寺さんは貧乏でした。徳大寺さんの経済状態はゴルフを買える状況ではありませんでしたが、奥さんの協力もあり、何とか購入しました。
『このゴルフはすごかった。ぼくは人生であんなにすごいクルマを経験したことはそれまでなかったし、おそらく、もう将来もないんじゃないかと思う。・・・ブレーキもよく効くし、ハンドリングも素晴らしい。そいつは当時の国産車など問題としていなかった。』
『このゴルフの体験をベースにぼくは最初の原稿をすべて書き直した。』

「間違いだらけのクルマ選び」は1976年11月に刊行されました。年が明けて、本は爆発的に売れていきました。ある新聞記者が当時のトヨタ社長の豊田英二氏に「読みましたか」と質問したところ、英二氏は「読んでいる。社内にも読めといった」と答えたそうです。結局、正・続あわせて104万冊が売れました。

徳大寺さんは、それ以前から本名の杉江博愛で自動車雑誌に記事を書いていました。本名でAJAJ(自動車ジャーナリスト協会)にも加入しています。協会は徳大寺有恒が杉江さんであることを嗅ぎつけ、退会を勧告してきました。協会の査問会に呼び出されたとき、ある理事が「われわれはメーカーと仲良く、協調関係でいきたいのだ」とついホンネを漏らしたので、「じゃあ、AJAJという団体はメーカーが大事なのか、読者が大事なのか」と聞き返したところ、「もちろんメーカーだ」という答えでした。徳大寺さんはその場で、「本日限り、私から辞めさせていただく」と絶縁状を叩きつけました。
その後はじめて、徳大寺氏は出版社の社長と記者会見を行い、覆面を脱いだのです。

「ぼくの日本自動車史」を読んで、私は徳大寺さんの奥様にとても興味を持ちました。

徳大寺氏は大学2年のとき、中古のヒルマンを買いました。ヒルマンを得た当時、氏はあるパーティーで今の奥様と知り合いました。当時、彼女はなかなかの美人でした。氏はたちまち夢中になってしまいましたが、彼女の方は全然相手にしてくれません。ある日ようやくデートの誘いに応じてくれたのですが、それも銀座に用があるから、あなたのクルマの横に乗ってあげましょう、というものです。ところが彼女を乗せたヒルマン、渋谷でエンストしてしまうのです。彼女は「あたし急ぎますから」と行ってしまいました。あとで聞けば、銀座で他の男とデートの約束をしていたのです。

この彼女と、徳大寺氏はカー用品の会社を立ち上げる直前に結婚しました。どのような紆余曲折で結婚にこぎ着けたかは書かれていません。

会社がつぶれ、病気になり、やっと回復して東京に舞い戻った頃、徳大寺氏に「VWゴルフを買わないか」という話が来ました。会社を潰したあとでとても買える状況ではありません。そのとき奥様が「私の給料を足したら買えるかもしれないから、買ってみようよ」と言ってくれたのです。奥様の弟から頭金を20万円借りてです。
このゴルフを買ったからこそ、あの「間違いだらけのクルマ選び」が誕生したわけです。

今回、ネット検索したところ、『NAVI CARS』 VOL.10発売! 巻頭特集は「徳大寺有恒、という生き方。」の中で、『素顔の“杉江博愛”を支え続けた奥さま、杉江悠子さんにもお話を伺っています。』とあります。しかし残念ながら、現時点でこの書物をゲットすることはできなさそうです。

徳大寺さんのご冥福をお祈りいたします。
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