パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

京都をぶらり

2017年11月27日 08時56分06秒 | 旅・旅行

勤労感謝の日の「アッシジの聖フランチェスコ」を聴いたあとでは
自宅に帰る電車がないと思われたので、その日は京都に宿泊して
今は見頃の紅葉狩りを楽しむことにした

翌日の朝食はいつもの時間と同じくらいに済ませて、
さっそく出かけたのはホテルから直ぐ近くの東寺
入り口のポスターには、この時期は夜間照明が行われているとあった
(しまった、知っていたなら先日に出かけたのに)
 

東寺は以前来たことがあって、五重塔の立体曼荼羅も訳がわからないが
見たことには間違いなく、それ自体にはあまり興味がなかったので結局境内を
さらっと見ただけでこの場所をあとにした
(変なことが浮かぶのは毎度のことだが、東寺を囲む塀は東本願寺や御所の塀とおんなじで
 これらはきれいだな!と再確認した) 

この日は、まずは1日乗車券を手に入れた
バスと地下鉄のセットで1200円のやつだ
そこから向かう先は、京都国立博物館の国宝展
比較的早い時間だから大丈夫、、と思ったが、甘かった

チケット購入から入場まで手書きで50分のメッセージ
チケットを手にしても、こんな風にしっかり並んでいる
普通なら、こんなに並ぶのはかなわん、、とスタコラと避けてしまうのだが
今回は特別何かが見たいわけでもなかったが、覚悟を決めて並ぶことにした
徐々に入り口に近づいて来た時、後ろにずっと並んでいる人たちを見ると
何やら自分が得したような、、ついご苦労さん、、と声をかけたくなるような気になったのは何故だろう

国宝展は、正直、しっかり見られたとはいえない
入場まで時間がかかりすぎて、少しばかり体力を失い、それにともなって気力も低下 
おまけに陳列された壁近くに多くの人がへばりつくように作品を凝視して列は少しも動かない 
もったいないことだが、こういうときはいつもざっと見るだけにしている
そのなかで幾つか印象に残って記憶に刻まれればそれで良しとしている

あたり前のことだが最初に見るものが印象に残る
それは仏像で、これは単純にきれいだと感じた
仏像の衣装や頭の装飾、その細かな細工の面倒そうなこと
作者の表現意欲 ってのはどこから湧き出てくるのだろう、、と
誰かに命じられて作ることになったとしても、この面倒な作業を喜々として行う人物がいる
喜々として行うこと自体が一種の才能とも思われるが、人の表現意欲の不思議さを感じてしまう
また巻物のところではお経に合わせて文字の横に、仏画を小さく、しかも表情は変えて書かれたものがあった
いろんなことを考える人がいるものだ、、ということと、つい「美は細部に宿る」ということがを思い出した

細部までこだわり、おそるべき集中力で完成する人たち
その当時は芸術家というより職人といわれる人たちの扱いだっただろうけど
改めて人ってのは、いろんな能力のある人が いるものだと呆れてしまった

せっかく入ってざっと見ただけのもったいない国宝展
記憶に残ったものは、円山応挙の松の木に雪が積もった大作
これは何故か良くわからないが迫力があった
有名な神護寺の源頼朝の肖像画はこんなに大きなものか、、とおもったが
細部は人が多すぎて近くで見れなかった
陶器の油滴天目は、確かに綺麗と言うか神秘的な雰囲気まるで宇宙を想像させる 
志野の茶碗よりも井戸の茶碗が自分は気に入った(落語の井戸の茶碗のせいかも?)
字の上手な人の残した巻物の中で、うっすら書かれた文字の上に無作為に(?)
左下に斜めの文字で何かが書かれて、それは文字がうまいと言うのではなく
全体としてビジュアル的にきれいな印象を受けた

結局のところ細かなものは人が多すぎて、大きな作品しか見れなかったが
その他に興味深く感じたのは衣装
白とか黒の絹の衣装かと思えば、よく見ると柄が織り込んである
目立たないけど見る人が見ればわかるというこのおしゃれな感覚、、
衣装には関心がないが、これらのことは女性にとってはごく普通のものかもしれない
ここでも「美は細部に宿る」が生きている

この国宝展は期間中、展示物の入れ替えがあって見られないものがたくさんあったが
この国宝展での自分の発見は「円山応挙」が良かったという点
それを感じただけで、まずは良しとしなければ

この後、将軍塚の大舞台を見に行こうとしたが、交通の便が悪そうなので今回はパスして
むかし紅葉狩りで出かけて、とても良い印象がある「真如堂」へ出かけた
確か金戒光明寺の近くのはず、、で1日乗車券をフルに活用した
金戒光明寺は幕末に会津藩の松平容保が滞在したところ
ひところ土方歳三(新撰組ではなく)に凝った時に、ここを訪れたが
思いの外何もなくてガッカリしたような記憶があるが、
そのあと訪れた真如堂の紅葉は何枚も写真にとってあり、その時は興奮したのだろうと思われた
だが残念、今回は雨には降られなかったが太陽が顔をだす時間が少なかった
紅葉の色は太陽が出てるときとでていない時は随分印象が違う
木々や葉っぱを太陽の光を通して見ると、赤・黄・緑が何とも言えない
写真を撮ることに気を回すと紅葉自体を楽しめないが、それでももったいないということで
光が出た瞬間スマホで撮影したのが

 
この写真ではわからないが、光の下では本当にきれいだった
この場所以外にも赤・緑のグラデーションが見られるところが何箇所かあり
つくづく京都の紅葉は別格の思いを強くした
(その紅葉自体の葉っぱの色と形、枝ぶりは、自然そのものというより
 どこか洗練された緊張感を感じ、その感覚は京都以外ではなかなか感じられない)

しかし、国宝展の立ちっぱなしのダメージは大きくて、この日の集中はあまり続かず
少しもったいない紅葉狩りとなったかもしれない
(昔みたいにあちこち歩きまわって、電車賃分だけは元をとろうなんてことはできなくなっている)
でもつくづく、本当に京都は、京都の紅葉は、、凄い
この紅葉を見ていた時、ふと藤原定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮」が浮かんだ
西行の深い「心なき身にもあはれ知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ」と比べて
小林秀雄の評価は低いようだが、自分は藤原定家のちょっと人工的であっても
凄まじいイメージの展開とその効果が好きだな、、
(これはジョン・レノンの深さとポール・マッカートニーの心地よさと似ているような気がしてる)

ということで、恒例の京都の紅葉狩りは今年も行けた
おみやげは漬物で良いから、、という同居人のリクエストは錦市場でゲット
この日歩いた距離は14キロちょっと、疲れた、、、 


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