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「奇 々 怪 会」 とは、どういう会なのか

昭和30年前後にイギリスのネス湖で恐竜ネッシーの存在が話題となり(湖面を泳ぐ姿が目撃され、写真に撮られたりした)、ヒマラヤで雪男の足跡が発見された等などが新聞やテレビで話題になりました。
こうした話題は昔から私達の興味を引く出来事だったようです。

いや、もっともっと旧くには・・・
秋田出身の国学者・平田篤胤は異界・幽冥の世界の有様をまとめて、1822年(文政5年)に『仙境異聞』を出版しています。
実は文政3年秋の末、篤胤45歳の頃、江戸で天狗小僧寅吉の出現が話題となっていたそうです。
寅吉は神仙界を訪れ、そこの住人たちから呪術の修行を受けて、帰ってきたというのです。
篤胤は、天狗小僧から聞き出した異界・幽冥の世界の有様をまとめて、出版したのが『仙境異聞』であります。これが当時大きな話題となったと伝えられています。
ことほど左様に”不思議な話”は、いつの時代でも人の興味を引き付けるのだと思われます。

心霊現象、死後の世界、臨死体験、輪廻転生、古代文明、オーパーツ、超常現象、UFO、UMA、ツチノコ・・・・・
身近では霊的な場所、遺跡、神社、お寺、巨木等なども私達の興味を引き付ける様です。

奇々怪会は、こうした事に興味を持つ人の集まりです。
新規の入会を希望する方は下記までご連絡ください。
メール arashigeru@yahoo.co.jp

オーパーツ5 デリーの鉄柱

2018年06月30日 | 地球・宇宙・太古
インドのデリー郊外の世界遺産クトゥブ・ミナールに、アショカ・ピラーと呼ばれる鉄柱がある。直径44cm、高さ7m、地下部分2m、重さ10tの柱は99.72%の高純度鉄でできていて、表面にサンスクリット語の碑文が刻まれている。不思議なのは、鉄柱が1500年もの間、風雨にさらされながらも錆びないでいることだ。

紀元前のマウリヤ朝に実在した「アショーカ王」を讃え、平和を願う目的で1600年前に制作されたと言われている。
なぜ西暦400年頃に建設されたのかがわかったのかというとこの鉄柱には表面に文字がサンスクリット語で書かれておりその内容からその時期にアイバク王が建てたとされています。

デリーの鉄柱がどうして錆びないのかが気になるところですが、鉄というのは雨風に吹かれると一般的にはサビつき物によってはちょっと手で触っただけでボロボロになることもあります。

有力な説として99.72%という非常に純度の高い鉄でできていることから錆びないのではないかという説もあるようですが一般的に鉄はその純度でも50年もすれば錆びます。

純度が高い鉄でできているということは近年の調査で判明したのですが、さすがに1600年もの年月を外の風に吹かれながら今もなお建っているというのはちょっと有り得ない話です。
近くに行ってよく見ると実際にはサビはあるようですが、それでも1600年も建ち続けているのは謎としか言いようがありません。

オーパーツ4 ピーリー・レイースの地図

2018年06月29日 | 地球・宇宙・太古
この古地図は1929年にトルコで発見されたもので、製作者はオスマン・トルコの提督ピリ・イブン・ハジ・メムド(「レイス」は提督の意味)。制作されたのは1513年。


アメリカの古地図研究家アーリントン・マレリーは、この古地図に興味を持ち、詳しく分析を行ってみた。すると分析を進めるうちに驚くべき事実に気が付いた。
地図の南端に見える陸地は、氷に覆われる以前の南極大陸の海岸線を示していたことがわかったのだ。しかも地図の海岸線は、エジプトのカイロ上空から撮影した衛星写真の地形と見事に一致していた。

この事実は後に、アメリカ・ニューハンプシャー州にあるキーン州立大学のチャールズ・ハプグッド教授によっても確認されている。
定説では南極大陸が発見されたのは1820年頃。地図を制作したピリ・レイスは一体どうやって発見前の南極大陸を知り得たのだろうか?
【オーパーツ】古代地図になぜ南極大陸が描かれてる?ピリ・レイスの地図の謎に迫る

さて次のオーパーツはコスタリカの石球だ

2018年06月26日 | 地球・宇宙・太古
コスタリカの石球は1930年初期、コスタリカの密林で200個以上発見された石の球体だ。


石球の正確な製作年代やその目的は不明である。発見時に周囲に存在していた遺構の年代より推定して、西暦300~800年にこの地で栄えたディキス石器文化が有力視されている。
石球のほとんどはタラマンカ山地の麓に産する花崗閃緑岩が原料であるが、貝殻石灰岩製のものも少数存在する。大きさは直径2センチメートルの小さなものから、直径2メートルを超える大きなものまでと様々である。最大級の石球は重量にして約25トンである。現在、石球の持ち出しや売買は現地の法律で禁じられている。

石球の配置には規則性があり、星座など天体を模しているという説もあったが、石球が持ち出されたり、黄金が詰まっているという噂が流れて石球が破壊されたりしたため、今では正確な配置は分からなくなってしまった。
ただ、近年の調査で球体の表面に彫刻が残っているものもあり(Carved Sphere と呼ばれている)、彫られた線が星座の図形を現しているという説が提唱されている。
【オーパーツ】 コスタリカの石球 ~ちゃんぷるぅ~

私の読んだオーパーツの本によれば

2018年06月24日 | 地球・宇宙・太古
オーパーツという言葉や内容に初めて触れたのは多分高校生の頃、というと今から50年も前のことになる。
残念ながら、その本は今手許にはない。しかし、内容は大体に覚えている。
その最初の事例が前回記事にした黄金スペースシャトルであった。

さて、今回二例目に紹介するのも勿論その本にあった事例「水晶髑髏」だ。

この髑髏は1927年、イギリスのF・A・ミッチェル=ヘッジスによってルバアントゥン遺跡で発見された。髑髏は実物大で解剖学的にみても非常に精巧に作られているという。また水晶髑髏には下記のような特徴がある。
・顔を復元させるとマヤ人と同じ、モンゴロイドの顔付きになる

・道具で加工した跡がない

・1個の水晶から作られている

・下から光を当てると目に光が集中する

・太陽光を当てると虹色に光る

・ロウソクの炎を当てると紫色に光る

2008年、スミソニアン研究所で詳しい検査が行われたところ、この水晶髑髏の表面からダイヤモンド研磨剤の切断痕が見つかり19世紀頃に作られたものではないかと発表された。
しかし、この水晶髑髏は現在でも再現することが難しく、非常に時間がかかるため誰が何の目的で作ったかは依然不明のままだそうだ。
【オーパーツ】水晶髑髏


オーパーツとはそもそも?

2018年06月23日 | 地球・宇宙・太古
オーパーツを採り上げるにあたって、そもそもオーパーツとはを復習しよう。

オーパーツとは、それが発見された場所や時代とが全くそぐわず、なぜ存在するのかが謎とされている物の総称だ。
英語の「out-of-place artifacts」の略で「OOPARTS」、つまりは「場違いな工芸品」という意味がある。この名前はアメリカの超常現象研究家アイヴァン・サンダーソンによって付けらた。


オーパーツは考古学においてその成り立ちや製造方法などが不明とされており、当時の文明の技術、知見では到底製造が不可能な出土品だ。
オーパーツは何故存在し、どのようにして製造したかわかっていない。中には現在の加工技術を持ってしても作成困難な物も存在する。

このことからオーパーツは科学技術の発達した超古代文明や古代に地球にやって来た宇宙飛行士(異星人)が作ったという説もある。こういうと突拍子もない話に聞こえるが、そのように考えるしか説明がつかないオーパーツが存在することも確かなのだ。

実例で示そう、黄金スペースシャトルと名付けられている。


黄金スペースシャトルはコロンビアの古代遺跡から発見された。「黄金シャトル」や「黄金ジェット」とも呼ばれ、シヌー文化(紀元500年 – 800年)時代のものという説と、更に古いプレ・インカ文明のものという説がある。

黄金スペースシャトルは黄金で作られ、幅5センチメートル、高さ1センチメートルほどでペンダントなどアクセサリーとして用いられていたと考えられている。
黄金スペースシャトルは飛行機やスペースシャトルのような形状をしてる。研究者の調べで非常に航空力学にかなった形をしていることがわかっている。

現地に生息するナマズに似ているとの意見もあるが、三角翼と垂直尾翼があり生物とは考えにくいともいわれている。ナスカの地上絵に非常に似た描写があり、何らかの関係があるのではないかと考えられてる。
【オーパーツ】黄金スペースシャトル


「東北見聞録~謎と不思議と珍談と」第三十九話

2018年06月21日 | 本・雑誌から
「東北見聞録」北限のツバキ

「椿」にちなんだ音楽は?と問えば、「アンコ椿は恋の花」とすぐに答えが出る方は筆者と大体同じ年代では無いだろうか。クラシックのジャンルではヴェルディのオペラ「椿姫」が有名で、文学ではアレクサンドル・デュマ・フィスの小説「椿姫」などもある。そうそう、映画では黒澤明監督の「椿三十郎」が有った。
このツバキに関したエピソードでは、最近朝の情報TV番組で紹介された効果も有って「椿油」がちょっとしたブームになっているそうだ。椿油と言えば、昔祖母がよく使っていた古臭いイメージが強いが、今では全身美容や食用効果が注目されていると言うから正に和製オリーブオイルだ。更にこのツバキ、古代の文献に色々と登場する他、北限の自生地帯が存在する等、調べてみると意外に奥が深い。

①椿、海柘榴、ツバキ…
ツバキ又はヤブツバキは、ツバキ科ツバキ属の常緑樹で日本が原産地、南西諸島・九州・四国・本州、更には海岸線沿いに北部にまで分布している。中でも東京都大島の椿は冒頭に紹介した「アンコ椿」の歌の様に広く知られている。筆者も大学生時代に島を訪れ、多くの鮮やかな赤い花辯に見とれた思いがある。
その歴史を辿ると古くは「日本書紀」や733年の「出雲風土記」に「海柘榴」又は「海榴」の文字で登場する。文化面で開花するのは室町時代以降で、豊臣秀吉が茶の湯に用いた他、江戸時代に入ると絵画や彫刻の題材として広まって行った。特に林羅山の「椿百図」は有名だ。

園芸の品種としても数が多くなり、庶民文化の中に浸透して行ったと言われてる。こうした長い歴史を持つツバキの群生地が、ナマハゲの里・秋田県男鹿半島に存在し、「ツバキ自生北限地帯」として国の天然記念物の指定を受けている。

②北限の椿
その自生する北限の椿は、釣りのメッカ秋田県男鹿市船川港のその名もズバリ「椿」地区に有る。男鹿半島の南磯を戸賀方面目指し、鵜ノ崎海岸から台島を過ぎてクネクネとした海岸道路を進むと、やがて濃い緑の葉に覆われた小高い丘が右手側に見えて来る。約10m程の小さな丘こそが自生椿(ヤブツバキ)の北限地「能登山」だ。
1922年(大正11年)に国の天然記念物に指定、山の麓には江戸時代の紀行家・菅江真澄が、文化元年(1804年)8月25日に訪れていて「椿の浦に着く(男鹿の秋風)」の標柱が設置されている。能登山は暖地に自生するヤブツバキに全山覆われていて、昭和57年の調査で492本、その後の平成6~7年の調査では573本が確認された。山に入ると密集して生えているツバキの木々で薄暗くなる程だ。赤鳥居をくぐり少し屈みながら進むと、途中木々の間から海を望む事が出来る。やがて山頂の神社に辿り着くが、そこからはビッシリと生い茂るツバキに囲まれているせいで海がやや見えずらい。が、肝心の花々はたっぷり鑑賞出来た。


③悲恋物語が…
正面側から登っても多くの木々が茂っているが、裏山にも密集していて、能登山周辺をグルリと散策すると良く分る。その能登山の一角に「天然記念物」の案内板の他にもう一枚の標識が有った。そこには「悲恋伝説の地~能登山の椿」と記されていた。「さて、どんな悲恋物語があるのか?」と伝説を知りたくて文面を探しても山の周囲には見当ら無い。それとも、どこかに有って筆者が発見出来なかったのだろうか?悩ましい思いで一杯だった。しかしその後、昼食で訪れた水族館近くのカフェ・レストランで、土産に買ったドリップ・コーヒーパックのセットに「見つけた!」のだ。5枚セットの包装一枚一枚に連続の形で悲恋物語が紹介されていた。それによると…昔、能登の国から働きにやって来た若い漁師が村の娘と恋に落ちた。しかし、結婚を約束したものの能登に帰らなければならなくなった若者は、「2年で必ず帰る」と約束し去って行った。娘は待ち続けるが若者は3年が過ぎても帰らず、娘は嘆き悲しんで海に身を投げてしまった。その後、結婚資金を稼いだ若者が帰り、娘の死を知って哀しみに包まれ遅れて戻った事を悔やんだ。そして土産に持参したツバキの種を小さな丘に植えて立ち去り、再び帰る事は無かった…と言うストーリーで、後で調べて分ったが男鹿市のホームページにも悲恋物語が簡潔に紹介されていた。「椿地区に何故能登が?」の名称ルーツはここに在った。学術的な案内板も有り難いが、以前この連載で紹介した男鹿と同じジオパークに選定されている秋田県八峰町の「オカムイ岩悲恋伝説」の様な案内文が目立つ所に有れば…と思うのだが。


④サミット開かれる
さて、その男鹿市で今年4月「第25回全国椿サミット」が開かれた。ツバキとサザンカの愛好家が全国から集まるイベントで、秋田県内では初の開催となった。ツバキをテーマにした講演等が行われた他、歓迎の「ナマハゲ太鼓」等が会場を盛り上げた。ツバキは男鹿市の花でもあり、イベントに先立って合併新市10周年の記念植樹も行われた。このサミット、来年は京都で開かれる予定だ。何気なく親しんでいる真っ赤な花には様々な魅力が詰まっていた。偶然なのだろうか、この稿を書き終えてふとテレビに目をやると、某有名化粧品メーカーの「TSUBAKI」シャンプーCMが放送されていた。
*以前にもお伝えしておりますが、この東北見聞録は”釣り東北”に掲載された記事の転載です。従って、時期についてはタイムラグがあります。
上記の椿サミットも今年4月となっていますが、実際は2015年です。ご了解ください。


オーパーツを探ってみよう!!

2018年06月19日 | 地球・宇宙・太古
オーパーツが記された本を初めて読んだのは、高校生の頃であったから50年も前の事である。
当時はパソコン、ネットなどは無く、そうした方向から得られる知識は全くに無い、もっぱら読み物からである。最初にオーパーツを知った時に衝撃を受けた事を未だに忘れられない。
しばらくオーパーツを採り上げてみましょう。

【閲覧注意】800年前の携帯を発見!タイムトラベラー?不思議の多い謎な衝撃画像まとめ(オーパーツ)

イザベラ・バード奥地紀行14

2018年06月13日 | 本・雑誌から
イザベラは、黒石から青森までの22マイル半(約36キロメートル)を、道が悪くぬかるんでいたため、矢張り四苦八苦して移動する。人力車を雇ったものの、時には歩くことになったり、溝に車輪を捕られひっくり返り、人力車の下敷きになった事もあった。
『農業を営むの様子はますますひどく』なり、『家は粗末な土の家で、横に穴を開けて光を入れたり、煙りを出したりしている』有り様だった。

ここでイザベラは日光を出て以来、多くの峠を越えてきが、本州最後の峠となる峠越えをする。そしてこの時、峠からは起伏のある地方の向うに海を見ることができた。
イザベラは、蝦夷(北海道)への汽船は夜出帆すると聞いていたので、浪岡で更に4人の男を雇って青森へと一目散に向かう。
こうして、イザベラは蝦夷へと旅立った。

「私はどこでも見られる人びとの親切さについて話したい。
二人の馬子は特に親切であった。私がこのような奥地に久しく足どめさせられるのではないかと心配 して、何とか早く北海道へ渡ろうとしていることを知って、彼らは全力をあげて援助してくれた。
馬から下りるときには私をていねいに持ち上げてくれたり、馬 に乗るときは背中を踏み台にしてくれた。あるいは両手にいっぱい野苺を持ってきてくれた。それはいやな薬の臭いがしたが、折角なので食べた」

ゆるやかな勾配の長いジグザク道を登って矢立峠に出る。この頂上にはりっぱな方尖塔がある。
これ は砂岩を深く切ったもので、秋田県と青森県の県境を示す。
これは日本にしてはすばらしい道路である。
傾斜をうまくゆるやかにして築きあげ、旅行者が休息す るための丸太の腰掛けも便利な間隔で置いてある。この道路をつくるために発破をかけたり勾配をゆるやかにしたり、苦労の多い土木工事だったろうが、それも 長さ4マイルだけで、両端からはあわれな馬道となっている。

「私は他の人びとを残して、1人で峠の頂上まで歩いて行き、反対側に下りた。
そこはあざやかな桃 色と緑色の岩石に発破をかけて作った道路で、水が滴り落ちて光り輝いて見えた。私は日本で今まで見たどの峠よりもこの峠を賞め讃えたい。(中略)
私たちは幸運にも2頭の駄馬に出会った。その馬子たちは大館へ行く道路が不通になっていることを知らなかった。
彼らと私の馬子たちは、荷物を交換した。 これらは強い馬で、馬子は熟練しており、勇気があった。彼らは、もし急げば彼らが出てきた村へなんとか行きつくことができるだろう、と語った。しかし話を しているうちに、下の橋が流されてしまった。彼らは、私を荷鞍にしっかり結びつけてあげよう、と言ってきかなかった。あの大きな谷川は、前にはその美しさ を賞賛したのだったが、今ではもう恐しいものとなり、浅瀬がないところを4度も歩いて渡らねばならなかった。(略)」

碇ケ関では子供の遊びを観察したり、湯治客の眼病治療などをして過ごしている。その後黒石に。
ここでは天候も良くなり、着いてすぐ美しく絵のようなねぷた祭りに出会い感動し、中野紅葉山や湯治場なども見物した。
「これは人口5,500の清潔な町で、下駄や櫛の製造で有名である。私はこの町で、とてもきれい さっぱりして風通しのよい2階の部屋に案内された。あたり一帯の景色もよく見えるが、隣の家の人たちがその奥の部屋や庭園で仕事をしている様子も見えた。
青森まで直行せずに、ここで3日2晩滞在している。天候も回復し、私の部屋もすばらしく気持がよいので、この休息はたいそう愉快である。(中略)
竿は高さ20フィートもあり、提燈それ自体が6フィートの長さの長方形で、前部と翼部がある。それにはあらゆる種類の奇獣怪獣が極彩色で描かれている。 事実それは提燈というよりもむしろ透し絵である。それを取り囲んでいるのは何百という美しい提燈で、あらゆる種類の珍しい形をしたもの-扇や魚、鳥、凧、 太鼓などの透し絵がある。
何百という大人や子どもたちがその後に続き、みな円い提燈を手に持っていた。
行列に沿った街路の軒端には、片側に巴を描き、反対 側には漢字を二つ書いた提燈が列をつくってかけてあった。私は、このように全くお伽噺の中に出てくるような光景を今まで見たことがない。提燈の波は揺れな がら進み、柔い灯火と柔い色彩が、暗闇の中に高く動き、提燈をもつ人の姿は暗い影の中にかくれている。この祭りは七夕(タナバタ)、あるいは星夕(セイセ キ)祭と呼ばれる。(略)」

「上中野は非常に美しい。秋になって、星の形の葉をつけた無数の紅葉が深紅の色をつけ、暗い杉の森 を背景として美しく映えるとき、森の中の大きな滝は雪の降るように白く輝きながら下の暗い滝壺に飛び散り、遠く旅をしてやって来る価値が充分にあるにちが いない。これほど私を喜ばせてくれたものを今まで見たことがない。(略)」

青森の街にはほとんど滞在せず、慌ただしく汽船で北海道へ渡り、旅を続けて『日本奥地紀行』を終えている。
*この後、函館~室蘭~白老を回って、アイヌに宿泊しての交流が続く。そこでの記述も詳しいが、本ブログではここで終了とさせていただきます。

「東北見聞録~謎と不思議と珍談と」第三十八話

2018年06月10日 | 本・雑誌から
東北見聞録」謎の古墳群
今日のテーマは古墳でありますが、先日の例会で訪問してきたばかりの江釣子古墳群が語られています。
参加者でもあった私には、つい先日の光景が思い出される内容ですが改めて鈴木会長の行動力にビックリいたしました。


縄文遺跡や巨石と聞くと、いても立ってもいられない性分で、これに「古墳」が加われば更に強烈だ。平成6年、中国の甘粛省蘭州市に秋田・甘粛友好会館が完成した折、取材で現地に赴く機会を得た。セレモニー等の取材を終えてから、甘粛省や陝西省周辺の取材に足を伸ばした。壮大なスケールの女帝・則天武后(そくてんぶこう)の墳墓「乾稜(けんりょう)」(正にピラミッド型)や、その孫娘・永泰公主(えいたいこうしゅ)の墓等だ。そして…移動中、田園地帯にズラリと並ぶ古墳群を見た。「何て数だ!ピラミッド型が並んでいる!」この時、興奮は最高潮に達した。

①古墳時代とは
日本では3世紀後半から7世紀頃にかけて貴族や豪族の支配者らを葬った墳墓が造営され、この時代を「古墳時代」と呼ぶ。「仁徳天皇陵」等で知られる「前方後円墳」「円墳」前述の中国で見た「方墳」「上円下方墳」などの形状が有り、石を積み上げて横穴式の石室を造っているものも多く見られ、この中からは鏡や玉、更には剣・武具・馬具等が出土している。全国には約25万の古墳が分布していて、その90%以上が「円墳」だと言う。東北地方で分布を見てみると、大型古墳は宮城県名取市の国史跡「雷神山(らいじんやま)古墳」、福島県会津若松市の「会津大塚山古墳」など、そして新しいニュースとして昨年いわき市で大型古墳の発掘調査が行われ、東北最大規模では?…と歴史の定説を覆す新発見もあった。そして今回、向かうは岩手県。

②古墳群へ
20年程前、三角山の関連調査で岩手県北上市の飯豊山周辺を訪れ、山の北側に位置する神社境内で石室を備えた古墳を見た。それほど大きくは無いが「北上には古墳が沢山ある」と市の教育委員会から聞いていて、是非見てみたいとの思いをズーッと抱いていた。手元にも大友幸男氏の著書「江釣子古墳群の謎」を置いて現地に行くチャンスを狙っていた。
目指したのは120基以上で構成されている北上市の「猫谷地(ねこやち)」「五条丸(ごじょうまる)」「八幡」「長沼」の4古墳群の中の五条丸と猫谷地古墳群だ。岩手県には胆沢郡胆沢町の前方後円墳「角塚(つのづか)古墳」や花巻市の「熊堂古墳群」の他、矢巾町や岩手町等にも有るが、北上川の支流である和賀川に特に集中しているのが「江釣子古墳群」の特徴だ。

③至る所に古墳点在
北上市の中心部から少し離れた五条丸地区に、少々迷いながらも到着。
先ずは史跡センター前に復元された石室を備えた小型円墳「奥壁」に出会った。そこから周辺の木立に向かうと、石積みの中央に「国指定史跡」と白い標記のある小型円墳が次々に現れた。



古墳時代末期(7世紀後半~8世紀前半)の五条丸古墳は元々100基以上あって、1962年(昭和37年)の発掘調査で50基を確認したものの、田畑や道路の為に消滅し、その数を減らしてしまったとの事だ。1994年に発行された大友氏の著書によれば79基と記されている。
五条丸に繋がる「猫谷地古墳群」も同時期の古墳群で、かつては沢山あったものの、1951年(昭和26年)の時点で16基を確認し5基を調査した。この調査で、川原石を小口積みした石室であると判明。この結果、横穴式石室の流れをひくものと位置づけられた。石室内からは刀類などの武器類や勾玉などの飾金具が出土、現存する古墳は約20基と見られる。林の中を散策して確認したが、いずれも直径が8~10mほどで高さは1m前後の小型墳丘だった。大型では無いものの、点在する小型円墳は何故こんなにも多く造られたのか?

④蝦夷社会
古墳群は積み上げられた川原石から見ても、山と川の大自然に恵まれた古代人の営みと深い結びつきがある。考古学界では終末期古墳に分類されているが、蝦夷文化が脈々と続いたこの地域では「蝦夷塚」と見る研究者が居る。古代の蝦夷の伝統と信仰、そして埋葬から見られる広域的な部族社会を治めていた多くのリーダー的人物への崇高な心、これらが小型円墳の物語る古代蝦夷社会かも知れない。
大友氏によると、蝦夷社会には階級的支配は無く、集団指導型のリーダー中心の合議制社会だった事を物語るのが古墳群だと述べている。後に中央政権から攻撃され「征夷戦争」の舞台となる蝦夷地域だが、約半世紀にわたって抵抗を続けたのは、地域への愛と誇りだったのでは無いだろうか。小さな古墳から発信される古代人の心を読み取りたい。