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「奇 々 怪 会」 とは、どういう会なのか

昭和30年前後にイギリスのネス湖で恐竜ネッシーの存在が話題となり(湖面を泳ぐ姿が目撃され、写真に撮られたりした)、ヒマラヤで雪男の足跡が発見された等などが新聞やテレビで話題になりました。
こうした話題は昔から私達の興味を引く出来事だったようです。

いや、もっともっと旧くには・・・
秋田出身の国学者・平田篤胤は異界・幽冥の世界の有様をまとめて、1822年(文政5年)に『仙境異聞』を出版しています。
実は文政3年秋の末、篤胤45歳の頃、江戸で天狗小僧寅吉の出現が話題となっていたそうです。
寅吉は神仙界を訪れ、そこの住人たちから呪術の修行を受けて、帰ってきたというのです。
篤胤は、天狗小僧から聞き出した異界・幽冥の世界の有様をまとめて、出版したのが『仙境異聞』であります。これが当時大きな話題となったと伝えられています。
ことほど左様に”不思議な話”は、いつの時代でも人の興味を引き付けるのだと思われます。

心霊現象、死後の世界、臨死体験、輪廻転生、古代文明、オーパーツ、超常現象、UFO、UMA、ツチノコ・・・・・
身近では霊的な場所、遺跡、神社、お寺、巨木等なども私達の興味を引き付ける様です。

奇々怪会は、こうした事に興味を持つ人の集まりです。
新規の入会を希望する方は下記までご連絡ください。
メール arashigeru@yahoo.co.jp

平田篤胤の仙境異聞が人気?

2018年04月29日 | 本・雑誌から
今朝の秋田魁新報を見てビックリした。
記事は以下の通りなのだが、秋田出身の国学者 平田篤胤の「仙境異聞」がネットで話題となり本も増刷されているのだという。
このブログでは開始早々に仙境異聞、並びに勝五郎再生記聞を特集して採り上げてきた(2017年3月~5月)。この準備で私も仙境異聞を買い求めたのだが、旧仮名遣いで読むのに難儀した。
それが一躍人気だと言う、ウ~~~~ン


「東北見聞録~謎と不思議と珍談と」第三十三話

2018年04月28日 | 本・雑誌から
「東北見聞録」怪建築を訪ねて

幼い頃から「空想科学(SF)」分野が大好きで、大学時代には、同人会を主宰するまでにのめり込んだ。当時どの同人グループも果たしていなかった日刊誌を発行し、「内容は兎も角、すさまじいパワーのグループ出現」と評され、デビュー間もなく全国に200有る同人会のトップグループに仲間入り。こうした経緯から故小松左京氏と東京SF大会でマージャンをご一緒したり、筒井康隆氏の自宅にお邪魔したりと結構忙しく動き回っていた。現在「特別顧問」を仰せつかっている「秋田SF研究所」誕生にも深く関係するSF界にまつわるエピソード等についてはいずれこのコーナーで紹介する事にして、今回は思い出深いSF活動時代にコレクションした古典文学からヒントを得て是非紹介しよう!と思い立った東北の不思議な建造物がテーマ。

①先ずはSF古典の話から…
早川書房の月刊「SFマガジン」が登場したのは昭和30年代で、それ以前は昭和20年代の元々社SFシリーズが戦後SFの古典的存在。
しかし更に遡って、明治・大正から昭和初期にかけて「伝奇・冒険小説」のジャンルでSFが少年・少女らの心を虜にした。正にSFの古典中の古典だ。例を挙げると海野十三「地球要塞」「火星兵団」、野村胡堂「奇談クラブ」、蘭郁二郎「地底大陸」、後に東宝で映画化した押川春浪「海底軍艦」等タイトルを見ただけでワクワクするのは筆者だけだろうか?
この古典が桃源社から昭和40年代に復刻版として次々に刊行され、SFに関わる一員として揃えに揃えた。前述の作品は勿論だが、この中に白井喬ニの「怪建築十二段返し」が含まれている。大正9年の白井の処女作だ。ストーリーは、以前自分が建築に関わったカラクリ屋敷に姪が閉じ込められ、一人乗り込む江戸の建築師の活躍を描くSFとは少々異なる時代もの。小説の中身よりも「怪建築」のタイトルが強烈な印象だった。そこで東北の「怪建築」とは何だろうかと思いを巡らせた。

②福島県会津若松市へ
20~40代までは仕事とプライベートで年に3回ほど、その後も2年に1回程度の割合で訪れるのが福島県会津若松市だ。東山温泉等も有名だが、歴史上では戊辰戦争の激戦地であり、その象徴が「鶴ヶ城」と「飯盛山」。映画やテレビで何度も舞台となり、毎年多くの観光客でにぎわう。が、3・11の大震災後、一時風評被害に遭った。
さて肝心の「怪建築」を訪ねて向かうのは白虎隊自刃の場として知られる飯盛山(314メートル)だ。有料のエスカレーター(動く歩道)に乗っても良し、階段を上っても良しで白虎隊々士の墓所に到着する。悲劇の歴史に思いを馳せ、合掌。そして隊士の墓から少し下山すると、やがて高さはあるものの何やら歪(いびつ)な六角形をした怪建築に遭遇する。その名も「さざえ堂」。

③さざえ(栄螺)堂とは?
東北から関東に見られる3階建て観音堂の名称で、江戸時代中期から後期にわたって建築された。東京・埼玉・栃木・群馬・茨城・青森・新潟等に在ったとされるが、現存するのは会津を含めて6箇所と見られる。
さて正式名称には旧正宗寺三匝堂(さんそうどう)、通称「会津さざえ堂」は、二重らせん構造の特異な建造物で、江戸後期に建立された。入館料を払って階段を上ると、やや低い天井に様々な貼り札や落書きが見られる。ゆっくり螺旋(らせん)状斜めの階段を上がって最上階までたどり着く。普通の歴史建造物では、必ず上りと下りの見物客とすれ違う筈なのだが…さざえ堂ではそれが無い。二重螺旋構造は正に「怪建築」なのだ。かつては観音札所をこの堂だけで巡れる33観音像が安置されていたと言う。短時間で見学出来るが、木肌から歴史を感じ取りながらじっくり味わうのも一興かと。随分前になるが、2人の息子たちを連れて行った時は大はしゃぎだった。



さざえ堂見学を終えてさらに下ると「戸ノ口堰洞穴」を見学出来る。白虎隊のエピソードをご存知の方はお分かりと思うが、飯盛山背後の戸ノ口原で官軍と幕軍が銃撃戦になり、白虎隊の20人が戦死、残る19人が命からがら水路ずたいに洞穴をくぐり向けた。テレビや映画でも本物の洞穴をくぐるシーンが見られる。その後落ち延びた隊士は、山の中腹から会津鶴ヶ城が炎上していると見誤り自刃する。実際には城下の武家屋敷が炎上していた。この様に戊辰戦争の生々しい歴史遺物が残る飯盛山だが、さざえ堂だけは何かホッとする安らぎを与えてくれる。


太陽観測衛星「ひので」大規模な太陽フレアを観測

2018年04月26日 | 地球・宇宙・太古
太陽に異常が起きているらしい・・・・・
2017年9月6日、太陽の表面で非常に大きな爆発が起きた。この爆発現象を「太陽フレア(または単に「フレア」)」と呼ぶのだそうだ。

太陽フレアのエネルギーは、水素爆弾10万個から1億個分に相当するのだとか! 地球上はもちろん、太陽系に属する他の天体でも考えられない規模だ。つまり太陽フレアは、太陽系最大の爆発現象といえる。
とはいえ、太陽フレアの中でも小規模クラスは日常的に起きている。ですから驚くほど珍しい現象ではないと言う。それなのに、なぜ今回の太陽フレアが大きく報道されて、ネットでも話題になったかというと、2006年以来11年ぶりとなる、滅多にない最強クラスの爆発だったからだ。

私たちが住む地球は大気の層(大気圏)で覆われているが、その外側には磁力の働く磁気圏をもっている。いわば、地球を守るバリアのような存在らしい。
太陽フレアが起きると、爆発とともに電気を帯びたガスが噴出される。爆発が最強クラスになれば、そのガスも大量で、それが地球周辺に到達すると、磁場が乱れ、バリアが弱まると言う。

この影響により、想定される主な事態は次の通りらしい。
・人工衛星のトラブル
・電子機器の故障
・GPSの誤差の増大
・通信障害
・大規模停電
暫く、太陽から目が離せない・・・・・

太陽観測衛星「ひので」大規模な太陽フレアを観測

春の例会の案内が来た

2018年04月25日 | 例会
奇々怪会の例会は年に2回、原則として春は県外、秋は県内だ。
今回の例会は春であるから県外で、今回は岩手県だ。
今回の目玉は江釣子古墳群、イギリス海岸、盛岡市報恩寺の五百羅漢だと思われる。

イーハトーブ館から少々離れた北上川と支流の猿が石川の合流点から南にかけての西岸に、国指定名勝「イーハトーブ風景地」の一つ「イギリス海岸」が在る。
渇水時には泥岩層が露出し、イギリスのドーバー海峡を連想させる事から賢治が名づけ、1923年に短編「イギリス海岸」としても著している。
その冒頭部には「夏休みの十五日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処がありました。それは本たう(本当)は海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。北上川の西岸でした。(中略)日が強く照るときは岩は乾いてまっ白に見え、たて横に走ったひび割れもあり、大きな帽子を冠ってその上をうつむいて歩くなら、影法師は黒く落ちましたし、全くもうイギリスあたりの白堊の海岸を歩いてゐるやうな気がするのでした。(続く)」と記されている。
よほどこの風景がお気に入りだったのか、短編や童話、更には「銀河鉄道の夜」にも名を変えてこの海岸が登場する。





「東北見聞録~謎と不思議と珍談と」第三十二話

2018年04月23日 | 本・雑誌から
東北見聞録」~怪光の正体は?
地上波やBS・CSのテレビ番組表を見ていると時々「UFO」の文字を見つけて、ついつい気になって見てしまう。CSでは、あの矢追純一さんの懐かしいUFO番組も放映されている。
ところで、そのUFOをご覧になった経験をお持ちの方は居られるだろうか?筆者も小学6年生の時に澄み切った青空の中に赤く光り輝く物体を見つけて「すわっ!空飛ぶ円盤!(当時は未だUFOの呼称は無い)」と興奮したが、激しい動きは無く、その後色々調べた結果、人工衛星との見間違えが有力…と、自分で結論づけた。こうした例も多々あって約99%が光りの屈折や雲への反射など自然現象で説明されるが、残る僅かの例は正に「アンアイデンティファイド・フライング・オブジェクト=UFO=未確認飛行物体」なのだ。

①空飛ぶ円盤
UFOについて改めてその歴史をひも解いてみよう。
現代の騒動発端は1947年(昭和22年)6月、アメリカのワシントン州上空で、自家用機を操縦していたケネス・アーノルドが9個の奇妙な皿型の物体を目撃した事に始まる。
目撃したその形状から「空飛ぶ円盤=フライング・ソーサー」として一躍注目を浴びた。また同年7月にはニューメキシコ州ロズウェル近郊に「空飛ぶ円盤」が墜落、乗員の死体や円盤を米軍が回収し隠蔽したとされる「ロズウェル事件」が発生、更に翌年にはケンタッキー州上空で、アメリカ空軍機を操縦するマンテル大尉が謎の飛行物体を目撃した後、墜落し犠牲となった「マンテル事件」が起きて「空飛ぶ円盤=宇宙人説」への関心が更に高まって行く。
この後は堰を切ったかの様に目撃例が続々と寄せられた他、映像も公開されるなど世界的な関心事に発展。アダムスキー型円盤の名付け親ジョージ・アダムスキーの「空飛ぶ円盤同乗記」など著作物も登場して賑やかさを増す。筆者もアダムスキーの著書は読みまくった口だった。が、後にアダムスキー型円盤はインチキだったとの報道が有り、夢中になった身としては少々ガックリ。しかし、インチキだけでは片づけられない実例も多々あって、ミステリー度は増して行く。ところで、UFO=未確認飛行物体とは本来は航空・軍事用語で、日本でも1950~60年代は「空飛ぶ円盤」が主体だったが、1070年代以降TV番組「謎の円盤UFO」等の登場により一般化して行った。

②怪光現象
さて、UFOを想像させる飛行物体は、古くは聖書の記述やキリスト教の絵画に描かれている怪光等が、UFO研究家によって様々な見解が示されている。日本でも古文書等に不思議な光現象が記載されている例が見られる。
地元秋田県の身近な例では、男鹿市で文化七年(1810年)8月26日、男鹿地震の前触れとも思われる怪光現象が「暮れに日の影が2つ現れ、真の光(太陽)は海に落ちかかる一方で、もう一つの光は明るさを増し…」と、地元民の記述に残されていて、翌日に男鹿大地震が発生している。「地震雲」現象はよく言われているが、この古文書では「光」現象だ。男鹿市では現代に入っても目撃例が数多く有り、地元民放TV局でも不規則に夜の空中を浮遊する映像が報道されたケースも有る他、こうした動きを受けて最近では男鹿半島のドライブインにUFOラーメンもお目見えした。UFOがらみの町興しで有名なのは、石川県羽咋市(はくいし)や、「UFOの里」として様々な取り組みをしている福島市飯野町などが挙げられる。機会が有れば、是非とも現地に足を運んでみたい。

③1枚の絵
ところで、三角山から発する「怪光」や上空に「UFO」が飛来したとする目撃談は結構多い。その怪光現象をスケッチとして収めた画家の作品に、筆者はかつて直に触れた。
作者の名は日本画家の鳥谷幡山(とやばんざん)、明治9年青森県七戸町に生まれ、寺崎広業の門下で活躍し昭和41年に90歳で没した。絵画に専念する傍ら晩年には「日本のキリスト」を出版した他、キリストと弟イスキリの墓が在る旧戸来村(現在の新郷村)のキリスト渡来伝説を世に広める事に専念する。そこには思いを同じくする複数の「仲間」が存在したが、これについては非常に複雑で一言では語れないので後日に譲るとして、肝心のスケッチ画は鹿角市大湯の大湯ホテルが所蔵していた。
平成3年~6年にかけて、ピラミッド説の山「クロマンタ=黒又山」に謎を究明する本格的な学術調査のメスが入った折、筆者も報道兼調査員として加わっていた学術調査団の定宿となっていたホテルで、当時の専務と会話を交わす中、「鈴木さん、面白い物をお見せしましょう」と風呂敷包みを取り出して来た。そして貴重な文献と共に姿を現したのが、「我帖」と書かれた一冊のスケッチブックだった。昭和17年8月から9月にかけて鳥谷幡山が周辺をスケッチしたものだ。表紙をめくると先ずストーンサークルの日時計状特殊組石が、そして次のページに不思議な現象を捉えたスケッチが描かれていた。昭和17年8月23日、「ピラミッド黒又山、俗にクロマンタと言う山頂に…突如、光芒が現れる」との注釈が添えられている。ジグザグに動いている怪光を描いたミステリアスな絵だ。ピラミッド説の三角山と怪光=UFOの組み合わせは、謎を更に深めた。鳥谷幡山はスケッチを通じて、何を語りたかったのだろうか?



「逝きし世の面影」渡辺京二・著:ブックレビュー/西村幸祐

2018年04月21日 | 本・雑誌から
先日で終了した「逝きし世の面影」について、ブックレビューで西村幸祐氏が語っている動画があるので以下にご紹介いたします。
西村 幸祐(にしむら こうゆう、1952年(昭和27年) - )は、日本の作家、評論家。戦略情報研究所客員研究員。「報道ワイド日本」の金曜日「クリティーク」のキャスター。一般社団法人アジア自由民主連帯協議会副会長。

逝きし世の面影で語られる旧き良き日本13

2018年04月14日 | 本・雑誌から
「逝きし世の面影」を題材にした、このシリーズも今回で一度終了します。
紹介しきれない内容も多いので、是非ご一読をお薦めいたします。
さて、今回はこの本を離れてはおりますが、旧き日本の状況を知らしめる逸話をご紹介します。長い間のお付き合いありがとうございました。

ハインリッヒ・シュリーマンはトロイの発掘に取り掛かる少し前に、まだ江戸と呼ばれていた東京に来たそうだ。彼の訪日記はとても興味ある日本の分析をしていて、鋭い観察力、感性が感じられる。(シュリーマン旅行記 清国・日本 講談社学術文庫)


ここでは彼が示した役人の事を紹介したい。
『横浜に上陸して彼は二人の税関官吏に会う。彼らは深々とお辞儀をしてから(地面に届くほど頭を下げ、30秒もその姿勢を続けた。と書かれている)、荷物を吟味するから開けろと言う。荷解きをして拡げたら後が面倒だ。
よその国でそうしたように賂(まいない。ワイロ)の金を渡すと、彼らは怒って拒んだ(彼らは自分の胸を叩いて「ニッポン・ムスコ(日本男子?)と言ったとある)。
「我らの尊厳に悖る」と・・・・・彼らのプライドをいたく傷つけた。

仕返しにひどい嫌がらせをされるかと思ったが「形だけの検査で、大変好意的で親切な対応だった」と言っている。
この時代の官吏は・・・・そう、武士だった。だから潔癖さと誇りをもって振舞っていたのだ。』

日本は江戸時代は鎖国していたが、オランダとは交易があり、黒人が奴隷として売買されている事を知っており、オランダ人を軽蔑していた。
18世紀にスウェーデンの植物学者ツンベリーが来日し、「さざんか」をヨーロッパに紹介してるが、彼は日本にきてオランダ人の格好をしていたため、日本人から受ける視線が冷たいのに気付き困惑したという。
日本に出入りしたオランダ人を「日本人は憎悪した」と本国に報告している。
何故なら「彼らは奴隷売買をし、同じ人間を不当に扱っているからだ」と。
*この時代、有色人種が白人を蔑視するなど考えもしなかった驚きがあったらしい。
ツユンペリは、また日本の家族に着目し、「朝鮮では夫人は家に閉じ込められ奴隷状態にあるが、日本の夫人は夫と同席したり、自由に外出したりしていた」とも書いている。

幕末の頃も「奴隷制度を廃止しない連中は犬畜生」というのが書にあるそうだ。
明治5年にペルー船籍の奴隷船マリア・ルス号が日本に寄港した時、支那人奴隷が脱走し、助けを求めて来たため日本政府は保護し、支那人らを救助し、国際仲裁裁判で争い勝訴している。
日本には有史以来、制度としての奴隷制度はありませんから、伝統的に人種差別を嫌っていたわけです。

逝きし世の面影で語られる旧き良き日本12

2018年04月12日 | 本・雑誌から
しかし”性の放縦”に関する観察も又事欠かない。
ヴェルナー「日本にはそもそも欧米的な意味における無邪気さなどない。絵画、彫刻で示される猥褻な品物が、玩具としてどこの店にも堂々と飾られている。
これらの品物は父は娘に、母は息子に、そして兄は妹に買ってゆく。十歳の子どもでもすでに、ヨーロッパでは老貴婦人がほとんど知らないような性愛のすべての秘密となじみになっている」

ヴィシェスラフツォフ「本屋の三文小説の挿絵には、品位というものにまったく無頓着なものがあり、しかもそういう絵本を子どもが手にしていた。子どもらはそれが何の絵であるか熟知しているらしかった」

トロイ遺跡のシュリーマン「あらゆる年齢の女たちが淫らな絵を見ておおいに楽しんでいる」

再びヴィシェスラフツォフ「菓子職人が客の見ている前で柔らかくて甘いこね粉を丸め、われわれのところでは解剖学教室以外では見ることのできない例の形を作ってみせる」

ヒューブナー「砂絵で様々なものを描いた絵師が最後にエロティックな主題を描くのであった。それを見て婦人や少女は欣喜雀躍した」

サトウ「千住の手前の遊郭のある町では”まらの形をした子どもの駄菓子”が沢山売られていた」

当時の日本には性に対する”禁忌意識”が乏しかったのは確かなようだ。性に対するのどかな開放感といってもよい。
しかし、一方で徳川期の日本人は性を笑いの対象ととらえていた、との見方も強い。好意的に解釈すれば、それは人間性についてのリアリズムに基ずくある種の寛容と解釈する人もいる。

一方、遊郭(公娼宿)については私は見識を改めた。
私の拙い知識は寒村から売られた娘が、性を商売に自由も束縛され一生惨めな境遇を送り、場合によって疲労からくる労咳で命を落とす薄幸の場所であった(映画の見過ぎか・・・・)。

まず遊郭は”法律・お上が認めている”場所であって”みだらな隠れ家とも卑猥な出会いの場所”ともみなされておらず、身分の高い人がそこで友人をもてなすほどだ。
年季を了えた遊女は”恥ずかしめの目で見られることなく、ごく普通の結婚をする”のはよくある事だ。
以上は長崎の遊郭についてオランダ商館の医師ツュンベリの報告である。

パンペリー「遊郭で働く女はいつも下層階級出身で、貧困のため売られるのだが・・・・・・彼女たちは自分たちの身の上に何の責任もないので、同じ西欧の女性がもつどん底に引きずり込まれた汚辱がない。
これとは逆に、彼女たちは幼少時に年季を限って売られ、宿の主人は彼女たちに家庭教育の万般を教えるよう義務付けられているため、彼女たちはしばしば自分たちの出身階級に嫁入りする」

カッテンディーケ「彼女たちは祭礼中寺詣りを認められていることで分かるように”社会の除け者”扱いは受けていない。年季を勤め上げれば家庭にも入れる。彼女らはヨーロッパ概念での売春婦ではない」

ポンペ「彼女は25歳になると尊敬すべき婦人としてもとの社会に復帰する。彼女らが恵まれた結婚をすることが珍しくない」

「遊女屋は公認、公開されたものであるから、遊女は社会の軽蔑の対象にならない」
彼女らは貧しい親を救うために子どもの頃売られるので「子どもは両親の家を喜んで出てゆく。美味しい物が食べられるし美しい着物が着られ、楽しい生活ができる寮制の学校にでも入るような気持ちで遊女屋に行く」

「この親子は自分たちを運命の犠牲者として考えているのである。両親は遊女屋に自分の子を訪問し、逆に娘たちは外出日に両親のいる住まいに行くのを最上の楽しみにしている。娘が病気にかかると、母親はすぐに看護に来て彼女を慰める」

逝きし世の面影で語られる旧き良き日本11

2018年04月08日 | 本・雑誌から
さてこれからは私自身がこれらの書物を通して得た考えだ。
混浴が彼らの問題になった時代、日本の習慣・常識はそれとは乖離していた。
この時代、日本には裸体が恥ずべき物との認識はない。現代の尺度で考えるとそれは異常だが当時はそうであった。

例えば逆な事がある。私がパリ旅行をした時、真昼間に恋人同士が衆人環視の路上やセーヌ河畔でKISSをしている、それもフレンチではない。
KISSは私の感覚では性行為の前戯に近い、それを衆人環視の前で恥ずかしげもなく行うこの人種は異常である。これこそ慎みを知らないということだ。最近は日本人もこの悪習をまね、電車内でKISSする輩もいるやに聞くが、見つけたら張り倒してやりたい。
実はこの事はアンベールも記録していて、パリ万博に参加した一日本人が「我々なら夜でも人前では許されないようなことが、白昼、公然とパリの真ん中で行われるのを見せていただいた」と語った言葉を載せている。

当時の日本人の尺度では単に健康や清潔の為とか、せねばならぬ仕事の為に便利というのでたまたま身体を露出するのは、まったく礼儀にそむかないし、許される事だった。
だが、どんなちょっぴりであろうと見せ付けるためだけに身体を露出するのは、全くもって不謹慎なのだ。

前者の例としては、開放された浴室や裸の労働者、ジメジメした季節に着物をまくり上げる事、夏に子どもがまったく衣服を着けないこと、本当に暑い季節は大人だってちょっぴりしか衣服を着けない事がそれに当たる。
私の子ども時代、ご婦人が電車内で授乳するのは普通の事であった、この授乳を扇情的な目で見る方が異常なんだと私は思う。

後者の例としては、衣服をまとっているものの身体の線をいかにも強調した扇情的服装、ブラジルの海岸を御覧なさい、股間を紐一本の水着、尻は丸出しだ。西欧だって考えてみなさい、おっぱいの半分以上を露出した扇情的衣服が堂々まかり通っている。
慎みをしらないとあんた方には言われたくない・・・・・・

さて、前回の混浴や裸を恥ずかしがらない事でほほえましい記述を紹介しよう。
クロウ「あちこち自分の家の前に、熱い湯につかったあとで清々しくさっぱりした父親が、小さい子どもをあやしながら立っていて、幸せと満足を絵にしたようである。多くの男や女や子どもたちが木の桶で風呂を浴びている。桶は家の後ろや前、そして村の通りにさえあり、大きな桶の中には、時には一家族が、自分たちが滑稽に見えることなど忘れて、幸せそうに入っている」

ティリー「礼節という言葉の正しい定義は何だろう、私が初めて日本の風呂に入った時そう自問した。風呂場にはあらゆる年令の男、そして婦人、少女、子どもが何十人となく、まるでお茶でも飲んでいるように平然と、立ったまま身体を洗っていた。
そして実を言うと、入ってきたヨーロッパ人も同様に一向に気にされないのだ。スタール夫人は、ヘラクレスやヴィーナスの彫像を見ていて、同行の若い士官から、慎みが大そう欠けていると思わないかと問われ”慎みがないというのは、見る方の眼の問題なのね”と答えたと言う。という次第で、日本の裸の礼節に何も怪しからぬ点はないと、私は考えることにきめた」

画家ラファージが日光の茶店で休んだ時、女の馬子たちは腰まで衣服を脱ぎ、男の眼もはばからずに胸や脇の下を拭ったり、こすったりした。しかし、彼がそれを写生しているのに気づくと、急いで上衣を肌にまとったという。
男もそうであった。平民の男は暑い時期、ほとんどマロ(フンドシ)一丁であった、フンドシとアテは向こうから外れる、外交官夫人等はそれこそ行く先々で”ショッキング”と眼を覆ったそうである。

リンダウはこの問題で正面きって日本人を弁護した。
「風俗の退廃と羞恥心の欠如との間には大きな違いがある。子どもは恥を知らない。だからといって恥知らずではない。羞恥心とはルソーが言っているように”社会制度”なのである。
・・・・・各々の人種はその道徳教育において、そしてその習慣において、自分たちの礼儀に適っている、あるいはそうでないと思われる事で、規準を作ってきているのである。率直に言って、自分の祖国において、自分がその中で育てられた社会的約束を何一つ侵していない個人を、恥知らず者呼ばわりするべきでなかろう。この上なく繊細で厳格な日本人でも、人の通る玄関先で娘さんが行水しているのを見ても、不快には思わない。風呂に入るために銭湯に集まるどんな年令の男女も、恥ずかしい行為をしているとはいまだに思った事がないのである」