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昭和のプロレス:日本初の相棒

2022-12-23 06:29:29 | 日記
外人同士の仲間割れ

 今年のプロレス界で最哀のニュースはアントニオ猪木の死去。
現役時代を振り返れば毎年この時期は、タッグリーグで覇を競いファン
を魅了してくれました。
 ただし個人的にはタッグパートナーを外人選手に求めた点が不満でした。
1980年の第1回MSGタッグリーグのボブ・バックランド、3回と
4回のハルク・ホーガン。
87年のジャパンカップではディック・マードックと組んで出場しましたが、
外人エースの顔を立て何やら媚を売っている雰囲気を感じてしまいました。
 そんな弟子の姿を師匠力道山が目にしたら、さぞや憤慨しただろう。
そう想像したのですが。

 「甦れ!金曜8時の昭和のプロレス」では、リング上のドラマを脇で
支えたレスラー達を振り返っています。
今週は「後に伊達男、ジュニー・バレンド」です。

 1958年9月4日に初来日、ドンレオ・ジョナサンとスカイハイ・
リーと共に羽田空港に降り立ちました。
 そこから翌日までの流れの中でリーと悶着を起こしてタッグ拒否を宣言。
5日の開幕戦では何と力道山とタッグを組んでジョナサン・リー組と
闘っています。
 この試合はテレビで生中継され力の意外な相棒が全国のファンに披露
されたのでした。
 日本プロレス70年史には控え室で肩を組むふたりの写真が掲載されています。
力より頭ひとつ長身のバレンドは穏やかな笑顔、リキも満更でもない顔
で写っています。
 解説文には<力が外国人選手とタッグを組むのはこれが初めて。
バレンドは日本マット初の外人ベビーフェース。>とあります。
 猪木の師匠である力道山は弟子より先に外人を相棒にしていたのでした。

6人タッグの相棒

 再来日したのは力が亡くなった翌年。
64年の6月19日から8月28日まで全35戦が行われた夏の陣でした。
 エース格は覆面のザ・スポイラー。
準主役がバレンドとマグニフィセント・モーリスのタッグチーム。
後に世界王者となるニックボック・ウインケルが、若手の有望格として
初来日していました。
 この時のバレンドからは好青年の面影は消え、サングラスにベレー帽、
ステッキを持ちおまけにピンクのマントを羽織る奇天烈ないで立ちで
リングに上がりました。

 目だった舞台は馬場・豊登が持つアジアタッグへの挑戦でしたが、敗退
しています。
 他に目を惹く試合といえばニックを含めた6人タッグ。
7月26日には1本目にバレンドがとり2本目には取り返され、3本目
はニックが馬場に敗れています。
 奇妙ないで立ちの先輩がまさか亡き力道山の相棒だったとは、きっと
ニックは思いもしなかったでしょう。
コメント
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