原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

身内高齢者の “死に際” 対応を如何に成すべきか?

2017年02月25日 | 時事論評
 先週末、私は義母が入居中の高齢者有料介護施設へ家族と共に出かけた。


 今回の施設訪問の目的は、義母担当のケアマネジャー氏と向こう半年間の介護計画詳細を話合い、ケアマネ氏が作成した「施設サービス計画書」に合意の記名捺印をするためだ。

 以前にも記載したが、義母入居の高齢者施設はおそらく国内でも最高レベルの介護ランクを誇っているのではないかと推察する。(その分、入居費用も高額だが。) 入居者一人ひとりに担当ケアマネ氏が付き、保証人と半年に一度合意をした「計画書」に基づき、懇切丁寧な介護が施設でなされる段取りとなっている。  そして有事の問題が発生した際(昨年の漏水事故等々)には、必ずやケアマネ氏より保証人宅に電話が入り個別解決するとのシステムとなっている。

 しかも有り難いのは、必ずや保証人の意向を第一義として尊重してくれる点だ。
 あらかじめ介護の事細かい部分まで保証人の希望を聞いて下さり、それに沿った介護計画を立案したものを提示の上、合意に向けた話し合いとなる。


 そんな中、今回は今までになかった内容の課題がケアマネ氏より提示された。
 それは、表題に掲げた入居者の「死に際対応」に関してだ。

 義母の場合、現在まだ決して“差し迫った状況”下にはないのだが、突然体調を崩し悪化する場合も想定して(そういう入居者も少なからず存在するとの事)のご提案だ。
 当介護施設に於いては入居者の「終末期の看取り」まで実行して下さるのだそうだが、それが差し迫った際に、保証人始め家族が如何なる対応を欲しているかを確認しておきたいとのご意向だ。

 例えば義母も「尊厳死協会」に入会し、延命措置は取らない旨を義母自身も我々に告げている。
 ところが義母同様に当該教会に入会している事を承知している高齢者の家族であれ、いざとの場面に直面すると、「延命措置をお願いします!」と施設へ泣きつく家族が少なくないとの事だ。
 その事態を避けるために、とりあえず現在の意向を承知しておきたいとのケアマネ氏のご提示は重々理解可能だ。

 その最終解答を施すのは、当然ながら義母の実の息子である亭主であろう。
 それは承知の上で、私が(いつものように)しゃしゃり出て、ケアマネ氏相手に自分の考えを発言させてもらった。


 その我が発言内容に類似したバックナンバー(2016.7.21公開 「男って基本的に皆“マザコンなのか!??」)が存在するため、以下に一部を反復させて頂こう。

 朝日新聞7月16日別刷「be」 “悩みのるつぼ” にて、60代男性よりの “希少な” 相談を発見した。  「亡き母の介護で悔いが残ります」 なる題名のその相談を、以下に要約して紹介しよう。
 60代半ばの男性だが、2年前に母を84歳で亡くした。 病院で、これでもかというほどの延命治療を続けた末、母は最期の一言も発せられず、自分も今までの母への感謝の言葉さえも伝えられず、亡くなってしまった。   思えばまだ母が九州の田舎で何とか生活していた頃、腰の曲がった様子を見ていながら、2ヶ月に1度数日の帰省だけで母の面倒を見てきたつもりだった。 それが、母にとって本当の介護になってなかった。 「離職してでも、何をさて置いても母のそばにいてやるべきだった」などと、2年経っても自責の念に苛まれている。 母は本当は「帰ってきてくれんね!」と言いたかったのだろう。 それを東京で生活している息子に言い出せなかった。  法事で実家に帰る度に無性に悔しさ、無念さが募り、母の遺影に向かい「母さん!ごめんな!」と謝り続けている。 
 月1回心理カウンセリングを受けると気が楽になるが、その翌日から後悔の日々だ。 こんな母への後悔の念はいつまで続くのか。 どんなきっかけがあれば立ち直れるのか? この愚かなバカ息子に生きるためのアドバイスが欲しい。
 (以上、朝日新聞 “悩みのるつぼ” 相談より要約引用したもの。)
 一旦、原左都子の私事及び私論に入ろう。
 確かに自分の親が高齢にて亡くなった直後の子どもの立場から、この相談と似たような言葉を聞く事はある。 例えば「生前は空気のような存在だったが、実際親に死なれてみると結構損失感なる痛手はある」等々…
 ただ私自身の経験・記憶によれば、それは概して「死亡直後ないし半年程」の感想なのではあるまいか?
 この私とて、その経験をしている。  我が父親が60代の若さで突然死を迎えた当初、確かに一時は喪失感を抱いたものだ。 ところが、後で思えばその「喪失感」は一過性だった事に自らすぐさま気付いた。 その後は、むしろ「葬儀など簡略化してもらわないと、遠方から駆けつけねばならない親族は大きな迷惑だ!」と実母に指導を繰り返している程の親不孝者だ。
 これには私なりの理由がある。 実母が盛大な葬儀を執り行ったがため、私は親戚一同や地域住民対応に一人で苦慮させられた。 ホテルへ泊まると言っている弔問客を母の意向で自宅へ招いたがため、その世話のすべてが私に任せられた。 娘がサリバンの私にべったりくっついている状態で娘の“発達遅れの”醜態を弔問客に晒す訳にもいかず、私は1週間一睡も出来ないまま疲労困憊して東京へ戻らざるを得なかった。 その後私は体調を大幅に崩し帯状疱疹を患い、元の健康体に戻るまで時間を要したものだ。 その何年か後に、実母に対し「葬儀は簡素に。 生きている者の安泰こそが守られるべき!」と指導し続けている。)
 もしかしたら朝日新聞相談男性とは、東京にて“寂しい人生”を余儀なくされているのではあるまいか?
 それ故に当男性の人生に於いて、いつまでもいつまでも「実母」の存在が絶大であるように想像してしまう。
 男性が母上生前に成した「親孝行ぶり」は十分過ぎる程評価に値しよう。 「これ程までかと思う程の延命治療」を施したり、2ヶ月に一度のペースで実母の介護のために東京から九州の実家に戻ったり…。
 高齢者介護とは、相談男性が言うような介護者・被介護者間の関係が “濃厚” であれば事が済むというよりも、双方が話し合いを持ちつつ、お互いに気持ちのよい関係を紡げる事が第一義ではなかろうか。
 それでも、どうしても被介護人本人が高齢に至る程その意思表明力が極度に低下するのも困りものであるのは、私も日々実感しているが…。
 ただそれであれ、被介護者及び介護者双方の人権が当然ながら尊重されつつ、介護論理が成立するべきだろう。  その観点より考察するに朝日新聞相談者男性は、厳しい指摘をするなら60代に至るまで “マザコン” 人生を歩んでしまったのではなかろうか?
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を反復したもの。)


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。
  
 高齢者に対する現在の「延命措置」のあり方も問われるべきだろう。

 ただ私が感じるに、上記朝日新聞相談者のごとく、出来る限りの延命措置を施す事が真に“死にゆく人”の人権を保障する手段であるのかどうか疑問だ。
 むしろ、その行為に残される家族のエゴすら私は感じてしまう…

 それが“愛情”であるならば、被介護者である高齢家族存命のうち(もっと言うならば本人の認知力がしっかりしているうち)に大袈裟にまで表現してあげるべきではなかろうか?  私など両母、特に義母に対するその愛情演技力の程は凄い! と自己評価しているのだが。 )
 それを怠りながら、死に際に急きょ予定を変更して「延命措置をしてくれ!」と介護施設(や医療施設)へ訴え出る家族達の現場での “迷惑度合い” を察して余りある。

 さてさて、我が亭主は義母の“死に際”に至って、一体如何なる決断をするのだろうか?
 私とは全く異なる人生を歩み人生観を育てて来ている人物のため、未だに読めないでいる……