原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「集団登校」とは“集団逃避無責任思想”でしかない

2012年04月25日 | 時事論評
 4月23日朝京都府亀岡市の府道を集団登校中の小学生の列に車が突っ込み10名の死傷者を出した事故を受けて、本日(25日)昼、京都府内の公的機関が通学路や子ども達の登校の様子を点検しているニュースが流れた。

 近年、集団登校中の子ども達の団体に車が突っ込み幼き数人の犠牲者を出す大惨事が後を絶たない。 国民の多くが「痛ましい…」と言うよりも、「またか…」との感覚を抱いているのが正直なところではあるまいか。
 この状況下に於いては、もはや公的関連機関が小手先の対策や付け焼刃的改善策を掲げたところで埒が明くべきもないのではなかろうか?


 学校教育現場に於ける「集団登校」の慣習とは、元々「交通安全」対策のために、1960年代以降文部科学省(旧文部省)の指揮の下に各都道府県に於いて実施されるようになったらしい。 2000年以降は、防犯対策の面でも「集団登校」が有効との位置付けとなったとの朝日新聞の報道である。
 
 ところが、当然ながら学校現場よりの異論・反論も存在する。
 例えば、「集団」とは児童一人ひとりの注意が散漫になり易いとのマイナス面もありむしろ交通安全面上危険性が高いとの理由で、実施を見送っている自治体も存在するようだ。
 文部科学省も68年の通知で、集団登校が「(例えば車が高速で走行する場所等)は大事故を起こす危険性があるため、集団登下校を避けることが望ましい」ことを既に指摘しているとのことだ。
 平野文科相相は、「(事故現場が)通学路としてふさわしいのかも含め検証して、改めて全国の通学路の選定の方法が本当に良いのかどうかまで検討すべきかどうかを詰めて行きたい」と(原左都子に言わせれば遅ればせながら)述べているようだが……
 (以上、朝日新聞24日夕刊より要約引用)


 ここで、原左都子の私事を述べさせていただくことにしよう。

 我が娘も小学校低学年(高学年は他校に転校)に通学していた公立小学校に於いて、「集団登校」を経験している。
 様々な事情により、保護者の私は子どもの入学当初より学校が指定する「集団登校」に大いなる抵抗感があった。

 まず、娘は生まれながら若干の事情を抱えていた。 出来る事ならば我が子の事情を一番理解している母の私が日々学校まで送り迎えしてやりたいものだった。 
 集団登校とは近隣の子ども達(我が家の場合は同マンションの住民の子ども達)同士で集団を結成するのが通常である。 学校現場自体は義務教育であるため致し方ないとしても、日々登下校を共にする近隣の子ども達の無理解によりプライベート生活に及んでまで“いじめ”に遭いやしないか、“変な子”と後ろ指をさされ娘の後々の人生にまで傷が付かないか等々、当時の我が心痛の程は尋常ではなかった。 (集団登校さえなければ近隣の児童との付き合いを避けて通れたのに…)と、事情を持つ子の親としてどれ程「集団登校」の存在を鬱陶しく思ったことか……
 
 加えて、私はそもそも“集団主義”を受け入れ難い思想の持ち主である。 子どもを義務教育課程に通わせる事自体すら本当は避けて通りたかったのに、何故学校へ行くのに「集団」で登校させばならないのかと、大いに理不尽な思いでもあった。

 しかも学校が全校生徒に強制するこの「集団登校」制度の内容が、想像以上にいい加減なのである。 その一例を挙げよう。 
 我が子が小学校に入学当初の4月の下校時に、まだ登下校に慣れない1年生児童のために学校教員が「集団登校」班に同行し保護者が道中まで迎えに行くとのシステムがあった。 私など(いっそなら保護者が学校まで迎えに行って教員が保護者に直に子どもを手渡しして欲しい)と思いつつその道中の場に行くと、な、な、なんと、娘の姿がない!!   何分事情を抱えている我が子である。そんな事もあろうかと予想可能な私ではあるが、同行していた見知らぬ若い教員に我が子がいない旨を伝えた。 そうしたところ、返された応えには驚いた。「間違えて別の班で帰ったんじゃないですか~~?」 
 何せ携帯電話などない時代である。 その教員の対応に唖然としつつも未だ6歳の我が子の安否こそを気遣い帰宅を急いだ。 そうしたところその同行教員から我が子がいない連絡を受けたとの、担任先生からの切羽詰った電話があったとの亭主の話だ。(参考のため担任先生には我が子の事情を話していた。) 警察に通報しようかと考えたその後、娘は雨にずぶ濡れになりつつ一人で帰宅してきた。 幸いな事にいつも母子で遊んでいた公園方面へ迷い込んだようだが、その辺の土地勘があったために自宅までの道程が把握できたらしい。
 義務教育に於ける「集団登校」実施の責任とは、最終的には学校が全校生徒一人ひとりに対してそれを負うべきではないのかと、娘の入学当初より抱かされた我が感慨深い出来事である。 それが不能であるならば、最初から児童の登下校時の全責任を保護者に転嫁しておくべきであろう。

 その後、(やはり小学校に於ける娘に対する“いじめ”等の痛手の事情もあり)転校を余儀なくされた後の公立小学校には、実にラッキーな事に「集団登校」制度はなかった。
 ただ我が子の登下校に関して学校より指定されている通学路を親子で実際に歩いてみると、危険な要因が多数存在していた。 その通学路とは文科省が上記に指定している通り車の通行は確かに少ない。 ところが「信号」も「歩道」もない実態だ。 しかも自宅から最短距離で2分で通える目と鼻の先に位置する小学校であるにもかかわらず、学校指定の通学路を通行するとその3倍の時間を費やす程の遠回り路なのだ。 (これは我が娘にとっては3倍の危険性があるということだ。)
 これを転校先の公立小学校長に早速訴えた私である。 そうしたところ学校長は条件付ではあるものの学校が指定する通学路ではなく、原左都子が提案したより危険性が少ない短距離の公道を利用して我が子を通学させる事を認めて下さったのである! (こんな公立小学校長はまたとはいないなあ、 と感心していた矢先、直ぐに私立小学校長として転身されたのだけどね…)
 それにしても我が子が2分の短時間で通える公立小学校への道程を、我がマンションの上階から1日も欠かす事無く卒業まで見守り続けた私である。


 最後に原左都子の結論に入ろう。

 我が国の義務教育が「集団主義」に囚われ続けてきた長年の歴史に於いて、「集団登校」を今さら終焉させろ!と噛み付くこと自体が困難と成り果てている教育現場であろうことは悲しいかな私にも想像がつく。

 ただ義務教育が「集団登校」を「交通安全」「子どもの治安」との名目で深い思慮もなく安直に死守し続け、その歴史的変遷や社会的背景の移り変わりの実態を捉えないまま、近年どれ程の幼い尊い命を犠牲にしてきているかに関しても、そろそろ認識するべき時ではないのか!?