クラシックに例えるなら、王羲之はバッハかな。
初唐の三大家はさしずめ、モーツァルトやベートーベン、ショパンと言ったところでしょうか。
ロックンロールなら王羲之はチャックベリーかエルビスか
初唐の三大家は、ビートルズ、ビーチボーイズ、ローリングストーンズあたりかな?
その後どんどん枝分かれして、ロックンロールが誕生してから百年も経っていないのに、ロックの系図は物凄い事になっています。
そのエネルギーこそが、若者を夢中にさせる原動力だと思います。
書の世界と同様に、クラシックはもちろんですが、ジャズやロックの世界でも古典を学びます。
そこを学ばなければ、セッションすらできませんから。
しかし、ロックは学ばなくても感性だけで演奏する事ができます。
チューニングさえあってなくてもよいジャンルもあるのです。
『パンクロック』はその代表格でしょう。
刹那的な感情をその時のパッションだけで表現する音楽なのです。
野放し状態のエネルギーの方向性が定まってくると、やり手も聞き手次第に飽きてしまいますが(笑)
前衛書と言われるものには、そんな作品もありますよね。
パンクの精神は大切にしたいところですが、書においてそれだけでは物足りない、、、。
特殊な感性をむき出しにした作品は、社会から離れたところにしか行き場は無くなるのです。
創り手は、特殊な感性であることを、『型』を隠れ蓑にして隠しながら、社会に寄り添わなければなりません。
なぜなら、芸術は常に社会と結びついていなければならないからです。
今現在を生きている作家の作品は、その作品がどれだけ今現在の社会との繋がりを否定しようが、『今現在』という呪縛から解き放たれることはないのです。
古典をコピーしたとしても、それは今現在行ったことだからです。
2017年の今現在、王羲之やバッハやプレスリーをコピーしても、それはやはり2017年の影響を受けたものなのです。
一人山にこもり、外界と接することをやめた芸術家の作品でさえ、2017年の影響は受けていませんが、過去の自分が生きてきた時代の影響は受けているのですから。
だったら、世界中で起きていることをしっかり受け止めた上で、演奏したり書いたりすればいい。
書の世界もかつてロックと同じような、流行り廃りを繰り返していたら時期があったはずです。
数千年をロック誕生から今日までと同じ年月に縮めれば、その変遷の凄まじさに驚愕することでしょう。
音楽の誕生は文字の誕生よりはやいでしょう。
文字を持たない民族でも、打楽器使った音楽はありますからね。
しかし、衣食住と同じぐらい、音を楽しみたい気持ちと、他者に気持ちを伝えたい気持ちは、人間の本質人間あるのです。
それが言葉を生み、言葉は記録できる文字を生見だしたと思います。
ですから、書にはそこに伝えたいものが必要です。
近未来において、ロボットが人間より上手く書を書く時代が来ることは明白です。
しかしそこにロボットの表現したい心はありません。
さらにロボット工が学進み、心を持ったロボットがその心を表現するために書く事ができるようになれば、私はライバルとしてそのロボットと認めあいたいと思います。
ま、ロボットが私を受け入れてくれるかどうかは別として(笑)
書を上手く書こうとせず、自分の気持ちを込めて書くことに価値を見出していただきたいと思います。
人にはそれぞれの人生があり、それぞれの経験とそこから得た感性や意見がある。
それを解き放つ方法として、書を大いに利用することを私はお勧めます。
心を解放しましょう。
初唐の三大家はさしずめ、モーツァルトやベートーベン、ショパンと言ったところでしょうか。
ロックンロールなら王羲之はチャックベリーかエルビスか
初唐の三大家は、ビートルズ、ビーチボーイズ、ローリングストーンズあたりかな?
その後どんどん枝分かれして、ロックンロールが誕生してから百年も経っていないのに、ロックの系図は物凄い事になっています。
そのエネルギーこそが、若者を夢中にさせる原動力だと思います。
書の世界と同様に、クラシックはもちろんですが、ジャズやロックの世界でも古典を学びます。
そこを学ばなければ、セッションすらできませんから。
しかし、ロックは学ばなくても感性だけで演奏する事ができます。
チューニングさえあってなくてもよいジャンルもあるのです。
『パンクロック』はその代表格でしょう。
刹那的な感情をその時のパッションだけで表現する音楽なのです。
野放し状態のエネルギーの方向性が定まってくると、やり手も聞き手次第に飽きてしまいますが(笑)
前衛書と言われるものには、そんな作品もありますよね。
パンクの精神は大切にしたいところですが、書においてそれだけでは物足りない、、、。
特殊な感性をむき出しにした作品は、社会から離れたところにしか行き場は無くなるのです。
創り手は、特殊な感性であることを、『型』を隠れ蓑にして隠しながら、社会に寄り添わなければなりません。
なぜなら、芸術は常に社会と結びついていなければならないからです。
今現在を生きている作家の作品は、その作品がどれだけ今現在の社会との繋がりを否定しようが、『今現在』という呪縛から解き放たれることはないのです。
古典をコピーしたとしても、それは今現在行ったことだからです。
2017年の今現在、王羲之やバッハやプレスリーをコピーしても、それはやはり2017年の影響を受けたものなのです。
一人山にこもり、外界と接することをやめた芸術家の作品でさえ、2017年の影響は受けていませんが、過去の自分が生きてきた時代の影響は受けているのですから。
だったら、世界中で起きていることをしっかり受け止めた上で、演奏したり書いたりすればいい。
書の世界もかつてロックと同じような、流行り廃りを繰り返していたら時期があったはずです。
数千年をロック誕生から今日までと同じ年月に縮めれば、その変遷の凄まじさに驚愕することでしょう。
音楽の誕生は文字の誕生よりはやいでしょう。
文字を持たない民族でも、打楽器使った音楽はありますからね。
しかし、衣食住と同じぐらい、音を楽しみたい気持ちと、他者に気持ちを伝えたい気持ちは、人間の本質人間あるのです。
それが言葉を生み、言葉は記録できる文字を生見だしたと思います。
ですから、書にはそこに伝えたいものが必要です。
近未来において、ロボットが人間より上手く書を書く時代が来ることは明白です。
しかしそこにロボットの表現したい心はありません。
さらにロボット工が学進み、心を持ったロボットがその心を表現するために書く事ができるようになれば、私はライバルとしてそのロボットと認めあいたいと思います。
ま、ロボットが私を受け入れてくれるかどうかは別として(笑)
書を上手く書こうとせず、自分の気持ちを込めて書くことに価値を見出していただきたいと思います。
人にはそれぞれの人生があり、それぞれの経験とそこから得た感性や意見がある。
それを解き放つ方法として、書を大いに利用することを私はお勧めます。
心を解放しましょう。