オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

弁当だけの人生か・・・

2022-02-18 | 弁当

2/18(金)帰京してから十日目となるが、この間で人に会いに行ったのは四度だけかな?。銀座の金融機関を訪問と、人形町で友人たちと馴染の店で飲み、知人を介して初見の人と会ったのが一昨夕。行動範囲は驚くほど狭い。

新しいビジネスを模索しているが、これが難題で資金と云う大きな壁に阻まれたままで立ち往生している。このままでは胡散霧消する可能性が高い。三月の帰郷までに見通しが立たないと・・・だ。

そんな課題を抱えながらも日々の弁当作りと、在宅の折の夕食作りだけは欠かさない。我が唯一の労働らしきこと故に。

と云う次第で、先週の帰京以来の弁当写真を載せます。毎日毎日、同じようなものばかりで作り手も飽き飽きしているが・・・。ご笑覧ください。

先ずは最新の今朝の弁当を紹介し、以外は順不同に並べます。

          

今朝は、野菜系が多くて里芋煮・ほうれん草&ホタテのバターソテー、カボチャ煮、チンゲン菜と豚肉の炒めもの、自家製ギンダラ粕漬焼きは一切れだけ。定番の卵焼きと云う次第。

       

      

バターライスや焼肉、ジャーマンポテトなどなどと、恥ずかしながら目新しいものは皆無です。

 

 

 

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大星信宏さん、逝去を悼み・・・

2022-02-17 | 弁当

2/17(木)今週の月曜日、外出から戻り〒受けを開けた。DMなどに交じって封書が一通入っていた。裏返すと大星さんの奥様の名が記されていた。それを見たとたんに全てを悟った。

一月十八日の午後、亡くなったとの知らせであった。これまでの厚誼に感謝しますとの内容が丁重に書かれていた。大星さんの古い手帳に「私への感謝の言葉が記されていました」とも・・・。

大星信宏さんに初めてお会いしたのは四十年近くも前に遡る。当時、私は資材局の企画係次席であった。丁度今自分の寒い季節、大星さんは四国支社から隣の係の係長として昭和58年2月に着任した。寒い季節にも関わらず額に汗を浮かべていたことを覚えている。昼休みで殆どの職員は出払っており私が応対した。

失礼ながら、田舎臭いオジサンが来たな・・・、と云うのが第一印象であった。一年前まで私がいた係の係長さんであり、大先輩でもあった。その夕、四国支社の課長をしている先輩から「先輩なので宜しく頼むぞ」との電話を貰った。そんなことや、県は違えど同じ四国出身である。親しみを感じるのは云うまでもない。

単身赴任だったこともあり、居酒屋の付き合いは勿論、盛んだったゴルフが下手な部類の大星さんを誘って我が社宅近くの練習場に休日に通った。練習帰りに拙宅に誘って昼酒をご一緒したことも幾度か・・・。

仕事では直接の関係はなかったが、一年前までいた担当であり、状況は分かっている。経理屋さんらしく緻密ながらも大らかさと芯がある仕事をされていた。私がこんなことを書くのは失礼であるが。

私は一年後に転勤したので同じ課に在籍した期間は実際のところ一年であったが、ゴルフの練習や酒場での交流は大星さんが高知支店社の経理課長で転出するまで続いた。そして入れ違いのように私は元居た職場に係長として戻った。

東京と四国と離れていても交流は続いたが、大星さんは退職後に脳梗塞(?)だかで言葉を失い、右手が不自由になってしまった。なれぬ左手を使って、几帳面な字でハガキを頂くようになってから二十年近くになろうか。

七~八年前になろうか、思い切って帰省の機会に大星さんが居る徳島に寄ることにした。空港に奥様と一緒に出迎えて下さった。言葉が出ないのがもどかしそうであったが、奥様が通訳?をし下さりながら八十八カ所の札所のお寺に案内頂き、お昼をご馳走になってからご自宅まで伺った。良い思い出ができたのである。

その後も育てている花や盆栽の写真を送ってくださっていたのだが・・・。

奥様の手紙によると、一月十八日が誕生日で傘寿を迎えるのを楽しみにしておられたそうだ。それが、一月二日に急に体調が悪くなり入院。検査の結果思いがけない肺がんと診断され、十八日まで持たないと宣告された。が、十八日の午前に親族が見舞いに行ってハッピーバースディを歌うとVサインをしたそうです。午後になって急変して亡くなられたとのことである。

大先輩でもあり、兄貴のような存在でもあった大星さんである。故人の冥福を祈るばかり・・・。

そういえば、上野時代に一緒だった山崎長次郎さんが亡くなったとJUNちゃんが言っていた。合掌。

 

弁当の写真は、今週分をまとめて明日掲載することにします。

 

 

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帰京・・・

2022-02-09 | 弁当

2/9(水)今日の午後便で一週間ぶりに帰京。先週の木曜日、昼前の便で帰郷してから従兄の通夜、翌日の葬儀に参列してお別れをした。火葬場はコロナの影響で十人だけに絞られたが同行した。

従兄は亡くなる三日前に倒れて救急車で運ばれて以来、意識はなかったそうだ。私が最後に言葉を交わしたのは一月の初旬、四日に帰郷したので多分六日頃であったはず。手土産を持って訪れると「もうなんちゃ喰えんようになった」と、ベットの中から弱弱しく応じたのが最後だった。

ここ数年、顔を合すと「もういかん、しんどうて仕事はなんちゃようせん」が合言葉のようだったが、田圃を回って水の調整、トラクターに乗って代掻きをしていた。数年来、酸素ボンベを引いての日々ながら電動車椅子であちこちしていたが、徐々に弱っていた。

かつてはタバコを随分と吸っていたが、肺が悪くなって禁煙。挙句に酸素ボンベを放せなくなった。私に「マサノリ、タバコは吸われんぞ。止めぇや」なんて、言うようになっていた。私は笑って受け流しだが・・・。

つい三月前まで、一緒にカニ篭を仕掛けていたのだが・・・。老いと衰え、そして命が消える。自然と云えば自然であり理であろう。

この狭い田舎に生まれて、一生をその中に過ごして、炭を焼き、木を育て、農を営みながら大宇宙に通じる生を生きて大往生をした。そう思うのである。チャラチャラと都会の巷を彷徨う我に比べればなんと見事、美しい人生でなかろうか・・・。未だ温もりのある骨を拾いながらそんな思いが去来した。

                      

 

郷里での短いを滞在であるが、抗原検査を自分でやり陰性を確認した。羽田を発った日は富士山が近くに。帰りは連なる綿雲の彼方に薄く小さく望むだけであった。

                    

 

  

 

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三回目のワクチン・・・

2022-02-01 | 弁当

2/1(火)一昨日の日曜日、三回目のコロナワクチン接種を済ませた。前の二回は大手町の大規模接種会場だったが、今回は目黒区の接種会場で済ませた。時間指定でもあり、会場規模は小さいながらもスムースで待ち時間は殆どなかった。

問題は、中目黒駅から会場に向かうすがら、眼鏡レンズを拭いてこなかったことを思い出して、後ろポケットから抜いたハンカチで眼鏡のレンズを拭いた・・・。なんと、右側の丸いレンズフレームが折れたのだ!。アッと驚くも後の祭りとはこのこと。片目のジャックか、はたまた独眼竜政宗か・・・。大変不便な思いをしてのワクチン接種となった!。なんともお粗末な次第。

 

そんなアクシデントはあったが、接種後の発熱も悪寒も痛みもなく、前の二回と同様になんの後遺症もなし。鈍感なのか?歳の所為?とか言われそうだが、鉄の男だからねぇ~。ワクチンの必要もない体だが、家人の仕事のこともあり、致し方なしに世間や大衆に迎合しての接種と云うところだ。

                       

夜明け前、田舎の従姉から電話で起こされた。時計を見ると午前四時半だった。従姉の兄になる従兄が亡くなったとの知らせだった。数日前に救急車で運ばれて、ICUに入っていた。数日の命とのことだったので覚悟はしていた。

七人兄弟の末っ子だった母は、少女時代に長兄の長男になる今朝方亡くなった従兄の子守をさせられたそうだ。近所でもあり、一族では母が最後まで生きたこともあり母の実家とは格別な関係であった。

「武本幸平」享年九十歳。明後日が通夜、翌日が告別式になる。抗体検査を簡易ながらした上で、葬儀に行ってきます。そんな次第で、明後日から一週間ばかり東京を留守にします。

 

この一週間ばかりの弁当、代り映えしないものばかりで面白くもないが掲載します。内容は省略。

                  

             

 

 

 

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