オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

大星信宏さん、逝去を悼み・・・

2022-02-17 | 弁当

2/17(木)今週の月曜日、外出から戻り〒受けを開けた。DMなどに交じって封書が一通入っていた。裏返すと大星さんの奥様の名が記されていた。それを見たとたんに全てを悟った。

一月十八日の午後、亡くなったとの知らせであった。これまでの厚誼に感謝しますとの内容が丁重に書かれていた。大星さんの古い手帳に「私への感謝の言葉が記されていました」とも・・・。

大星信宏さんに初めてお会いしたのは四十年近くも前に遡る。当時、私は資材局の企画係次席であった。丁度今自分の寒い季節、大星さんは四国支社から隣の係の係長として昭和58年2月に着任した。寒い季節にも関わらず額に汗を浮かべていたことを覚えている。昼休みで殆どの職員は出払っており私が応対した。

失礼ながら、田舎臭いオジサンが来たな・・・、と云うのが第一印象であった。一年前まで私がいた係の係長さんであり、大先輩でもあった。その夕、四国支社の課長をしている先輩から「先輩なので宜しく頼むぞ」との電話を貰った。そんなことや、県は違えど同じ四国出身である。親しみを感じるのは云うまでもない。

単身赴任だったこともあり、居酒屋の付き合いは勿論、盛んだったゴルフが下手な部類の大星さんを誘って我が社宅近くの練習場に休日に通った。練習帰りに拙宅に誘って昼酒をご一緒したことも幾度か・・・。

仕事では直接の関係はなかったが、一年前までいた担当であり、状況は分かっている。経理屋さんらしく緻密ながらも大らかさと芯がある仕事をされていた。私がこんなことを書くのは失礼であるが。

私は一年後に転勤したので同じ課に在籍した期間は実際のところ一年であったが、ゴルフの練習や酒場での交流は大星さんが高知支店社の経理課長で転出するまで続いた。そして入れ違いのように私は元居た職場に係長として戻った。

東京と四国と離れていても交流は続いたが、大星さんは退職後に脳梗塞(?)だかで言葉を失い、右手が不自由になってしまった。なれぬ左手を使って、几帳面な字でハガキを頂くようになってから二十年近くになろうか。

七~八年前になろうか、思い切って帰省の機会に大星さんが居る徳島に寄ることにした。空港に奥様と一緒に出迎えて下さった。言葉が出ないのがもどかしそうであったが、奥様が通訳?をし下さりながら八十八カ所の札所のお寺に案内頂き、お昼をご馳走になってからご自宅まで伺った。良い思い出ができたのである。

その後も育てている花や盆栽の写真を送ってくださっていたのだが・・・。

奥様の手紙によると、一月十八日が誕生日で傘寿を迎えるのを楽しみにしておられたそうだ。それが、一月二日に急に体調が悪くなり入院。検査の結果思いがけない肺がんと診断され、十八日まで持たないと宣告された。が、十八日の午前に親族が見舞いに行ってハッピーバースディを歌うとVサインをしたそうです。午後になって急変して亡くなられたとのことである。

大先輩でもあり、兄貴のような存在でもあった大星さんである。故人の冥福を祈るばかり・・・。

そういえば、上野時代に一緒だった山崎長次郎さんが亡くなったとJUNちゃんが言っていた。合掌。

 

弁当の写真は、今週分をまとめて明日掲載することにします。

 

 

コメント
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