オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

穏やかな一日・・・

2019-03-31 | Weblog

3/31(日) 年度末と云えども、素浪人にとっては係わりのない一日。穏やかな一日となった。暇なので、午後から散歩がてらに水辺の遊びに出掛けた。

                  

平和島に着いたのは二時過ぎで、あまりの暖かさに驚いたが、その暖かな気分も二レースが終わるまでの間であった。束の間の暖かい気分も、続いた三レースで冷え込んでしまった。最終レースがスタートする間際から雨粒がポツリポツリと落ち始めた。

              

この雨粒が干天の慈雨となるか?涙雨となるか?そんな気持ちでレースのスタートを見守ったのであるが・・・・。非情な結末を迎えることになったのである!。まあ~こんなものさと、我が胸に言い聞かせて無料バスの列に並んだのであった。

 

トータルでは若干のプラスだが、逃がした魚は大きかったと反省をするのは常だが・・・・。反省ばかりの人生、ダメOYAJIである。それながら楽しく遊ぶ、我が人生である!。

 

 — 思い出酒場(3)ー

今回の思い出酒場は、八重洲北口の「グリン」と云うスナックである。前二店と異なり、店は未だ営業をしているはず。三代目となる息子のJUNちゃんが継いでいると思うが。

「グリン」初めて行ったのは、本社勤務となってから一年ほど経った頃か。先輩に連れられて行ったのが始まりである。八重洲の北口を渡って、一つ目の路地を右に折れて直ぐ、寿司屋の二階で板張りの階段を上がった。床も板張りで、酔って床を強く打つと階下の寿司店からクレームが来た。

何処にもあるようなスナックながら店の歴史は古く、当時のママは二代目の喜美子さんだった。カラオケはカセットデッキを差し込み歌集を見て歌うシステム。そんな時代であった。カラオケを歌うようになったのはこの頃からであろうか・・・。

妙に店の雰囲気が気に入り、地方からのお客さんがあると二次会で案内した。そんなことを繰り返すうちに、一人でも飲みに行くようになっていた。そんな中で、常連のお客さんとも親しくなり話をするようになっていた。皆さん落ち着いた大人であった。

ママの友人で渋い大人の中村さん、私と同じ会社であることが判明する岩淵さん、大手町の某新聞社の営業という佐藤さん達と仲よくなり話が弾んだが、私はママや皆より十五歳以上も年若であったが・・・。

「グリン」がはねたと後、喜美子ママの妹さんがご亭主とやっている「トムの店」、赤坂山王下の乃木坂通りの入り口にあったカウンターだけの細長い店にも皆でよく向かった。帰りは当然タクシーになるのだが、大森に住まいがある喜美子ママを送り、環七を北上して都立大学の社宅まで帰ったことは数えきれない。

ママや皆からすれば小僧のような私であったろうが、分け隔てなく大人として仲間にしてくれた。

いつしか、喜美子ママ、トムの恵美子ママ、中村さん、岩淵さん、佐藤さんと私の六人で会を作ろうとなり、竹林の七賢人を捩り「竹林の六賢人」と云う会の名称にした。要は六人で示し合わせて飲み行く会であったが。幹事役は若い私と云うことになっていた。

「グリン」で飲む酒は楽しかった。作法をわきまえた大人たちに交じって、少しは大人になったような・・・。何時しか本社から転勤する時期になり、当時、東京通信局の某部調査役だった岩淵さんから「どこが希望なの?」と訊かれ、応えたのは『岩淵さんとこの、管理係長ポストが空くでしょう。そこがいいですね』だった。

「そこは無理だね、もう入る人も決まってるようだし、ラインで固まってるから」だった。他からも聞いていたが、そのことは承知の上で応えたのだが・・・。岩淵さんは人事担当じゃないので、それ以上のことは言わなかった。

処が、人事発令があり私はそのポストに収まった。当時の上司や、その前の上司たちが動いてくれていた。かくして、岩淵さんと同じ職場に勤務することになった。「グリン」を媒介した不思議なご縁である。

私が六本木勤務から日比谷勤務になり、暫くして喜美子ママが引退した。お嬢ちゃんが暫くママの後を継ぎ、そして息子のJUNちゃんが後を取ったが、我らの足が遠のいた。喜美子さんが居ない店は、僕らのグリンでなくなった、これは致し方ないことだが。

そして、私が横須賀研究所で勤務していたある日、喜美子さんが亡くなったと岩淵さんから連絡を貰った。二人で通夜に行き、その帰りに大森駅まで偲び酒を飲んだ。思い返さば、葬儀場は平和島であったはずだ。私が水辺で遊ぶ時に前を通る葬祭場であったろ。今になってそれを思い出すとは・・・。

岩淵さんが亡くなられて四年が経つか。その三月ほど前に「奈加野」で一杯やろうと声を掛けれていた。果たせぬままに、岩淵清さんも逝かれた。

「 酒場」で出会い、その酒の作法をみて親しくなる。人それぞれながら、出会う人、出会う人、皆さんいい人ばかりである。酒場のマスターも、ママさんも心に残る人ばかり。私にとって「酒場」は人生の道場と云って過言ではない。そんな気がしてならない。

この「思い出酒場」は、今は無き店や人との思いでを記すものです。現在進行形の店や、人については触れません。

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目黒川&武桜会2019㏌東京

2019-03-31 | Weblog

3/31(日) 年度末の日曜日を迎えたが、なんのお思いも湧かなくなった。かつては、職場を去る人たちのこと、そして翌日の新年度からスタートする若者たちに思いをはせたものだが・・・。一区切りをつけた後の生き方とは、こんなものであろうか?。

29日に帰京し、夕方から目黒川の桜を愛でるべく中目黒に行った。駅前から通りを渡った川沿いまで人出でごった返していた。例年の光景が広がる中を、高架の東急線とホームを見上げる大衆酒場「大樽」でUSUI老に合流。二杯ほど飲んでから狭い川沿いを歩きながら観桜となったが・・・。

      

小さな川を挟んだ両側の道は四メートル幅か。両岸からトンネルのように川を覆う桜はライトアップされて白く浮かんでいるが・・・人が多い、人の波、渦の中をノロノロ歩む。未だ7~8分咲か?。100mほど歩いて橋を渡って駅へと戻った。これで、今年もここの花見をしたと云うことだ。

                  

 そして人形町へと向かった。「高松」に席を確保してあったので、ここでHOYA兄いを迎えて飲む。満席である。さもあらん、週末・年度末の金曜日である。そして「ローカーボ」に移動したらここも混んでいた。正式には今宵で店仕舞いすることになっている。

『マスターが店を開けないなら、転居までの何日か俺がやろうか?』なんてことを言いながら常連の連中を相手に飲むうち・・・酔いが深くなる。「ちょっぷく」に移動するとこの広い店が満席!。「うまし」へと向かい、先着のHOYA&USUIの両御大に合流。界隈の行きつけの店はどこもかしこも満員御礼であった。遅い時間となり再び「ちょっぷく」に寄りなんとか席を確保した。帰京した夜は、そんな週末であった。

 

そして翌日となる昨夕、故・古賀武夫さんの生誕を祝う会を本家の佐賀・地球市民の会と連動した「武桜会2019in東京」が渋谷・道玄坂にある某社であった。古賀武夫から英語・空手に加えて人生とはなんぞやと、教育された弟子たちの企画による。

集まったのは古賀さんの次男YUDAI君夫妻、某省庁の役人DAISUKEとその同期が三人と、七人と少数ながら先ずは始めることが大事だ。佐賀と繋いだ映像を見ながら勝手放題であった。因みに某社とは(株)ペライチでYAMASHITA君が代表の気鋭のITベンチャー企業です。

                  

九時半、会を終えて外に出ると雨になっていた。

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

帰京に備え・・・

2019-03-28 | Weblog

3/28(木)明日は帰京となる。十日余の郷里での滞在であったが、過ぎてしまえはあっというまの期間である。今回の帰省で予定したことは概ねできた。次は何時の帰省になるか、珍しく予定は立ててない。帰京すると新たな動きがありそうだし、そう云う点では先見の明ありか?。

帰京すれば、その夕には目黒川で花見。土曜日は故古賀武夫の生誕祭がある。月曜日は午後からTUGAWA&HANAOKAさんと、恒例になった小金井公園での花見が待っている。

明日の帰京に備えて、最後の畑遊びでミカンの収穫と焼芋をした。焼芋は三度目になるので、上々の焼け具合であった。谷川に従弟が植えた葉ワサビを採取して夕食の摘みにした。昨晩、安芸市の白川すし店でこれが摘みに出たので作ることにした次第。お酢を入れたものと、擂りごまで和えたものの二種を作ってみた。

                

 洗濯物を仕舞い、夕食の準備をしたが、今夜のメインは「スキ焼」である。隣近所の従姉と従弟が来るので最後の晩餐らしく、土佐和牛の肉を昨日に買っておいた。

                

晩餐のメニューは、葉ワサビが二種、イカ&ネギの酢味噌和え、イカと芋の天ぷら、茄子&椎茸煮、茄子の味噌炒め、自然薯汁にサラダなどであった。今回の帰郷で完全に体重が増加したようだ・・・。

                

 

川沿いの桜が漸く四分咲となった。着実に春は深まり、季節は巡ってゆく・・・。

                  

 

 — 思い出酒場(2)—

その店は「ココ」といい、高円寺駅北口の路地にあった小さなスナック(あの当時、スナックと言ったか?)で、十人も入れないような店であった。

三島から東京に移り、東十条の三畳間のアパートから中野の四畳半で暮らした頃であったはずだが・・・。「ココ」に初めて行ったのは、三年生か四年生になっていたのか記憶が定かでない。

アルバイトだけは数多くやった、どれも長続きしなかったがそれはそれでよかったと思う。下手に長続きするとその業界に沈殿したであろうから。土方、清掃、バーテン、映画やTVの仕出しと呼ばれるその他大勢役などを転々としていたのだから。

四畳半の家賃が6~7千円でなかったか?。見栄を張って仕送りは1万5千円でいいと言ったが、足りない分はバイトだった。色んな世界を知りたいという興味の方が強かったと思う。

学校の方は、学園紛争で行く必要もなかったし、学内に入れない期間が続いていた時代のことである。

仲間が高円寺のアパートに住んでおり、その縁から高円寺で遊ぶことが多かった。ある日、仲間と高円寺のスナックに遊んだ。石田あゆみの歌う「ブルーライト横浜」が流行っていた頃である。

初めて入った店にいた姉さんから「今度、新しい店に変わるから、遊びにきてね」と言われた。その移った店が「ココ」であった。なぜか、行かなくちゃ悪いような気がして行ったのだが。その姉さんは小柄で丸ぽちゃで何時も着物であった。名前は記憶から失せたが。

「ココ」に、二~三度顔出しするうちに、その姉さんは店を辞めて何処ぞへと居なくなった。そんなこととは関係なく、小さな店、落ち着いたママの大人の雰囲気が好きで時々顔を出した。そんな中で、バーテン経験があるということからバイトを頼まれてカウンターに入るようになった。

ママさん一人に、ど素人のバーテン。そんな小さな店だった。お客さんは熟年層が多く、酔っ払いの映画か演劇畑らしい人が印象的であった。ママの素性も知らないし、若僧には感心もなかった。ただ、大柄でたおやかな大人の雰囲気が好きだった。

お客さんの数も、支払額も大したことはないながら、勤務時間を超過すると残業代が入っていたのに驚いた。

こうして当時のことを思い返すと、多分四年生になっていたろう。下宿は中野駅ながら、住所は南高円寺になる安達さんの処に下宿してたはずだ。就職後も二年ほど安達さんの処で世話になっていたから・・・。と言うのも、就職してからも「ココ」には顔だししていたから。中野駅から一駅先の高円寺まで乗り越して。

ただ、「ココ」が何時店を閉めたのか覚えていない。が、就職してから短い期間であったろう。それからママはサンフランシスコに住み、そこから絵葉書を貰った。「こちらはレイニーシーズンです」とあったのを覚えている。

ママに再会したのは、結婚を前にしてママが勤めているという品川駅前のホテルの花屋を訪ね、報告した時であった。そして娘さんが居るというハワイに住み、その後、日本に戻ったことまでは分かっているが・・・、とそこから音信が途絶えた。

店を閉めた後、居所が変わるたびに絵ハガキが届き、心強くなるような言葉が何時も添えられていた。そんな心優しい大人の女性であった。どんな人生を送られてきたのか、山や谷を乗り越えてこられたのか知らない。何時も穏やかな方であった。

「愛媛の穏やかな北条の海が好きです」と、ある時のハガキには書かれていた。ママさんの名は、吉田夏子さんと云った。生まれは、福井・大野市と聞いたことがある。家人が福井生まれと伝えた時のことである。ご存命であればいいが・・・。

高円寺駅北口の路地にあった小さな店「ココ」。学生から社会人へ、結婚と移り行く中で出会った、大人と云う存在を知った貴重なページである。

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竹林彷徨えど・・・

2019-03-28 | Weblog

3/28(木) 目覚めると夜も明けぬ四時半であった。昨夜、久々に安芸市内のすし店「白川」で一杯やり、二軒目は店名も覚えていないスナックで濃~いハイボールを飲んでカラオケに興じた。零時前に帰宅してすぐに布団に入ったが、酔いが覚めての目覚めであろう。

地元の〒局長と一緒だったが、すし店のカウンターで隣合わせた客はその人の従兄だった。更に、同伴していた方が私と同じ地域の出身と判明したのだ。我が家や親戚のことなどよく知っていた。偶然に居合わせたとは云え、田舎は狭いねぇ~。そんなことを実感する夜となった。

               

暖い日が続き、橋の袂の桜も咲き始めた。そんな陽気に誘われたわけでもないが筍を掘りに行き、竹林を彷徨った。彷徨えど目当ての筍の姿を見つけることができなかった。発見したのは、なんと鹿&猪の罠であった。従弟が仕掛けたものであろう。

          

僅かに植えた庭のチューリップも咲き揃い、数少ない花も咲いて春の到来を実感する。菜の花の先に見える山里も春そのものである。

           

 

そんなノンビリトとした日々であるが、明日は帰京だ。今日はネーブルと清美を収穫し、最後の焚火をと思っているが天気が思わしくないようだ。

不動産屋のマッチャンから電話があり人形町の申し込みを入れてあった店舗が決まりそうだとのこと。

店の方は条件が厳しいので半ば諦めていたのだが、申し込みがあった各社も降りたようだ。帰京してから契約内容のチェックや、家主との面談があるようだが店を開く確率が高まってきた。我が人生、最後の遊び場となろうか・・・・。

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

畑で遊ぶ・・・

2019-03-26 | Weblog

3/26(火) ここ数日とはうって変り暖かい一日となった。今日は昼まで家の中でゆっくりと過ごし、午後から畑に行った。春先の肥料を入れるのが目的だが、畑に出れば焚火、焚火をすれば焼き芋となるのが常である。

               

我が田舎ではイクリと呼ぶ、ソルダムの木が二本だけ畑にあるが、真っ白な花を咲かせている。畑で今、咲く花はこの木だけだ。小さな桃の木があるが花は少しだけ。梅は終わり、暖地サクランボの花は数日で終わった。五月になればミカンの白い花が咲くであろう。

               

有機肥料をミカンの木々に撒いていると、大した労働でもないのに汗が・・・。そんな中で焚火を絶やすことなく燃やして、焼芋をするのであった。

夕刻が近づく五時前に太陽が西の山際に消えると急に涼しさを感じた。焼きあがった芋を持って、妹の家に届けた。帰宅してからは夕食の準備に入った。昨日のこの時間には食事の最中であったが、今日はゆっくりである。

従姉が蕗の煮物を届けてくれた。昼間に貰ったネギが沢山あるので、これを使うために残っていた鶏肉と「ネギ&鶏スキ焼」を作る。サラダを用意し、竹輪&カマボコを切り、作り置いたタコ&胡瓜の酢の物に筍煮などが並び、一人飯にしては賑やかなテーブル上になっていた。汁は、自然薯の団子を入れて旨かった。 

             

 

勿論、全てを食べきることはできないし食べはしない。それでも半分近くを食したかもしれない。ビールを飲みながらなので、お腹がいっぱい、満腹だね!。腹も身のうち、もう少し抑えなくちゃいけない。

斯様なことで、今日も一日を終えるのである。健康的かもしれない日々だが、あまり健康的すぎるのはかえって不健康なような気もするが・・・?。

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

見送りて・・・

2019-03-25 | Weblog

3/25(月) 東京からの客人たちを高知空港に見送りて、夕方前に帰宅した。またすぐに顔を合わすとは云え、見送りの後は一抹の寂しさを感じる。帰宅してから、運転中に飲めなかったビールが呼んでいた。それに小腹も空いていたのだ。

未だ五時であったが、手早く胡瓜とタコの酢物に豚バラのキャベツ炒め、ウルメを焼き、竹輪を切った。これで早々と夕餉となった。午後から曇り空になった事もあり、寒々とした独り飯ながらビールを飲めばこの世はパラダイス?さ!。

昨日の朝、実家を出て安芸市の岩崎弥太郎の生家に案内し、そこから桂浜へ。そして高知市内の日曜市、お城、ひろめ市場と回った。昨秋に来てくれた友人とは逆にルートを廻ったことになる。

           

市内のホテルにチェックイン後は、酒場にて一杯である。が、その前にすぐそばの公園で開かれていた「ラーメン博」を見つけてラーメンとビールを楽しんだ。USUI老は昼酒で疲れたと、部屋に籠ってしまった。酒場の方は、年若の友人と思っているNISHIUCHI君が来てくれて彼の知ってる店に案内を頂いた。

             

余談であるが、N君は29日に公示となる県会議員選挙に出馬する。その忙しい中を顔を出してくれたのであった。飲みに出る前、二人でお茶をして少し話を聞いた。少数の激戦となる様相だとか・・・。吉報を待つばかりである。

居酒屋「漁火」で飲み、二軒目はカラオケのあるスナックBAR「竜宮城」で先客に交じって歌合戦となった。ホテルから門限23時と言われたような気がして、23時に五分前にお開きにした。

                

そして今朝、市内のアケード街を散策してから日本三大がっかり橋と言われる「はりまや橋」で写真を撮った。客人たちはお土産の物色に忙し気であった。昼に空港に送り届けて、さよなら!サヨナラ!をした次第。

                  

観光や畑での焼芋など、三泊四日の短い日程の中で走り廻って疲れたであろうが、楽しんで頂けたら幸いである。

期待していた「桜」は未だ二分~四分咲と見ごろになるまでは何日かを要す。満開の土佐路を堪能して欲しかったけどねぇ~。私の花見も、週末に帰京してからになるな・・・・。

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジビエ

2019-03-23 | Weblog

 

 

3/23(土)朝晩が涼しさと云うより肌寒い。そんな午前中に室戸岬と向かった。弘法大師が修行された岬から灯台と最御崎寺と周り、三時ごろに戻り畑で焚火をし焼芋をして過ごした。

  

畑で焼き芋ができるまでビールを飲む。出来た焼芋はいい味であった。

夕食はジビエと皿鉢料理、鹿の刺身にカツオの叩き。アユとアメゴの姿寿司を作る。

              

明日は桂浜から日曜市、城を案内します。

 

 

 

 

 

                

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日も雨が・・・

2019-03-21 | Weblog

3/21(木)19日につづいて今日も雨が・・・深夜の一時ごろから降り出して午後の三時過ぎになって止んだ。昼前に買い物に出かけ、その後は暇なので夕食用の胡瓜とミョウガの酢の物、ホウレン草の胡麻和え、アメゴの姿寿司を作った。

雨が上がったので、迷った末に五時前になってタケノコを掘りに向かった。川向こうにある親戚の竹林だが、どれだけ出ているか?であった。明日から来客があるので、田舎のジビエでもてなす予定なのだ。タケノコがあれば「タケノコ飯」と考えたが・・・。

鹿止めの柵を越えて竹林に入ったが、ぽつりぽつりと雨粒が落ちてくる中を、枯れ笹の下を探すが・・・。未だ早いと諦めかけた時に、長靴の底に堅いものが当たった。掘ってみると、なんと親指ほどのタケノコだった。これでお終いかと帰えりながらも丹念に見て歩んだ・・・と、黒っぽいものが猪口っと出ていた。掘ってみると、こぶしくらいの筍がでてきた。これでお終い!。

                

夕食は盛沢山、「アメゴの姿寿司」「アメゴのフライ」「セリと茄子の天ぷら」に「タケノコ煮(冷凍物)」「焼肉」に酢の物や和え物など。従弟のKATUOを前夜に続いて呼んだ次第。

              

アメゴは私の要望で、昨日の午後にKATUOが釣ってきてくれた。そのアメゴを使った料理なので、彼にも試食をさせたかったのだ。

           

昨日は上天気だったので、庭の草取りを午前中に、午後からはミカン畑の草刈ができた。

             

畑の暖地サクランボが花を咲かせていた。実になればヒヨドリの襲撃を受けるだろうが・・・。収穫前のミカンは「ネーブル」「清美」「甘夏」、「小夏」の収穫は五月に入ってからか・・・。

            

 

明日から客人が三人みえる。食事は地元のジビエで行くつもりだ。猪・鹿・イタドリ・自然薯にアメゴの予定。これに筍飯で締めたい。楽しんで下さればいいのだが・・・・。

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日も雨が・・・

2019-03-21 | Weblog

3/21(木)19日につづいて今日も雨が・・・深夜の一時ごろから降り出して午後の三時過ぎになって止んだ。昼前に買い物に出かけ、その後は暇なので夕食用の胡瓜とミョウガの酢の物、ホウレン草の胡麻和え、アメゴの姿寿司を作った。

雨が上がったので、迷った末に五時前になってタケノコを掘りに向かった。川向こうにある親戚の竹林だが、どれだけ出ているか?であった。明日から来客があるので、田舎のジビエでもてなす予定なのだ。タケノコがあれば「タケノコ飯」と考えたが・・・。

鹿止めの柵を越えて竹林に入ったが、ぽつりぽつりと雨粒が落ちてくる中を、枯れ笹の下を探すが・・・。未だ早いと諦めかけた時に、長靴の底に堅いものが当たった。掘ってみると、なんと親指ほどのタケノコだった。これでお終いかと帰えりながらも丹念に見て歩んだ・・・と、黒っぽいものが猪口っと出ていた。掘ってみると、こぶしくらいの筍がでてきた。これでお終い!。

                

夕食は盛沢山、「アメゴの姿寿司」「アメゴのフライ」「セリと茄子の天ぷら」に「タケノコ煮(冷凍物)」「焼肉」に酢の物や和え物など。従弟のKATUOを前夜に続いて呼んだ次第。

              

アメゴは私の要望で、昨日の午後にKATUOが釣ってきてくれた。そのアメゴを使った料理なので、彼にも試食をさせたかったのだ。

           

昨日は上天気だったので、庭の草取りを午前中に、午後からはミカン畑の草刈ができた。

             

畑の暖地サクランボが花を咲かせていた。実になればヒヨドリの襲撃を受けるだろうが・・・。収穫前のミカンは「ネーブル」「清美」「甘夏」、「小夏」の収穫は五月に入ってからか・・・。

            

 

明日から客人が三人みえる。食事は地元のジビエで行くつもりだ。猪・鹿・イタドリ・自然薯にアメゴの予定。これに筍飯で締めたい。楽しんで下さればいいのだが・・・・。

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日も雨が・・・

2019-03-21 | Weblog

3/21(木)19日につづいて今日も雨が・・・深夜の一時ごろから降り出して午後の三時過ぎになって止んだ。昼前に買い物に出かけ、その後は暇なので夕食用の胡瓜とミョウガの酢の物、ホウレン草の胡麻和え、アメゴの姿寿司を作った。

雨が上がったので、迷った末に五時前になってタケノコを掘りに向かった。川向こうにある親戚の竹林だが、どれだけ出ているか?であった。明日から来客があるので、田舎のジビエでもてなす予定なのだ。タケノコがあれば「タケノコ飯」と考えたが・・・。

鹿止めの柵を越えて竹林に入ったが、ぽつりぽつりと雨粒が落ちてくる中を、枯れ笹の下を探すが・・・。未だ早いと諦めかけた時に、長靴の底に堅いものが当たった。掘ってみると、なんと親指ほどのタケノコだった。これでお終いかと帰えりながらも丹念に見て歩んだ・・・と、黒っぽいものが猪口っと出ていた。掘ってみると、こぶしくらいの筍がでてきた。これでお終い!。

夕食は盛沢山、「アメゴの姿寿司」「アメゴのフライ」「セリと茄子の天ぷら」に「タケノコ煮(冷凍物)」「焼肉」に酢の物や和え物など。従弟のKATUOを前夜に続いて呼んだ次第。

アメゴは私の要望で、昨日の午後にKATUOが釣ってきてくれた。そのアメゴを使った料理なので、彼にも試食をさせたかったのだ。

 

昨日は上天気だったので、庭の草取りを午前中に、午後からはミカン畑の草刈ができた。畑の暖地サクランボが花を咲かせていた。実になればヒヨドリの襲撃を受けるだろうが・・・。収穫前のミカンは「ネーブル」「清美」「甘夏」、「小夏」の収穫は五月に入ってからか・・・。

 

明日から客人が三人みえる。食事は地元のジビエで行くつもりだ。猪・鹿・イタドリ・自然薯にアメゴの予定。これに筍飯で締めたい。楽しんで下さればいいのだが・・・・。

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする