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オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

三次~尾道へ

2015-10-29 | Weblog

10/29(木) 昨日の午前、広島空港から三次市布野の「中村憲吉 記念文芸館」に向かった。中村憲吉は、大正から昭和初期のアララギ派の歌人であったそうな。そうなとは、頼りない言い方だが、不明にしてこれまで知らなかった。

今回の旅は、この「中村憲吉 文芸館」の創立に尽力をされ、現在は非常勤の館長を務めるN社のOB・MASUIさんの取材であった。現役退職後の暮らし、そして文芸館建設に至る活動、その生き方についてインタビューし、紹介をすると云う企画である。

Mさんが、情熱を燃やして取り組んだ歌人、中村憲吉についても当然触れることとなる。この布野村(現在は三次市と合併)の素封家に生まれた憲吉は、旧制七高時代(鹿児島)に短歌の世界に入る。そしてアララギ派の歌人伊藤左千夫に師事し、土屋文明・斉藤茂吉・島木赤彦らと交わる。

中村憲吉全集・四巻が岩波文庫から発刊されているが、恥ずかしながら未だ手にしていない。憲吉は昭和九年、転地療養先の尾道(千光寺のすぐ下に旧居跡が残されている)で、四十六歳の生涯を閉じている。

                     

そんな次第で、生地の布野、尾道とその足跡も訪ねようとなったのである。生家は地主・山林王・醸造元であったそうで、記念館として残された旧居は立派な佇まいを残していた。遺族から寄贈された当時は荒れ果てていたそうだが、関係者の尽力により歴史を・往時を偲ぶことが出来る。

Mさんに記念館を案内頂き、丁重な説明を受けた。それだけでも、Mさんがふる里・布野を、憲吉のことを大切にされていることが分った。取材後、取材チームは尾道へと向かった。ホテルに着いた時は、夜の帳が下り、街は灯りに輝きはじめていた。

 

取り急ぎ、今日はここまで。明日は「白骨温泉」へと一泊のバス旅行だ。またしても酒か・・・・。

 

 

 

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出汁巻卵

2015-10-27 | Weblog

10/27(火) 木枯し一番が吹いた日曜日のことだ。TVを点けていると、ミシェランで☆二つがついたと云う、和食の総料理長が話していたこと「出汁巻卵のポイントは、水を加える」であった。水を加えることで、ふんわりとした卵焼きになると言う。確かに卵焼きは時間が経つと固くなる。

個人的には「出汁巻卵」っていうやつは好きじゃないが、卵焼きが時間が経っても美味しく食べられるなら試してみる価値はある。そこで、今朝は出汁巻卵の登場となった次第。その結果は、確かにふわりと仕上がった。加える水の量に注意が要すが、テレビを参考にした。

昨夜は、七時過ぎに「ローカーボ」でハイボールを二杯。それから「ちょっぷく」に顔を出してワインであった。「ちょっぷく」のYAMAちゃんが、チケット販売機の扉を開けて封筒(銀行の札入れ袋)を持ってきた。それには「菊花賞当選」と書いて、細かい数字までの金額が記されていた。そうなんだよ、日曜日の競馬の配当だった。

『こんな小銭を貰っても生姜ねえな…』と、一応は強がりを言ってみたのだが。土曜日の検討会の成果が出たと云うことだ。と云うことで、取って置きのチケット、ゴールドカード(五枚分)やレッドカード(二枚分)を惜しげもなく振舞った。YAMAちゃんに買って貰ったので、そのお返しをチケットで返したと云う処だ。

                         

後から、飲み仲間のマッチャンがやってきた。仲良く二人並んでの懇談だ。まだ時間が早く客の姿が在る、演歌タイムとはならなかった。どうも調子が出ない、早々と引き上げることにした。マッチャンも、珍しく柏の自宅に帰ると一緒に店を後にしたのであった。帰宅は22時過ぎと早い・・・・。

その所為か、今朝の目覚めは五時前と、外はまだ暗い時間であった。それでも、台所に入ったのは5時15分。随分と早い厨房入りである。

昨夜の残り飯が茶碗二杯半ぐらいあったので、炒飯かチキンライスにすることにした。どっちにするか、悩みながらタマネギ・人参・ピーマンを刻む。

菜の方は、掻揚げか天麩羅の揚げ物を考えていた。処が、天麩羅鍋の古油が固めたままで残ったいやがった。これで気分喪失、揚げ物は取り止めに(それでも、鍋の後始末だけはやりましたよ)。

結局、豚ばら肉と大根・人参・オクラ・シシトウの中華味の煮物に。もう一品は、豚肩肉の生姜焼きである。焼き物は、ギンダラと鮭の粕漬けを一切れづつ。そして、冒頭に記した「出汁巻卵」となった。

                       

残り飯の炒めご飯は、チキンライスとなった次第。チキンライスも菜も、全部仕上がっても時間の余裕あり。そりゃそうだ、五時過ぎから台所で遊んでいる。白飯も炊くことにしたら、家人は白飯が良いときやがった・・・・。

                    

それやそうと、出汁巻卵の味見を忘れていたナ・・・・、今になって気付くとは?跳んだバカ野郎だぜ!

 

明日は、朝の便で広島空港に。そこから、レンタカーで三次市に向かう。其処で、情報誌最後の取材。夜は尾道市に入り、翌午前はここで、歌人・中村憲吉の終焉の住いと、臨終の様子を取材する。帰京は明後日の五時、羽田着の予定である。

明けた金曜日、昨年は欠席したが、昔の職場仲間と白骨温泉に一泊のバス旅行。運転役のISHIさんの名前から「イシイ観光で行く、我儘旅行会」と云うらしい。上野通営時代のメンバーで、総勢17名だそうだ。例年より若干少ない。酒飲んでバカ話をして、騒いで、疲れて帰ってくると云う、実に楽しい旅行会なのだ。そして日曜日は、モーターボートか?

楽しきことばかりの我が人生。これじゃ、今際の際は碌なことにならんだろうな…。覚悟しとくよ!大バカ野郎の人生さ、なにがあってもおかしくねえぜ。

 

 

 

 

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農園~居酒屋演歌~ラーメン

2015-10-26 | Weblog

10/26(月) 三題話のような表題になってしまったが、これが週末の出来事である。先ずは土曜日、横浜市の農園で野菜作りに励んでいる先輩に取材をお願いしてあった。情報誌のOB対談であるが、仮のテーマは「育てる喜び、食べる楽しみ」としておいた。

土曜日の朝、横浜市のJR中山駅から2~3km離れた処にある山下農園に向かった。農園での作業は八時半頃から始まっているようだが、遠方からのスタッフやカメラマンなどがいるので、我らの農園着は九時半頃と云うことでお願いしてあった。JR横浜線が事故でダイヤが乱れていたが、なんとか予定時間に到着した。

空はあくまでも青く、空気清浄。気温の方も徐々に上がり、農園に着くと汗ばむほどになっていた。この気温上昇が大敵よ!キャップを被って出掛けようと思ったが、このスタイルでボートレース場に行くと予想屋にピッタシだと言われている。農場で予想屋に間違われるのは、会社と情報誌の品位を疑われる。それに取材をお願いした先輩のMASUDAさんに申し訳が立たない・・・。

そんなことで、帽子を被らずに出向いたのだが、これが大失敗。暑い、暑い、おまけにこっちは二日酔いだった。前夜、会社でベッタラ市の後夜祭と称して、残り物で鍋や栗ご飯(栗は三越で買ってきたが、高かった。然し旨かった)を炊いて、スタッフと一杯やった。それから、「ローカーボ」「セイジュ」「ちょっぷく」と廻り、帰還は25時であったのだ。

暑さと前夜の酒精で、グッタリだがそんな顔を見せる分けにもいかん。それでも不調は不調、今一つ覇気のない姿をさらしてしまった。が、農園での取材は、先輩の過分なる気遣いで円滑に進んだ。お伺いした山下農園は、横浜市の施策に協賛した農家が「農業指導」する市民参加型の農園。毎年参加者を募集して、凡そ一年に渡り農業体験・指導を受ける形式。

MASUDA先輩は、この農園がスタートした十五年前からのメンバーであった。先輩からは飲み会の都度、農産物をお土産に頂戴してきたので、取材で農園を訪れるのが楽しみであった。農園のメンバーである同じ会社のOBと、先輩との対談スタイルの取材である。何からなにまで、先輩におんぶにだっこの段取りであった・・・・・。

                         

千㎡ばかりの農園で、三十名程のメンバーが指導を受けながら、季節季節の野菜を栽培している。この日は茄子・ピーマンの撤去と、その後の土作りがメイン作業であったようだ。白菜・大根・レタスや春菊、ブロッコリなどが元気に育っている・・・・。

このスタイルの農園の良さは、農機具や種子・肥料などの一切を農園側が準備してくれること。そして農産物の作り方を指導してもらい、収穫物を手にすることが出来る。農家の先生がいるので、収穫が間違いない。

取材後、我等は山のように野菜を頂いた。この夜、鍋や煮物、サラダと早速に頂いたが、いや~美味かったよ 。新鮮な野菜の旨味を堪能させて頂いたのであった。

取材後、頂いた野菜を家に置いてシャワーを浴びた後、会社に出た。が、時は既に16時前になっていた。YOSHIOとAIBUNが作業中、取材で一緒だったFUJIKURAは、野菜をYOSHIOにお裾分けして帰る処であった。

六時過ぎ、YOSHIOを残して退社。真っ直ぐに「ちょっぷく」に向かった。土曜日、店はランチで仕舞う。その後は掃除など、助っ人隊のミムラッチがこの日もお手伝いをしていた。掃除が一段落した後は、競馬の予想しながらランチの残り菜で一献となる。

土曜日のこの時間に訪ねたのは二か月ぶりかな?日曜日の「菊花賞」の予想を聞きながら、先ずはビールとなった。そしてハイボール。

 そのうちにスマホの映像を見ながら曲が流れだした。スピーカーに繋いで、愈々演歌タイムだ。YAMAちゃん店長の、マイクを握る手に力が入る・・・・。唄わないと言っていたミムラッチも声を出し始めた。貸切?の居酒屋演歌道場と化していた。

                            

明日の菊花賞だ・・・、『早く買ってくれよ』と云うと、「未だ投票が始まっていない」とつれない。午後八時にならないと、ネットの受付が始まらないとのこと。こんなことを書くと、大枚を投じるように思えるが…、なんのことはない。総額千円だ!可愛いものさ。

土曜の夜はこうして更け行く。「明日は川崎のハーローインだけど、来ないかい?」と言うが、即座に断る。あの手の遊びの何処が面白いのか?オイラには理解ができない。

 

そして、翌日曜日。昼前にTVを点けると「東京ラーメンショウ」なる、全国のご当地ラーメンが出店しているイベントを公園で開催していると、その映像が流れた。これを見て、ちょっと心が動いたのである。駒沢公園では色んな催しがあるが、世界のビールや全国の丼、B級グルメ等と期待を裏切られている。こっちの要求レベルが高すぎるのか?

それは兎も角、昼まで腹も減っていた。一人じゃ面白くないので、長女とラーメン好きの孫”空”を誘ったら二つ返事が返ってきた。木枯らし一号の中、空の手を引いて駒沢公園に向かった・・・、処がこの五歳のお嬢は、ちっともじっとしてない。言うことを聞かないのだ。

公園に着くと丁度お昼時、並んでるね~。てんでに好みのラーメンの前で列をなしている。これじゃ食べるまでがてえへんだぜ・・・。娘を大分・臼杵ラーメンの列に並ばせ(比較的列が短いので)、チケットを買いに行く。全て850円で、チケット制なのだ。中には色んなトッピングで付加価値をつけて、売り上げ増を狙う店あり・・・・。

                                     

オイラは、宮崎の豚骨ラーメンの列に並ぶ。隣の越中・富山は白エビラーメンも美味そうだが、トッピングの白エビ天麩羅(500円)とあるのを見て『それじゃ日本蕎麦じゃねえか』と思ってしまった。あにはからんや、別器に入っていた。これにはちょっと心惹かれ、隣の店をジット見てしまう。

ラーメンをゲットしても、今度は座る場所を探してウロウロ・・・と、長女からの電話。しっかりと席を確保して、早や食べ始めていたのだ。

たった二種(三人でだョ)しか食べなかったが、お腹が満腹。まあ缶ビールは飲んだが。これ以上食べる気は起きなかった。大分対宮崎、軍配はどちらか?

好みの問題はあろうが、麺・スープ、濃くともに宮崎となった。

駒沢公園を後にした私とやんちゃなお嬢は、渋谷へ。ハローインでチョロチョロしているバカ面を見せてやろうかと思ったが、やんちゃぶりが手に余り、東横店で晩の菜(魚&肉)を贖って、早々に帰宅したのであった。

 

で、今朝の弁当となるが・・・・。シンプルですよ!

                     

長女のは、豚丼風に。家人のご飯には「白エビ振り掛け(先週、富山空港で買ったやつ)」が・・・。菜の方は「オムレツ風」と「豚薄肉の焼肉」「三種茸のバター焼き&ピーマン添え」「茄子&厚揚げ煮」であるが、昨夜の菜、ブリ刺身の残りを一切れづつ塩焼きにして・・・・。

  

 

 

 

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電電記念日

2015-10-23 | Weblog

10/23(金) 今日は「電信電話記念日」、懐かしい言葉だが、この日は半ドンで午後から休みだった。私がサラリーマンをしていた遠い日のことだ。今は分社化に次ぐ分社化で、グループ会社毎に其々であろうあが。

そんな遠い日のことながら、記念日が近づくとOBにも祝賀会(最近は、先輩の皆さまとの交流会と云うらしい)の案内が届く。一応、OBの端くれとして祝賀会に顔出しするように努めている。これも営業活動の一つか?

営業活動と云えば、昨夜の会合で隣り合った、某社の常務と話をしていると、ホームページを更新するとの話が出た。ではでは、是非当社へと、いじましくも営業をしてしまった。近々に連絡があるだろうが、仕事に繫がるはずと期待?

それにしても今日の祝賀会は参加者が多かった。今年は、僅かながらの会費を取らなかったことに起因するか?参加者は2600人にのぼると聞いたが、知人・友人を探すのも困難な状況だった。会いたい人を探して、広い会場をうろつきながら思ひが至ったのは、鬼籍に入られた先輩や上司のこと。これだけ大勢がいながら、もう会えないんだなぁと、ふと淋しい思ひが過った。

                    

さて、昨夜の六本木での四国会がお開きとなって「ちょっと軽く行こうよ」と、元監査役から声が掛かった。ではではと、入った店はなんとメトロ駅の近くにあった中華店、それも幸楽とか云う超安値の店だった。ここで生ビールと、餃子を肴に雑談した。

一緒に働いていた頃、十数年も前の古い話だ。既に時効なので、あの頃あったトラブル・事件について話すと「全然知らなかったよ。聞いてなかっった」という。監査役の耳に入れてなかったのかな?と思いつつ『監査役が知ると、立場上困ることもあるでしょうから…』などと、煙に巻くようなことを言った。

雑談はこ一時間で終わり、二人して駅に向かった。と、改札口を前にして、白杖で確認しながら進む目の不自由な方の姿がいた。一人でも大丈夫な方だと思ったが、混雑する駅だ。ついつい余計な手出しをして『宜しければ手を貸しましょうか?』と、訊いた。「お願いします」とのことだったので、大江戸線の改札まで肩を貸して送った。

こんな出過ぎたことをしたのも、サラリーマン時代の社会貢献活動の仕事で、目や耳や体の不自由なかたの介助のしかた等を学んだことによる。余計なことだったかもしれないが、自分でとっさに思ったことを行動に移した。それだけのことだった。喧嘩はよくねえが、そうじゃないんだから勘弁してくんな・・・。

 

今朝と云うか深夜、三時に目が覚めてしまった。夢を見てたが、それがなんとオカマの床屋に入って、散髪をしている夢だった。夢の中の私は、あいかわらづ、剃り上げた頭だが、今ほどじゃなかった。その髪のカットについて、オカマの理髪師があれこれ言いながら刈り上げていた。こっちはどうなるかと不安でいっぱいだ・・・。しかし、仕上がった髪型は今様でなかなかよかった。嗚呼よかった、だがオカマがベタベタと煩い・・・・。

そんな魑魅魍魎の夢の所為で、目が覚めたようだ。暫く目を瞑っていたが、とうとう眠れずに煙草に火を点けた。そんなことで、ウトウトとしたのは五時を過ぎてからだった。参ったネ!

今朝の弁当は「五目チラシ」それも、ご飯に混ぜれば出来上がるインスタントのやつだ。家人が貰ってきた品だが、放り出してあったので折角だと、使うことにしたのだ。従って菜は少なくて済む。

鍋でご飯を炊き、その時間に菜を作る。小松菜と薄揚げを茹で、白ダシと醤油をひと垂らし、ゴマで和えただけの一品。五目すし用に錦糸卵を焼く、つづいて卵焼きとなる。飯を炊く時に入れた昆布は、刻んで佃煮にして菜の一員となった。人生と食べ物は、無駄をしてはいけないのだ?

                         

粕漬けが残っていたはず、これを焼こうと探すが見当たらない。致し方なし、一月も前に自分で粕漬けにした鰆を取りだし、これを焼いた。腹痛をおこすことはねえだろうな?最後にジャーマンポテトならぬ、ジャーマンポテト・パスタでお仕舞にした。

                            

弁当に錦糸卵と刻み海苔を散らして、完成である。

 

 

 

 

 

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雑事に紛れ・・・

2015-10-22 | Weblog

10/22(木) ベッタラ市から、雑事に紛れてBLOGを記すのももどかしい。雑事と云っては叱られるが、昨日の午後はフレンチシェフの三国清三さんのインタビューの立会。取材を終えた後には、NAKAJIMAさんとの懇談を渋谷・奈加野にて。

NAKAJIMAさんに会うのは、三ヶ月半ぶりか。氏が退職をされて以来のはずだ。聞くと、仕事を卒業した後も、何かと野暮用があり忙しいようだ。昨夜の懇談趣旨は、私もよく知っている某社の後任社長についてであった。意見を求められたので『貴方がやるのが一番いいでしょう』と応えたが、その気はなさそうだった。で、何人かの名を挙げたが・・・。

月曜・火曜と帰宅時間は25時前となり、些か草臥れていた。が、昨晩は21時前に帰宅したので、今朝は元気だ。朝も五時前に目覚め、弁当作りに勤しんだ次第。前日の朝は時間がなくて大慌てだったが。

そう云えば、昨夜「奈加野」に我が御学友のHOSOKAWAが来ており、客らしき二人を相手にしていた。『富山に行って来たぞ、無人の家を見てきたぞ』と云うと、「なんだよ、勝手に他人の家に行って」なんて、ご託を並べていた。

 

情報誌の取材予定やページ構成が二転三転し、時間に追われる状況になってきた。未だ一本取材先が決まっていない。明日中には固めたいのだが、さてどうなることやら?これだけスムーズにいかないのは初めてのことだ。オイラの運も命のともし火も、尽きかけているのか?

今度の土曜日は、お世話になりっぱなしの先輩、MASUDAさんが参加している横浜の農園での取材。シニア層に特に人気となっている「野菜作り」がテーマ。育てる喜び食べる楽しさなど、面白い話が聴けるはずだ。

今夕は、サラリーマン時代の最後を過ごした会社の「四国会」と云うのがある。辞めてから十数年も経つのに、未だ声を掛けてくれる。有難いことだ。で、会場は、六本木の居酒屋。夜の六本木を徘徊することもなくなり久しい。二次会に行こうとしても、知っている店がない。なんとだらしないことか・・・・・。

BLOGのテーマ『弁当』の水曜日・木曜日を紹介して、六本木に出掛けることとしよう・・・・。

 先ずは、昨日の水曜日から。

              

前夜までの祭りの影響で、朝起きられなくて大慌てした。鍋でご飯を炊き、前日の祭りで買った魚久の粕漬けを焼いた。牛小間を炒め、コチジャンタレで味付け。付け合せの野菜はピーマンとタマネギ・椎茸かな?ニラ玉と、晒しタマネギにポン酢を掛けて口安めの一品。以上であった。

そして今朝は、時間はたっぷりとあった。揚げ物でもしようかと迷ったが・・・。ピーマンの肉詰め、豚肩肉の生姜焼き、添える野菜はピーマン・エノキ・アスパラ。煮物は、先ずは南瓜。更に人参・蒟蒻・オクラ・シシトウの炊き合わせ。卵を使うのは、小松菜のごま油炒めとした。

              

カボチャの煮物が、珍しくホッコリと仕上がった。家人にそういうと「カボチャがいいからよ」と返ってきた。『このカボチャは、俺が田舎で「作ったやつだろう』と云うと、違うという・・・・・。じゃ、俺が作ったカボチャは良くねえってことか?ガックリ  。

                           

  

てぇ云うことで、弁当のお披露目でした。それじゃこれから、六本木に向かいます。(今夜も帰りは早いよ、キット)

 

 

 

 

 

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ベッタラ市

2015-10-20 | Weblog

10/20(火) 昨日、今日とつづいた人形町「べったら市」が、先ほど店仕舞いとなり撤収を終えた。日曜日の仕込みから三日つづいただけで疲労困憊している。これが年齢と云うやつかな・・・・。

メインの売り物になりつつあった「弁当」が、諸般の事情でできなくなったことが響き、物足りない品揃えとなった。妹夫妻から届いた安田川の鮎を焼き、スタッフや来客に食してもらえたのが救いか。

何時もながらの土佐風の五目飯、栗ご飯、オムスビを作りスタッフの賄い飯、御厚誼を頂いている方々に届けたが、果たして味の方はどうであったろうか・・・。

先輩や友人などにお越しいただいたが、充分なもてなし配慮が届かなかった失礼の数々をお詫びするしかない。懲りずに、次の機会があればまたの御目文字を願うばかりである。

「べったら市」のオープニングから今宵までの様子など、写真で若干の紹介をする。

                   

                 祭りの朝の風景、漸く設営が始まり本番に備える。

 

                        

 宵闇が迫り、勤め人たちが仕事から解放される時間になると、通りは俄然賑わいを醸しだして祭り気分となる。

そして我が屋台の前は如何に?初日の助っ人隊の登場。オヤジ軍団の頑張りで「何とか売ろうとするが・・・・」さて、努力は報われるのであろうか?

                    

我が町の川のPRと、あの高価な「鮎」に値段を付けて販売の真似事。売れるとは思わない(値段から)し、この鮎の味がわかる人は鮎と同様に希少。来てくれた客人へのサービス、スタッフ用で焼いたのだ。一匹千円の鮎を買ったのは5~6人であったが、粗押し売りだ。

                       

それでも、口にした人々は「美味いね~」とは、いってくれた。

 

「五目ご飯」を三回、栗ご飯(栗おこわ)二回、握り飯用と、都合六回の飯作りと鮎焼きで明け暮れた三日間であった。はっきり言って、飯作り過ぎかも・・・・。

 

 

 

 

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北陸路

2015-10-18 | Weblog

10/18(日) 15日(木)の早朝に小松空港に飛び、昨日の午後まで北陸路の旅であった。旅と云っても仕事なので、観光らしきことは・・・・?であるはずだが。其処は、転んでもただでは起きぬ私。

15日は小松空港から、福井市を経由して勝山市に入る予定であった。処が、取材先のご主人が急病。急遽取材中止となった。そんなことで、先ずは金沢に入り、そこでクライアントと合流することになった。早い便で発ったので、クライアントととの待ち合わせまで余裕があった。「近江町市場」を覗いて時間を潰すことにした。

金沢駅から近江町市場までは徒歩で十五分もみれば十分だ、ぶらぶらと歩いて向かう。未だ十時前なので、観光客の姿も少ない。観光客と云えば、今回のホテルの部屋を確保するのに苦労した。北陸新幹線開通の効果は大であろうが、日本中どこに行っても部屋を取るのに苦労する。

余談ながら、先々週の京都行きでも一苦労だったとか。自分で取らなかったので聞いた話だが・・・。秋の京都らしく、観光客それもアジア系の外国人が雲霞の如くであった。ホテルの部屋が中々な取れない、値段が暴騰しているらしい。

久しぶりにおとずれた「近江町市場」は、前よりも広がり綺麗になっていた。めぼしいものがあれば自宅に送ろうかと思って見たが・・・・・・。相変わらず欲しいと思う魚は見当たらなかった。それでも一番の中をぶらぶらとし、スマホの充電をしたかったので早いランチをと、市場内の寿司屋に入った。これが酷いもんさ、ネタと味は下、値段だけは一人前だった。

                       

びっくりしたのは、我が故郷の「四方竹」が売られていたことだ。ここで出あうとは・・・、今度のベッタラ市では「四方竹煮」を、スタッフの賄い飯で作るのだ。店の兄さんに『これの産地は何処ですか?」と訊くと、知らなかった。オバサンが面倒臭そうに「四国」だと兄さんに教えた・・・・・・。が、四国も些か広うござんすよ!と、云いたかったね。

                          

昼近くなった市場は、何時の間にや観光客で溢れるぐらいになっていた。そんな姿を横目に駅に戻り、クライアントと合流。今夜の宿泊地、富山に入るには早すぎると、名勝「兼六園」をぶらついてから富山に向かったのである。富山泊にしたが、目的地は翌日に向かう糸魚川市である。取材は、翌日の午後からなので、富山に一泊してから向かうことにしたのだ。

                           

金沢泊まりだと宿が取りづらいと思い、富山泊まりにしたのだが、これが大変だった。漸く取れた宿は、駅から車で15~20分も要する処だったのだ。クライアントの宿と同じ処を取ったのだが・・・・。タクシーの運転手に訊くと「民政委員の全国大会があり、宿はどこも満杯」とのこと。タイミングが悪いことこの上なしだが全国の民生委員が使用する「民生委員のPRカード」と云うのがあり、このポケットに入る小さなカードの販売受託をしている。これも何かのご縁かと、文句の言葉は出さなかった。

然し、晩飯を喰いに出るのもタクシーだぜ!『鯰温泉』の宿は、ビジネスにはしんどい。が、その名のとおり風呂は温泉。鉄分の入ったぬるぬるした湯だが、温泉宿と思えば、これもまたよしか・・・・。

翌日、のたりのたりと普通電車で越中海岸や越後親不知の海を見ながら糸魚川に入った次第。目的地の「能生」は、糸魚川駅で乗り換えとなる。この35分の乗り換え時間に名物だという「黒焼きそば」を食した。どうってことのない味だったが、イカスミの焼きソバで口の中や歯が黒くなる。カウンターに手鏡が置いてあり、食後はこれで口元や歯を見るのだ。口の中は綺麗になっても、腹の中は真っ黒なままだぜ!

                            

午後からの取材は、能生地区にある「藤崎観音堂」で、NAKAMURAさんと云う民話を紙芝居で語る活動をされている方の話を聴き、その後インタビューをすると云うもの。海を望む傾斜地に建つ観音堂の座敷で話を聴いた。能生地区に伝わる「おしょろ婆さん」の紙芝居や、上越地区に伝わる幾つかの民話を、紙芝居を見ながら聴くことができた。

「藤崎観音堂」は、毎年二月だったか。年男を、フンドシ姿の男衆が胴上げをする「裸胴上げ祭り」で知られているとのことだ。天候に恵まれ、蒼い海と空が殊のほか印象的であった。

                     

                             「おしょろ婆さんの象」

 

取材後、東京に戻るクライアントやスタッフと別れ、一人で富山に戻った私は、友人のMURAI氏と会った。立山町の生家で、九十四歳の母親と二人暮しの処に泊めて貰うのだ。好意に甘えてのことだが、M氏の暮らしを見たいのもあるし、すぐ近所だと云う学生時代からの友人HOSOKAWA君の空き家となっていると云う生家も見たかった。

富山県中新川郡立山町・・・、妙に気になっていた土地なのだ。我が土佐とは大違いで、沃野が広がる豊かな大地、と云うのが翌朝になってよく分かった。M氏の案内で昼過ぎの飛行機の便までの時間、「称名滝」(しょうみょうたき)と云う、日本一の高さ(350m)を誇る滝を見物、更に魚津市まで美味いと云う鱒ずしを求めて足を延ばした。

                    

                    早や紅葉が!               称名滝

更に、魚屋さんがやっている、一日限定三十食の「魚丼」まで馳走になった。たしかに、この店の魚は旨かった!すっかり、お世話になってしまったのである。

今日は、明日から始まる「ベッタラ市」の仕込みで出社。買い出しに行き、猪汁と猪鍋の準備を整え、明日の屋台の設営用の備品や消耗品を整えるはスタッフのオヤジ軍団。さあ~明日から、祭りだ!ベッタラ市だ!

 

 

 

 

 

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久々に弁当を・・・

2015-10-14 | Weblog

10/14(水) 今朝は久々の弁当作り。妙に新鮮な気がした、台所に入ったのは午前6時過ぎ。食材をあらためるが、碌なもんがない。おまけに、ご飯も半端に残っていた。

先ずは、残りご飯を「炒飯」にすることにした。菜の方は「鮭のバターソテー」、オムレツ、小松菜の胡麻和え、アスパラ&シメジのソテー、竹輪の胡瓜詰、冷凍のチキンカツ、以上となった。

                  

 

好きな花は、「春の桜と秋のコスモス」。そのコスモスが、田舎の小庭に咲いていた。花壇に植わっていたのが、散った種が敷板の間から茎を延ばして咲いているのだ。花壇のコスモスは、雑草と一緒に抜かれてか全滅したが、敷板から伸びたコスモスが可憐なのだ。清流の流れ、澄んだ空気、山間の村の長閑さもいいものだ。

                    

 

 

 

 

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本日、帰京

2015-10-13 | Weblog

10/13(火) 今日の三時過ぎに羽田空港に到着。今回の、京都から高知への旅は好天に恵まれた。日頃の行いの良さとは言わぬが・・・・。昨日今日と土佐の海は穏やかに、紺青に輝いていた。

空港から実家に向かう経路は、海を望める景観がつづく。、安芸や手結(てい)の海に、ジャコを採る漁船が並び網を引いていた。波もなく穏やかな海面をゆっくりと網を引く様は長閑としかいいようがない。海辺に車を留め、一服しながら眺めいった。

                        

8日の夕刻に京都から伊丹空港経由で帰郷。足かけ六日の郷里では、今回も喰いっ放し。私らしくく、先ずは食い物の話をしよう・・・・。

今回の食い物で一番槍は「マツタケ」だろう。親戚のKATUOは、毎年シーズンになると地元の山奥に松茸を採りに行く。他人様の山らしいから、盗りに行くが正しいか?尤も皆やっているらしいが。

これで「マツタケご飯」を炊いて、従姉やKATUOも加わっての食事会。二番目は「栗ご飯」か、或いは「鮎姿寿司」か。栗は、畑の栗、鮎は猟期の迫った安田川の鮎。全て地元産で、まさに地産地消と云う処だ。

                           

それに番外編では、「川カニ」を挙げたい、所謂、モクズカニ(郷里では、ズガニと呼ぶ)と云うハサミに毛が生えているやつだ。身が少ないので、私は余り好まないが、RIE嬢が来高したのでKATUOに言って持ってきて貰った。果たして、我が郷里の川の鮎・カニを楽しんでくれたであろうか。

栗は最盛期を過ぎていたが、9日に草刈に行くと七~八十個を拾うことができた。これを従兄・姉にもお裾分けした。残りを茹でたり、栗ご飯にした。栗のイガの始末に大わらわしたが・・・・。

                  

或る日の夕食(母と二人)がこれだ。テーブル一杯に並び、母は見ただけ呆れている。

                           

テーブルの上、左の皿はカニである。それに栗ご飯、漬物は四種か。今がシーズンの四方竹の煮物、鶏肉と大根の炊き合せも並ぶ。他に、シューマイに鮎の姿寿司、味噌汁は「モクズカニ汁」である。

鮎漁は今月15日で終わる。HIROKATUや従姉の旦那は、最後の漁だと連日川に入っている。その鮎を、私は鮎の開き、鮎寿司、はたまた甘露煮と喰う方に追われていた。

                    

 昨年の八月は、大雨や大型台風の襲来で鮎漁が殆どできなかったようだ。今年は、うって変わって好天に恵まれて鮎の生育もよく、川に入る日が多いそうだ。そうなると、私が頂く鮎も多くなると云うものだ・・・・。

                            

好漁に支えられて、10月19・20日のベッタラ市で『会社のスタッフに鮎焼きを振舞うつもりだ」と、HIROKATUに云うと「じゃあ、それに合わせて送ってやるよ」とのこと。手持ちの分で賄うつもりだったが、有難い申し出に『すまんな』の一言だけを返した。19日には、四十匹ばかり届くだろう?

鮎と簡単に言うが、我が田舎町の売店では一匹700円している。それも中ぐらいの大きさ。高すぎないか?と思うが、KATUOの仲買人への売値が500円と聞くと、むべなるかなだ。

 

 茗荷と栗が終わり、鮎もカニももうすぐ終わる。次は、ミカンやカキのシーズンとなるが、生憎と私の畑の柿も蜜柑も実りが少ない。挙句に、漸く実り始めた渋柿は、木が小さい所為かハクビシンに喰われてしまった。柿だけじゃねえ、ひと畝だけ植えた芋が、帰省中に全部掘り返されてしまった。これで三度目、全滅となった。

                            

高齢化、人口減となった山間地域では獣たちが跋扈し、すっかり連中の縄張りになった。猪・猿・鹿・ハクビシン・烏が農作物を食い荒らす。家よりチョット上流のでは、耕作を諦めているのが実態だ。なんとか、ならんのかね・・・・。田舎暮らしも楽じゃないぜ!諸君。

 

 

 

 

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秋だねぇ~

2015-10-07 | Weblog

10/7(水) 夏の格好で寝ていると寒くなってきた。六時前に目覚めたが、寒くて蒲団を引き寄せた。台所に立っても動いていないと寒い・・・秋の深まりを実感する日がつづく。

昨夜「ローカーボ」に顔を出したのは八時前。丁度HOYA兄さんが帰った後とのこと。兄さんも、連夜のお勤めで草臥れたと言って帰ったそうだが、こっちも相当に草臥れていた。軽くと云うか、喉を湿す程度で引きあげるつもりだ。明日から、京都~高知と旅なのだ。

客の姿がない店で、ハイボールを二杯、摘みに生ハムサラダを一皿。それだけで、客が入ったのを潮に店を出た。駅に向かう途中、勿来か安宅か。はたまた箱根か、関所の如くに「ちょっぷく」の灯りが、おいでおいでと招く。ついつい店内に吸い込まれてしまうのが常だ。

助っ人隊のミムラッチとYAMAちゃん店長を相手に、ワインを数杯。YAMAちゃんの故郷・岩手の甘い白ワインを注がれるが・・・。『これやぁ甘くて駄目だぜ』と云うと、店売りの赤ワインを混ぜやがった。ロゼのつもりか?・・・。バカ話をしていると、おもちゃの被り物を持ってきて頭に載せた。『遊んでないで、客の相手をしろよ…、俺たちは客のうちにはいらんぜ』

                          

                          おバカしてんじゃネェ!

オヤジ同志で一時間ほど遊んで、店を出た。十時になる直前だ。これくらいの時間に引き上げるとイイネ・・・。十一時前に帰り着き、腹が減ったとラーメンを作り、喰ってしまった。我慢が利かんねぇ~・・・。

早い就寝だったので、今朝は体調が宜しい、寝るが一番の薬だ。で、弁当だ。昨朝と違い、今朝は余裕だが、メニューが浮かんでなかった。台所の食材を探しながらメニューを考える。

小エビ・ブロッコリ・人参・ジャガイモと並べ、これでパスタ&サラダだ。メインは、出来合の「豚ロースステーキ」と云うやつに、ピーマンとタマネギを添える。これは焼くだけだ。

                    

最後に、卵焼きを作ってお仕舞にした。炊き立ての飯に、シンプルながら整った菜。どうだい・・・・。以上!

                          

 

これから京都だ、一年ぶりかな?取材ネタを拾いに町を歩き、夜は祇園の料亭ならぬ、居酒屋で飲むか。明日は午前中がメインの取材だ。そして伊丹空港から高知へ。夜は母を相手に飯を喰う・・・。土曜日、スタッフのRIE嬢が来高するので束の間、土佐路を楽しんでもらえれば・・・・。

と云うことで、来週の水曜日までさよなら・サヨナラ・SAYONARA・・・・・。

 

 

 

 

 

 

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