果仁者 人多畏 言不諱 色不媚
guǒ rén zhě rén duō wèi yán bú huì sè bú mèi
【解説】真正品行高尚的人,人們都心存敬畏。因為仁者說話的時候,直言不諱,也不阿諛奉承。
【和訳】本当に仁徳(じんとく)を備(そな)えた人物には、人々は畏敬(いけい)の念を抱(だ)かずにはいられません。その仁者(じんしゃ)たちは、真っすぐで、正しいことを恐(おそ)れず堂々(どうどう)と語(かた)り、媚(こ)びへつらわず、泰然(たいぜん)としているからです。

●簡単解説:
★前章「流俗衆 仁者希(凡人俗人はとても多く、聖人君子は実に少ない)」であるので、もしこの私だけ聖人を習い、真誠・清浄・平等・慈悲な心をもって人に接してばかりでいれば、他の人が皆私に虚偽、欺騙(ぎへん)の心で接してきたら、私だけ大損するではないのかと心配する人もいることでしょう。確かに、そのように見えます。損をしています。しかし、この100歳足らず、何十年の短い一生のなかで、損をしたといっても、たいしたことではありません。なにしろ、後に大きなご利益を得られるからです。後にどのようなご利益がありますか。
孔子と釈迦牟尼仏を見ればわかるように、孔子の一生は自分を犠牲にして、他者や社会ばかりに奉仕、貢献していました。釈迦様も同じく、他者ばかりに利益をもたらし、自分のことを考えたことがありませんでした。その結果として、大きな利益を得ています。何千年後の人から記念され、称讃されていて、さらに、彼たちに学ぼうとする人もたくさんいます。それに対して、他人に損害を与えて、自分が一時的な得をした自己中心の人は、死んだら、忘れられ、だれからも偲ばれることがないのです。これはあくまでも表面的現象から見たことですが、因果の視点から深く洞察してみると、実に大きな差が出てくるものです。
無私に犠牲、貢献できる人は、上に昇ります。逆に人を傷つけ、損害を与えた人は、下の方に堕落します。本当に、天地の差以上です。行く先が全然違います。
しかし、世の人はこの事実真相を詳しく知りません。知らないといっても、まったく知らないわけではありません。一部分の人がこのことをよく知っています。けれども、その一部分の人の中でも、分かっていながらも、改心できない人がいるものです。
私たちは、この一生で、仏法、儒教に出合い、善友、善知識に出合って、私たちの善根が現れました。この善根を長く保てるでしょうか。実に難しいことです。保つことはけっしてたやすいことではありません。何十年の期間も保ち続け、退いたり失ったりさせないというのは、非常に難しいことです。それならば、いったい、どのような方法で保てるのでしょうか。釈尊が示してくださったヒントは、49年間の経典の教学です。すなわち、あなたが毎日、聖賢の教えから離れず、毎日聖賢の経典を勉強し続ければ、退転せずに90%以上の善根を保ち続けることができます。この方法を使わなければ、100人なかに10人位でも保てれば、良いほうなのです。つまり、90%の人が退転します。
そこで、疑問があるかもしれません。釈尊、孔子様がいらっしゃるときならともかく、現在、そのような善知識がすくなく、いったいだれについて学びますか。これは、少しでも、悟れば、分かる問題です。仏経典のある場所は如来がおられるところです。同じように、儒教の経典のある場所は、孔子、孟子がおられるところであります。
仏教の歴史上に、多くの方が一つの経典を決めて、一つの学問・法門を深入りして、一生変わらずに精進修行して、この一生で聖賢となり成功していました。先人のように、私たちも毎日、聖賢の経典を読み、内容を思考し、生活のなかで実践・実行します。けっして、他人の欠点を探すのではなく、つねに、聖賢の標準を用いて、自分自身にふりかえって、照らし合わせ、自分自身の心と行動がその聖賢の教えに背いたかどうかをしっかりとチェックして、改めます。これは「親仁」です。
★媚びへつらうことや機嫌を取るようなことを、道徳のある人はしません。徳行の高い人には、ある威儀を備えています。それは、「無欲則剛(欲無ければ則(すなわ)ち剛(ごう)なり)」です。私利私欲のない人は本当の強い人であるがゆえに、剛直でいられます。ゆえに、よくない団体・集団のよくない風習に染められずに済み、左右されずに堂々と屹立(きつりつ)できます。
本物の仁者であれば、彼を見た人のなかから多くの人が、心で敬畏(けいい)の念を抱きます。この「人多畏」の「畏」は、けっしてその人の権勢に畏懼(いく)するのではありません。この「畏」は仁者の威儀を見たとたんに、心から感服させられるということです。この仁者の「仁」について、古人は「仁者(じんしゃ)無敵(むてき)」を説いていました。仁愛の気持ちをもっている人の心の中に、対立・敵対する人はいません。仁慈・仁徳の心の持ち主には、必ず、人を愛せます。人を愛せるから、人の過失を寬恕(かんじょ)することができます。寬恕の心を持っているから、人のことを受け入れられ、包容でき、仲良くすることができます。
簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
一部の内容は念仏人さんのブログによります、心から感謝いたします。
ブログをご覧になっている皆さんとご一緒に学ぶことができて、本当にうれしいです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
guǒ rén zhě rén duō wèi yán bú huì sè bú mèi
【解説】真正品行高尚的人,人們都心存敬畏。因為仁者說話的時候,直言不諱,也不阿諛奉承。
【和訳】本当に仁徳(じんとく)を備(そな)えた人物には、人々は畏敬(いけい)の念を抱(だ)かずにはいられません。その仁者(じんしゃ)たちは、真っすぐで、正しいことを恐(おそ)れず堂々(どうどう)と語(かた)り、媚(こ)びへつらわず、泰然(たいぜん)としているからです。

●簡単解説:
★前章「流俗衆 仁者希(凡人俗人はとても多く、聖人君子は実に少ない)」であるので、もしこの私だけ聖人を習い、真誠・清浄・平等・慈悲な心をもって人に接してばかりでいれば、他の人が皆私に虚偽、欺騙(ぎへん)の心で接してきたら、私だけ大損するではないのかと心配する人もいることでしょう。確かに、そのように見えます。損をしています。しかし、この100歳足らず、何十年の短い一生のなかで、損をしたといっても、たいしたことではありません。なにしろ、後に大きなご利益を得られるからです。後にどのようなご利益がありますか。
孔子と釈迦牟尼仏を見ればわかるように、孔子の一生は自分を犠牲にして、他者や社会ばかりに奉仕、貢献していました。釈迦様も同じく、他者ばかりに利益をもたらし、自分のことを考えたことがありませんでした。その結果として、大きな利益を得ています。何千年後の人から記念され、称讃されていて、さらに、彼たちに学ぼうとする人もたくさんいます。それに対して、他人に損害を与えて、自分が一時的な得をした自己中心の人は、死んだら、忘れられ、だれからも偲ばれることがないのです。これはあくまでも表面的現象から見たことですが、因果の視点から深く洞察してみると、実に大きな差が出てくるものです。
無私に犠牲、貢献できる人は、上に昇ります。逆に人を傷つけ、損害を与えた人は、下の方に堕落します。本当に、天地の差以上です。行く先が全然違います。
しかし、世の人はこの事実真相を詳しく知りません。知らないといっても、まったく知らないわけではありません。一部分の人がこのことをよく知っています。けれども、その一部分の人の中でも、分かっていながらも、改心できない人がいるものです。
私たちは、この一生で、仏法、儒教に出合い、善友、善知識に出合って、私たちの善根が現れました。この善根を長く保てるでしょうか。実に難しいことです。保つことはけっしてたやすいことではありません。何十年の期間も保ち続け、退いたり失ったりさせないというのは、非常に難しいことです。それならば、いったい、どのような方法で保てるのでしょうか。釈尊が示してくださったヒントは、49年間の経典の教学です。すなわち、あなたが毎日、聖賢の教えから離れず、毎日聖賢の経典を勉強し続ければ、退転せずに90%以上の善根を保ち続けることができます。この方法を使わなければ、100人なかに10人位でも保てれば、良いほうなのです。つまり、90%の人が退転します。
そこで、疑問があるかもしれません。釈尊、孔子様がいらっしゃるときならともかく、現在、そのような善知識がすくなく、いったいだれについて学びますか。これは、少しでも、悟れば、分かる問題です。仏経典のある場所は如来がおられるところです。同じように、儒教の経典のある場所は、孔子、孟子がおられるところであります。
仏教の歴史上に、多くの方が一つの経典を決めて、一つの学問・法門を深入りして、一生変わらずに精進修行して、この一生で聖賢となり成功していました。先人のように、私たちも毎日、聖賢の経典を読み、内容を思考し、生活のなかで実践・実行します。けっして、他人の欠点を探すのではなく、つねに、聖賢の標準を用いて、自分自身にふりかえって、照らし合わせ、自分自身の心と行動がその聖賢の教えに背いたかどうかをしっかりとチェックして、改めます。これは「親仁」です。
★媚びへつらうことや機嫌を取るようなことを、道徳のある人はしません。徳行の高い人には、ある威儀を備えています。それは、「無欲則剛(欲無ければ則(すなわ)ち剛(ごう)なり)」です。私利私欲のない人は本当の強い人であるがゆえに、剛直でいられます。ゆえに、よくない団体・集団のよくない風習に染められずに済み、左右されずに堂々と屹立(きつりつ)できます。
本物の仁者であれば、彼を見た人のなかから多くの人が、心で敬畏(けいい)の念を抱きます。この「人多畏」の「畏」は、けっしてその人の権勢に畏懼(いく)するのではありません。この「畏」は仁者の威儀を見たとたんに、心から感服させられるということです。この仁者の「仁」について、古人は「仁者(じんしゃ)無敵(むてき)」を説いていました。仁愛の気持ちをもっている人の心の中に、対立・敵対する人はいません。仁慈・仁徳の心の持ち主には、必ず、人を愛せます。人を愛せるから、人の過失を寬恕(かんじょ)することができます。寬恕の心を持っているから、人のことを受け入れられ、包容でき、仲良くすることができます。
簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
一部の内容は念仏人さんのブログによります、心から感謝いたします。
ブログをご覧になっている皆さんとご一緒に学ぶことができて、本当にうれしいです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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