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『みんなの塾』

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時は金なり。金は時買えぬ。「一寸光陰一寸金、寸金難買寸光陰。」

『弟子規』日本語解説(82)

2018年11月16日 | 『弟子規』日本語解説
果仁者 人多畏 言不諱 色不媚
guǒ rén zhě rén duō wèi yán bú huì sè bú mèi
【解説】真正品行高尚的人,人們都心存敬畏。因為仁者說話的時候,直言不諱,也不阿諛奉承。
【和訳】本当に仁徳(じんとく)を備(そな)えた人物には、人々は畏敬(いけい)の念を抱(だ)かずにはいられません。その仁者(じんしゃ)たちは、真っすぐで、正しいことを恐(おそ)れず堂々(どうどう)と語(かた)り、媚(こ)びへつらわず、泰然(たいぜん)としているからです。



●簡単解説:
★前章「流俗衆 仁者希(凡人俗人はとても多く、聖人君子は実に少ない)」であるので、もしこの私だけ聖人を習い、真誠・清浄・平等・慈悲な心をもって人に接してばかりでいれば、他の人が皆私に虚偽、欺騙(ぎへん)の心で接してきたら、私だけ大損するではないのかと心配する人もいることでしょう。確かに、そのように見えます。損をしています。しかし、この100歳足らず、何十年の短い一生のなかで、損をしたといっても、たいしたことではありません。なにしろ、後に大きなご利益を得られるからです。後にどのようなご利益がありますか。

孔子と釈迦牟尼仏を見ればわかるように、孔子の一生は自分を犠牲にして、他者や社会ばかりに奉仕、貢献していました。釈迦様も同じく、他者ばかりに利益をもたらし、自分のことを考えたことがありませんでした。その結果として、大きな利益を得ています。何千年後の人から記念され、称讃されていて、さらに、彼たちに学ぼうとする人もたくさんいます。それに対して、他人に損害を与えて、自分が一時的な得をした自己中心の人は、死んだら、忘れられ、だれからも偲ばれることがないのです。これはあくまでも表面的現象から見たことですが、因果の視点から深く洞察してみると、実に大きな差が出てくるものです。

無私に犠牲、貢献できる人は、上に昇ります。逆に人を傷つけ、損害を与えた人は、下の方に堕落します。本当に、天地の差以上です。行く先が全然違います。

しかし、世の人はこの事実真相を詳しく知りません。知らないといっても、まったく知らないわけではありません。一部分の人がこのことをよく知っています。けれども、その一部分の人の中でも、分かっていながらも、改心できない人がいるものです。

私たちは、この一生で、仏法、儒教に出合い、善友、善知識に出合って、私たちの善根が現れました。この善根を長く保てるでしょうか。実に難しいことです。保つことはけっしてたやすいことではありません。何十年の期間も保ち続け、退いたり失ったりさせないというのは、非常に難しいことです。それならば、いったい、どのような方法で保てるのでしょうか。釈尊が示してくださったヒントは、49年間の経典の教学です。すなわち、あなたが毎日、聖賢の教えから離れず、毎日聖賢の経典を勉強し続ければ、退転せずに90%以上の善根を保ち続けることができます。この方法を使わなければ、100人なかに10人位でも保てれば、良いほうなのです。つまり、90%の人が退転します。

そこで、疑問があるかもしれません。釈尊、孔子様がいらっしゃるときならともかく、現在、そのような善知識がすくなく、いったいだれについて学びますか。これは、少しでも、悟れば、分かる問題です。仏経典のある場所は如来がおられるところです。同じように、儒教の経典のある場所は、孔子、孟子がおられるところであります。

仏教の歴史上に、多くの方が一つの経典を決めて、一つの学問・法門を深入りして、一生変わらずに精進修行して、この一生で聖賢となり成功していました。先人のように、私たちも毎日、聖賢の経典を読み、内容を思考し、生活のなかで実践・実行します。けっして、他人の欠点を探すのではなく、つねに、聖賢の標準を用いて、自分自身にふりかえって、照らし合わせ、自分自身の心と行動がその聖賢の教えに背いたかどうかをしっかりとチェックして、改めます。これは「親仁」です。

★媚びへつらうことや機嫌を取るようなことを、道徳のある人はしません。徳行の高い人には、ある威儀を備えています。それは、「無欲則剛(欲無ければ則(すなわ)ち剛(ごう)なり)」です。私利私欲のない人は本当の強い人であるがゆえに、剛直でいられます。ゆえに、よくない団体・集団のよくない風習に染められずに済み、左右されずに堂々と屹立(きつりつ)できます。

 本物の仁者であれば、彼を見た人のなかから多くの人が、心で敬畏(けいい)の念を抱きます。この「人多畏」の「畏」は、けっしてその人の権勢に畏懼(いく)するのではありません。この「畏」は仁者の威儀を見たとたんに、心から感服させられるということです。この仁者の「仁」について、古人は「仁者(じんしゃ)無敵(むてき)」を説いていました。仁愛の気持ちをもっている人の心の中に、対立・敵対する人はいません。仁慈・仁徳の心の持ち主には、必ず、人を愛せます。人を愛せるから、人の過失を寬恕(かんじょ)することができます。寬恕の心を持っているから、人のことを受け入れられ、包容でき、仲良くすることができます。


簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
一部の内容は念仏人さんのブログによります、心から感謝いたします。
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『弟子規』日本語解説(81)

2018年11月15日 | 『弟子規』日本語解説
同是人 類不齊 流俗眾 仁者希
tóng shì rén lèi bù qí liú sú zhòng rén zhě xī
【解説】同樣都是人,品行高低各不同。追求潮流的人很多,而有仁德的人卻很稀少。
【和訳】同じ人間であっても、いろいろな違いがあり、品行(ひんこう)の程度も異なっています。通俗的(つうぞくてき)な潮流(ちょうりゅう)に流れていく人は多く、仁徳(じんとく)のある人は極(きわ)めて少ないです。



●簡単解説:
 ★この「類不斉」(いろいろな違いがあり、多種多様です)は習性の相違を指しています。人間の本性は「人之初、性本善」のように、皆同じく至善であります。ゆえに、孟子は「人皆可以為堯舜」(人皆以て堯舜(ぎょうしゅん)と為る可(べ)し)〈人は皆堯・舜になれる〉と仰いました。それならば、なぜ、この「類不斉」の現象があるのでしょうか。原因は、後天に受けた教育の不同からです。生まれてから、良好な聖賢教育を受けていなければ、もともとの本性が覆い隠されて、不良な習性というものが増長してきます。このようなことを分かれば、私たちにも自信が生まれてきます。それはなんの自信ですか。私たちも聖賢になれるという自信です。私たちももともと聖賢と同じような本性であって、言わば、私たちももともと聖賢であったのです。現在は違いますが、それは習性が生じてきたからです。ゆえに、凡夫も、釈迦牟尼仏、孔子のような聖賢の教育をきちんと受け、学ぶことによって、自分自身を改造し、習性を捨て、放下すれば、本性が現れてきます。それで、聖人にも賢人にもなれるのです。ゆえに、私たちに自信がつきます。本当に、だれでも聖賢になれます。

 しかし、現代社会には、聖賢教育が廃れて危機的な状況にあって、倫理道徳の提唱・実践がともに廃退しています。ゆえに、現代の人の心はより多く汚染されています。その結果として、「流俗衆 仁者希」(凡人俗人はとても多く、聖人君子は実に少ないのだ)という現象が生まれてきています。

この地球上の現在の状況では、確かに、凡夫が多く、聖者・仁者が少ないです。ゆえに、聖人はよく凡夫に誹謗中傷されます。聖人を褒め称える人であれば、その人も聖人であるに違いないです。

凡人俗人は聖賢になる雄志がなく、道徳心を磨き人格を高める志もなく、名利の競争の中で、来る日も来る日も、自分の衣食住のみを考え、飲食、男女などの欲望のために、私利私欲のためにぼんやりと過ごしています。そして、もとはといえば、この地球という星でさえ、いつか必ず崩壊することから、人間も死ぬときに、自分の貪愛と欲望のために、必死に争って手に入れたもののなに一つも持っていけません。一生の時間を儚く無駄に過しただけであります。これは「流俗」です。
「仁者」はどのような方でしょうか。エゴのない人物です。本当に大公無私な人です。すべての他者を自分と見なしています。このような人物は仁者です。これは私たちのほんらいの姿(本性)であります。

本来、すべては一体であるのです。一体であるから、自己中心・私利私欲という観念は間違いであって、宇宙の客観的な規律と合致せず、人間の間違った妄念であるにすぎません。その争い、他者を傷つけ、貪欲、怒り、嫉妬、傲慢、因果応報を信じない愚かさ、常に損得勘定をし、他者に対する勝ちたいなどといった間違った妄念ばかりの妄心を使っていれば、自然と、その人生でたくさんの苦痛を味わい、多くの不運に遭遇します。それだから、普通、凡人俗人は本当に、とても苦しくて、悩みの多い一生を送っています。

しかし、仁者は、エゴがなく他者に奉仕でき、謙虚で自省ができ、仁義、孝行、真誠、慈悲、清浄、平等な真心を持ち、宇宙万物と同体であるので、本当に「楽」であります。孔子のおっしゃる「楽以忘憂」(楽しみて以て憂(うれ)いを忘(わす)る)のようで、実に楽しいです。



簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
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『弟子規』日本語解説(80)

2018年11月05日 | 『弟子規』日本語解説
親仁
qīn rén
【解説】親是親近,仁即仁者,指有道德、有學問的人,泛指善知識。親近仁者,以師事之,要跟他學習,提高自己的德行和學問。
【和訳】「親」とは親しくすることで、「仁」は道徳、学問がある人を指します。つまり仁徳のある人や聖賢(せいけん)の教えに親しんで学び、自分自身の徳(とく)と学問を磨(みが)き高(たか)める。

●簡単解説:
★「親仁」(仁に親しむ)することは大きな福であるのです。仁は、道徳が高く、仁慈、仁徳な人のことです。このような方を仏家では仁者と呼びます。つまり菩薩のことです。「親仁」は善知識・善友に親しみ見習うことです。善き師、善き友、善き書を持つことによって、人生は幸福になれ、成功もできます。さらに、その善き教えを実践・実行することによって自分自身の道徳・霊性を高めることができ、聖賢のような人格を成就することができます。

  しかし、いったいどこでそのような善知識に出合えるのでしょうか。意外と、かなり難しいです。しかし、本当に出合いたければ、古人のやり方を見習えばよろしいです。たとえば、孟子が生まれたときには、孔子がとうにこの世を去っていたのですが、孟子は孔子の立派な道徳・学問を非常に尊敬して憧れていたので、孔子を師として仰ぎ、その書籍を拾い集めて学び、孔子に私淑(ししゅく)しました。それで、孔子は『至聖先師(しせいせんし)』と尊称されていて、その「至聖」に次ぐとして、孟子は『亜聖』と称されるようになりました。



 したがって、この一生でたとえよい師匠に出合えなくても、善き経典が私たちのもっとも善良、最も忠実な善友・善知識になれます。これは古徳が教えてくださった「古人を尚友(しょうゆう)する」ということです。「尚」は高尚、尊崇(そんすう)です。遠く昔の古人と友になり、聖賢と友になることです。実に悦ばしいことです。古人がその経典のなかにいます。その経典を読むときはつまり古人と会話するときであって、仁者に親近するときであるのです。仏教であれば、仏経典を読むときは、仏菩薩と友になるときであります。どんなに清貧な生活であろうと、どんなに質素な家と食事であろうと、ひとりで、灯光の下で聖賢の経典を広げ、心を静かにして、その高論を傾聴するばかりです。聖賢の心が純浄、純善であり、そのような方と時空を超え、友となり、心が通じ合い、呼吸を通わせ、智慧と生命をともにすることは、悦びに満ち溢れた至福の時です。その教えを読んでいくうちに、だんだんと自分も慈しむ心、敬う心が生まれ、知らず知らずのうちに自分も聖賢になったのです。

 このようにして、善知識に親しんで学び、自分自身の徳を磨き高めていきます。善知識の書物を読み、その聖賢の教えを守り、実践・実行できれば、はじめて、自分にも是非善悪・利害得失を正しく判断できる真実な智慧という能力を持つことができるでしょう。

 しかし、今の時代では、人間のもっとも大きな問題は自分自身に対しての認識不足です。自分の過ちをまったく知らずにいて、認めようともしません。ゆえに、古徳がよくこう仰っていました「聖人には欠点だらけであるがゆえに、聖人と呼び、賢人には欠点が聖人より少し少ないことから、賢人と呼び、凡夫にはまったく欠点がありません」。なぜでしょうか。凡夫が自分に問題があると認識できないからです。ゆえに、まったく問題はありません。自分が全部正しいです。賢人は自分の問題点の一部を知っていて、聖人は自分のすべての問題点を分かっています。問題があることを分かれば、はじめて改めることができるのであって、自分の問題点さえ知らないのであれば、改めようがありません。そのため、もし「実は、あなたにこのような問題点があります」と苦言を呈すると、相手が絶対に認めないであれば、その相手がただの凡夫であることを判断できます。菩薩でもなく、聖人でもありません。なぜならば、菩薩、聖人であれば、欠点だらけであると常に自分自身を自省しているからです。「人貴知過」(人は過を知るを貴(たっと)ぶ)、「知過能改」(過を知りて能(よ)く改(あらた)む)であるように、自分の過ちを認めずに、その過ちにまったく気づかないような人間であれば、大変なことに、もう救いようがありません。仏菩薩でさま彼を助けられません。自分自身の過ちを知る人であれば、まだ助けることができます。
 


簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
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『弟子規』日本語解説(79)

2018年11月02日 | 『弟子規』日本語解説
勢服人 心不然 理服人 方無言
shì fú rén xīn bù rán lǐ fú rén fāng wú yán
【解説】用權勢去欺壓別人,別人會口服而心不服。用道理去說服別人,別人才會無話可說。
【和訳】権威(けんい)で人を従(したが)わせると、人は心から納得できず、不満を持つもので、道理をもって説得すれば、人は不平不満の声を上げないでしょう。



●簡単解説:
★自分の財力・地位と権力を笠に着て、高圧的な態度で人を押さえつけてコントロールしようとすれば、面従腹背(めんじゅうふくはい。うわべだけ従うふりをし、内心では反抗心を抱く)になることだけであって、道義、仁義の道理を説き、正しい道理をもって人を教え導くことで、初めて人が心服するものであります。

★仏教で説かれている「一切の衆生に皆仏性がある」のように、儒教も『三(さん)字(じ)経(きょう)』の冒頭に「人之初、性本善、性相近、習相遠、苟不教、性乃遷」(人(ひと)の初(はじ)め、性本(せいもと)善(ぜん)。性(せい)相近(あいちか)し、習(ならい)相遠(あいとお)し。苟(いやし)くも教(おし)えざれば、性(せい)乃(すなわ)ち遷(うつ)る)〈人の生れた初め、その本来の性というものは何れも至善である。本性は相似(あいに)かよっているものの、習慣によって遠く隔(へだ)たってしまう。もし教え導かなければ、ますます至善な本性からかけ離れてしまう〉を述べられています。人の本性・自性はもともと、皆同様に至善・円満であります。しかし、生まれてから後におかれた環境のなかで習い覚えたものは習慣となり、「習慣は第二の天性なり」のように、その長期間にわたり身にしみついた習慣は人の習性となります。この習性は正しい教えがあるかどうかによって、善や不善なものとなり、人それぞれで、大きくかけ離れているものになります。

人の習性は善であるかどうかは、「朱に交われば赤くなる」のように、正しい教育がある環境にいるかどうかによって、良くも悪くなります。ゆえに、教えること、すなわち教育することはとても重要であります。そのため、中国五千年来の歴史のなかで、もっとも教育を重視していました。「建国君民、教学為先」(国を建て民(たみ)に君(きみ)たるには、教学を先と為(な)せり。すなわち、国を建設し、国民を統率するに当たって、教育に力を入れることが何よりも一番大切である)と提唱していました。人は教えによって、いくらでもよくなるものです。
それでは、何をもって教えるのでしょうか。そのため、儒家は「作之君、作之師」(之が君と作(な)し、之が師と作(な)る)、さらに、「作之親」(之が親と作し)と、つまり、「君・親・師」となることを推し進めていました。いかなる一人の人間もこの「君・親・師」の役目を担っています。「君」はリーダーまたはリーダーのようです。大きく国の指導者から、会社の社長、部署・部門の上司や一家の家主に至るまで、この団体をどういう方向、どのような目標へ導くのかです。さらにその意味を押し広げれば、自分が品行方正で職務を果たし責任を尽くしている良い模範になることをもって、他人になんらかの良い影響を与えることも「君」であるということになります。次の「親」は父母や父母のようです。父母に家族を養う義務を持ちます。つまり、生活を支える責任があります。その意味を押し広げて、他人を自分の子女のように親切に接して、思いやることも「親」であります。そして、「師」は教えることです。よく教え導くことです。自ら率先垂範して道徳的な行動を示すことです。このようにして、どのような身分や地位であっても、「作之君、作之親、作之師」ができます。





簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
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『弟子規』日本語解説(78)

2018年11月01日 | 『弟子規』日本語解説
待婢僕 身貴端 雖貴端 慈而寬
dài bì pú shēn guì duān suī guì duān cí ér kuān
【解説】對待下屬或僕人等身份低微的人,最重要的是自身品行要端正。品行端正固然重要,對人還要仁慈寬厚。
【和訳】目下の人や使用人など社会地位の低い人間に対して、最も重要なのは自分の品行(ひんこう)を正すことです。その上で、慈愛(じあい)と寛容(かんよう)の心を持つべきです。



●簡単解説:
★『論語』が「君使臣以礼、臣事君以忠」(君(きみ)、臣(しん)を使(つか)うに礼(れい)を以(もっ)てし、臣(しん)、君(きみ)に事(つか)うるに忠(ちゅう)を以(もっ)てす)と教えているように、上に立つ者は、自らの徳行を高めて、目下に対して、礼儀・礼節をもって尊重し、配慮し、思いやりをもって接し、道理と道義を教え導きことができれば、情けは人の為ならず、目下も業務や役割を従順、忠実にこなすことができるでしょう。

逆に、目下に思いやりがなく無情・無慈悲で容赦なく対応し、酷く扱い、厳し過ぎれば、だれ一人からも心服されず、面従腹背の結果しか得られないでしょう。同じように、自分の財力・地位と権力を笠に着て、高圧的な態度で人を押さえつけてコントロールしようとすることも、最終的には、人心を失い、いつか離反されることに繋がるだけです。

古人がよく教えてくださった「苛刻(かこく)な人は最も福のない人である」のように、薄情、冷酷・残酷に他人を扱う人はとても薄幸の人であるのです。まして、国の君主や会社の社長、一家の家主はこのような福のない不運な人物であれば、その率いる国・会社・家庭の運命も実にとても危ういのです。ゆえに、ぜひ人に仁慈な、寛恕な心をもって接するべきです。



簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
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