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『みんなの塾』

素敵な言葉、善いものをみんなと一緒に学びましょう。
時は金なり。金は時買えぬ。「一寸光陰一寸金、寸金難買寸光陰。」

『弟子規』日本語解説(87)

2018年11月27日 | 『弟子規』日本語解説
但力行 不學文 任己見 昧理真
dàn lì xíng bù xué wén rèn jǐ jiàn mèilǐzhēn
【解説】如果只是賣力去做,卻不肯學習以提升自己的智慧,就會固執於自己的見解,而無法正確判斷事物的真偽,理解真正的道理。這也是不對的。
【和訳】ただ盲目的(もうもくてき)に物事を頑張ってやるだけで、上を目指して学問を学ばなければ、自分の見解に固執(こしつ)して、正確に物事を判断できず、正しい道理は理解できなくなってしまいます。
●簡単解説:
★『朱子治家格言』に「子孫雖愚。経書不可不読」(子孫愚(ぐ)と雖(いえど)も、経書(けいしょ)読(よ)まざる可(べ)からず)と述べられているように、これは、子孫たる者は、智慧がなくでも、人の道を書いたほんを読まなければならないということです。智慧がなくても、経書を読んで、人の道を知って、その教えの通りに身をもって実行しなければならないことです。


(作者:朱柏庐(1617~1698))

 ★明代の顔元(えんげん)がこんな言葉が言いました。「為學為教,用力於講讀一二,加功於行者八九」(学ぶ者も、教える者も、講義や読書などの学びだけに力に入れたら、一かニ割の利益しかもらえない、実践実行に努力する者は、八か九割の利益がもらえます。)その言葉の通りに、学びと実践は共に重要です。学ばなければ、どっちがよい方向、どれが善いやり方が分からず、大きな過ちをしてしまうかもしれません。善い教えに出会い、しっかり学び、そして学んだ知恵を使って自分自身の人生を指導して実行するこそ、幸せな人生が送れます。



(颜元(1635年—1704年),明朝末年儒家、思想家、教育家,颜李学派创始人)


簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
一部の内容は念仏人さんのブログによります、心から感謝いたします。
ブログをご覧になっている皆さんとご一緒に学ぶことができて、本当にうれしいです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


『弟子規』日本語解説(86)

2018年11月26日 | 『弟子規』日本語解説
不力行 但學文 長浮華 成何人
bú lì xíng dàn xué wén zhǎng fú huá chéng hé rén
【解説】如果所學的倫理道德不能實踐力行,只一味讀死書,容易養成華而不實的習性,不能成為一個真正有用之人。
【和訳】倫理(りんり)道徳を実践せず、知識だけを学ぶならば、実際の学問が伴(ともな)わず、うわべだけを飾(かざ)った、世に役に立たない人間になってしまいます。



●簡単解説:
★今の学校はほとんど、成績だけを重視していて、子どもの道徳教育を重視していません。それで、ある現象が生まれてきました。それは、勉強の成績、学歴さえよければよくて、人間的には、だんだんと浮かれて、傲慢になり、品行のほうがますます下落していく現象です。
「聖賢教育の倫理道徳を実践せず、書物の知識だけを学ぶならば、実際の学問が伴わず、邪知、邪見がいっぱいで、うわべだけを飾った、傲慢な人間」を、古代では「偽君子」と呼ばれています。
★ここで、「餘力学文」、「但学文」の「文」の意味を勉強してみましょう。『論語』に、「子貢問曰。孔文子。何以謂之文也。子曰。敏而好学。不恥下問。是以謂之文也。」(〈公冶(こうや)長(ちょう)第五〉。子(し)貢(こう)問(と)いて曰(いわ)く、孔(こう)文子(ぶんし)は何(なに)を以て之(これ)を文(ぶん)と謂(い)うや。子曰く、敏(びん)にして学を好み、下問(かもん)を恥じず、是(ここ)を以て之を文と謂ふなり。)という文がありました。つまり、かつて、子貢が孔子にたずねたことがありました。「孔文子はどうして文というりっぱなおくり名をされたのでしょうか」。孔子は「天性明敏なうえに学問を好み、目下のものに教えを乞うのを恥としなかった。そういう人だったから文というおくり名をされたのだ」とお答えになりました。
つまり、学文の文は「敏而好学。不恥下問」であることです。「敏」は聡明です。聡明な人はよくおごり高ぶって、なかなか人の教えを聞きたくありません。自分のほうが一番偉いのだと思い込んでいます。このような人を「文」と言えません。
聡明でありながら、謙虚・勤勉で学問を好む者を「文」と言います。さらに、学んだものを身にもって実行し、自分自身の誤りを改めることができれば、これは聖賢の学問となります。
孔子様はかつて「子曰。十室之邑。必有忠信如丘者焉。不如丘之好学也。」(子曰く、十室(じっしつ)の邑(ゆう)、必ず忠信(ちゅうしん)丘(きゅう)の如(ごと)き者有(あ)らん。丘の学を好むに如(し)かざるなり。)と仰いました。孔子は聖人です。聖人と凡人の違いはどこにあるのでしょうか。
孔子は、十戸ほどの小村にも、忠実で信用があるという徳行だけのことならば、孔子と同じくらいの人はきっといるでしょう。しかし、学問を好み愛して道に精進している点では、私以上の人はめったにないのだと答えられました。
つまり、忠信の品行は孔子様と同じように実行できていても、孔子様のように好学しなければ、聖人にはなりません。そのために、聖賢になるにはかならず「学文」をしなければなりません。


簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
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『弟子規』日本語解説(85)

2018年11月24日 | 『弟子規』日本語解説
餘力學文
yú lì xué wén
【解説】通過學習如上課程,將孝、悌、謹、信、汎愛眾、親仁等六種德行銘記於心,力行實踐,還有多餘的時間精力,就要好好的學習知識、技能等其它有益的學問。文以載道。
【和訳】前章の「孝、悌、謹、信、汎愛衆、親仁」という人間として備(そな)えるべき六つの徳行(とっこう)を身につけ、実践実行できてから、さらに時間と余力があれば、初めて技術や芸術などの知識・技能、有益な学問を学ぶべきです。「文を以(もっ)て道を載せる」であります。



●簡単解説:
★「孝」、「悌」、「謹」、「信」、「愛衆」、「親仁」を行い、最後は「学文」(文学・文芸を学ぶ)をします。仏教では、「学文」はほかではなく、経典を勉強することを指しています。経典に通じれば、自然に「文学」を通じます。

 しかし、この「学文」を最後の位置に置かれています。徳行である「孝、悌、謹、信、愛衆、親仁」を先に置かれています。徳行はすべての基礎です。このような基礎がなければ、「学文」、文芸(ぶんげい)(学問と芸術)を学んでも、メリットがあまりなく、真実な功徳やご利益を得ることもできません。しかし、もし、徳行があれば、さらに、最後にこの「学文」をすれば、自分が享受できる充実な精神的な生活を得られます。同時に、学んだ文芸を利用して、人々を教化でき、仏法や倫理道徳を押し広めることができます。このようにして、自利である同時に利他ができます。そして、利他が本当の自利にも繋がります。

★「孝、悌、謹、信、愛衆、親仁」は実際に聖賢の教えを努力して行うことです。その実践・実行することによって、自分自身を高めていきます。聖賢の教育では、「学文」は、聖賢の経典を学んで聖賢の教えを実践・実行できるように、導き助けることができます。経典を学べば、道徳倫理の実行することに、正しい方向を与えてくれます。

 そのため、聖賢経典の勉強は実に重要なことであります。「余力があれば」という文言があるからといって、「わたしにはそのような余力がないから、聖賢の経典を学ばなくてもいいのだ」と思うのは違います。

 ここの「さらに余力があれば」との言葉は、「孝、悌、謹、信、愛衆、親仁」を実行することを強調するためのものであります。やはり、「孝、悌、謹、信、愛衆、親仁」の実行を助けることができる聖賢の経典も学ぶべきです。

 このように、「学文」と「孝、悌、謹、信、愛衆、親仁」の実行は相互に補完しあっていて、どちらも欠かせないものであります。実行は日常生活のなかで実際に教えを守り、行うことです。「学文」は行うべき道を理解、知ることです。共に大事なことであります。


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『弟子規』日本語解説(84)

2018年11月22日 | 『弟子規』日本語解説
不親仁 無限害 小人進 百事壞
bù qīn rén wú xiàn hài xiǎo rén jìn bǎi shì huài
【解説】不親近品德高尚的仁者,不學習聖賢學問,就會有無限的害處。小人就會乘機接近,很多事情會因此而不能成就。
【和訳】仁者(じんしゃ)・聖賢(せいけん)の正しい教えを学ばなければ、実に多くの弊害(へいがい)が起こります。正しい教えを知らないから、物事の正邪(せいじゃ)善悪(ぜんあく)の判断がつかず、悪い人や悪い教えなどいろいろな誘惑(ゆうわく)が寄ってきて、失敗の原因になってしまいます。



●簡単解説:
★悪い人や悪い教えから遠ざけるべきです。悪人の場合は、あなたがいくら改めるようと説得しても、おそらく、今まだすぐ直らないでしょう。ゆえに、しばらくそのまま放っておくしかないです。これも仕方ないことです。

 善人や良い教えと一緒にいる場合は「芝(し)蘭之室(らんのしつ)」に入ったようなものです。これは、『孔子家語(こうしけご)』六本篇に出典する「与善人居、如入芝蘭之室、久而不聞其香、即与之化矣。与不善人居、如入鮑魚之津、久而不聞其臭、亦与之化矣」(善人と居(お)るは、芝蘭の室に入(い)るが如(ごと)く、久しくしてその香を聞かず、即ち之と化す。不善人と居るは、鮑魚(ほうぎょ)の肆(し)に入るが如く、久しくしてその臭(しゅう)を聞かず、即ち之と化す)の言葉です。つまり、芳香の漂う芝(し)蘭(らん)(香りがよい草花)を飾る部屋に入るように、とてもよい香りします。ずっとそこにいれば、だんだんと、その香りに気付かなくなります。なぜでしょうか。皆さまにもそのような経験があるのでしょうか。たとえば、仏前で香を焚きます。李老師(「常礼挙要」から)はいるもよいお香を焚きます。とてもよい香りを匂います。しばらくそこにいると、どれほどのよいお香も匂わなくなります。なぜこのようにして「久而不聞其香」(久しくしてその香を聞かず)になるのですか。「即与之化矣」(即ち之と化す)であるからです。つまり、鼻の嗅覚も香りと一体になったからです。ゆえに、芝蘭の室に長くいると、あなたも芝蘭(性質・才能・人徳のすぐれた人のたとえでもある)になります。人がよいほうに変ります。このような比喩を使っています。

 逆に、悪人と仲良くしていたら、これは、魚市場でも行くような感じです。「鮑魚の肆」とは魚の干物を売る店のことです。私たちは日頃、魚市場に通っただけでも、そのむっとするような生臭さを感じています。魚市場で働く人に聞いてみたら、彼らはまったくその悪臭を感じないと答えます。なぜ、彼たちに臭わないのでしょうか。「久而不聞其臭、亦与之化矣」(久しくしてその臭(しゅう)を聞かず、即ち之と化す)からです。その生臭さと一緒になって、混ざっているからです。

 このようなたとえをつかって教えてくださっていることは、人が実に身におかれている環境に染まれやすいです。その伝染力が非常に強いものであります。それがゆえに、必ず小人・悪人や悪い教えから遠ざけて、必ず、君子・善人に近づくべきです。

とくに小人の場合は、あなたが彼(彼女)と近づけば、不遜な態度が出て来ます。仕方がないから、少し遠ざければ、今度、彼(彼女)が逆恨みをします。「そのだれだれのことを見てみない。以前私と仲良かったのに、今、金持ちになって、地位も高くなったから、すぐ私と行き来しなくなったの……」などと恨み節を並べ立てます。それだから、小人に近づければ、実に面倒なことが起こります。不愉快にさせられたり、時には、失礼なこともされたりします。遠ざければ、今度、あなたに怨みを抱くようになります。本当に困ったものです。近づけてはいけないが、遠ざけてもだめです。仕方がありませんから、敬遠するしかありません。「敬鬼神而遠之」(鬼神(きしん)を敬(けい)して之(これ)を遠(とお)ざく)のように、彼(彼女)を鬼神と見なして、会った時は、多くの敬意を払い、丁寧に扱いましょう。



簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
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『弟子規』日本語解説(83)

2018年11月20日 | 『弟子規』日本語解説
能親仁 無限好 德日進 過日少
néng qīn rén wú xiàn hǎo dé rì jìn guò rì shǎo
【解説】能夠親近品德高尚的仁者,學習聖賢學問,就會得到無限的好處。德行就會一天比一天增進,而過失就會一天比一天減少。
【和訳】仁者(じんしゃ)・聖賢(せいけん)に親しみ学び、教えを守り、実践できれば、無限(むげん)の益(えき)をもたらしてくれます。道徳・学問は日ごとに高まり、欠点・過ちは日ごとに減少することができるからです。



●簡単解説:
★聖人君子は少ない現実生活環境では、仁者・聖賢にいったいどのようにして親近しますか。その大切な方法の一つは経典を読むことです。聖賢が子孫である私たちのために、残した経典を読誦することはすなわち聖賢に親近することであって、聖賢と友人になることであります。経典を開けば、聖賢の近くにいることとなります。このようにして「親仁」して、仁義、因果応報の理論、十善などを学び守り、自分自身を救います。自分が助かったら、今度、自分の家庭を救います。家族から、親戚、友人、近隣の人、同郷の人などを、だんだんと、多くの人を助けることができるようになります。一人からはじめ、最後、社会、国家、世界までを救えます。すべて自分自身からスタートさせることです。自分の心から始めます。自分が「今日から、すべての良くない習慣を直します」と大いに決心しましょう。その良くない習慣の中で、一番多くて、一番大きなのは、時間を無駄に使うことです。それで、命、人生が無駄に費やされています。一日24時間でいったい、何をしたのでしょうか。重要でないことばかりしたてはありませんか。本当に自分に一番有益なことをなにもしていないではありませんか。

「親仁」は人生にとって一番大事なことであるのです。ゆえに、『弟子規』に「能親仁 無限好 德日進 過日少」(仁者(じんしゃ)・聖賢(せいけん)に親しみ学び、教えを守り、実践できれば、無限(むげん)の益(えき)をもたらしてくれます。道徳・学問は日ごとに高まり、欠点・過ちは日ごとに減少することができるからです。)と説かれています。
 仁慈の人はどこにいますか。経典にいます。ぜひ、より多くの時間を使って、できるだけ、古の聖賢に親しみましょう。聖賢の書物を読めば、気質が全然違ってきます。本当に決意し、半年でも読み続けば、法楽に満ち溢れる気持ちになれます。一年間も読み続けば、あなたはきっと悟ります。

(下記の内容は浄空法師様の説法によります)

 ★現代の誘惑が実に多すぎます。テレビ、インターネットなどのマスメディアの誘惑は本当に強いものであります。私は一切見ません。新聞・雑誌の誘惑もまったく見ません。私のほうから、これらかのマスメディアの誘惑を拒絶しています。私は、仏法を勉強し始めた最初の何年間、まだ少し見たりしていましたが、それ以降、とくに出家してから、まったく見なくなりました。もう、それらの汚染を受けいれません。しかし、生徒達のなかにも熱心の人がいまして、彼たちは、ネットなどから、世界の重要な出来事を印刷し出して私の所に持って来てくれています。

私は、このようにして、自分自身を守ることができています。

さらに、私は賑やかなところや人の多い場所にも足を踏み入れません。ゆえに、私の生活範囲はとても狭いです。大きな都会のなかに住んではいますが、この都会のどこもあまり知らないのです。唯一知っている道は私の住む所から講経する道場までの道路です。この道だけに比較的に詳しいです。他の道路をまったく知りません。

このようにして、シンプルで単純で生きれば生きるほどよいのです。なぜでしょうか。なんといっても、もし「今日は如何ですか?」と私に聞けば、きっと、「天下泰平です」と答えることでしょう。本当に、なにこともありません。平穏無事穏やかそのものです。もし、マスメディアをばかり接触していれば、きっと、「天下大乱です」となるでしょう。

それがゆえに、私のこの一生の暮らしは、本当に、日々是好日(にちにちこれこうじつ)です。毎日、まったくの太平治世であります。悠々自在です。本当に、この通りです。
そのうえ、私が毎日会う人も皆同じ仏道を修行する人ばかりで、皆善人であります。まさに、『仏説阿弥陀経』が説く「諸上善人倶会一処」(諸上(しょじょう)善人(ぜんにん)と倶(とも)に一処(いっしょ)に会(え)する)のようです。喜ばずにいられません。自由自在を感じずにいられません。

ゆえに、このような社会のなかでも、これほどの太平治世の生活を送られ、善人と一堂に会する喜び時を得られるということは、すべて、自分自身が「一心制(いっしんせい)意(い)」(心を一つにして、意を制する)ができるからです。つまり、一心にして自分の意念を自制・制限して、少しもの悪念邪念を生じさせないようにすることです。だれでも、これをできれば、このような素晴らしい生活を送ることができるでしょう。

★ 仁者・聖賢のような大善人に必ず親近するべきです。なぜならば、近くにいられてこそ、学べるからです。なおかつ、その方に生涯変わらぬ敬意を抱き続けることもとても大事であります。もし、大善人であることを知りながらも、彼を尊敬しないでいれば、その聖賢の方も自然と淡々と接してくるでしょう。いわゆる、「交浅不可言深」(交わり浅くして深きを言うべからず)のお言葉であるように、付き合いが浅ければ、包み隠さず深い話も話してはいけないものです。

 そして、聖賢の教えをむやみに批判してはなりません。比較してもなりません。ある時、私がインドネシアに行きました。そこのイスラム教大学から名誉博士号を贈られ、大学でその授与式(卒業式でもあった)に出席するためです。授与式が終わり、私は校長先生と一緒に会場のホールから出て、大学キャンパスの庭で散歩していました。そこ時、校長先生からある話を聞きました。それは「私たちの大学に『比較宗教学』という科目があります」。私がそれを聞くとすぐ校長先生に報告しました。「宗教を比較してなりません」。校長先生が理解しがたい様子で私を見ていました。

なぜ比較してはいけないでしょうか。私は「どの宗教の教祖も大徳、大智の持ち主であります。私たちの智慧と道徳は、どうしてその方たちと比べることができるのでしょうか。イスラム教大学ではイスラム教を信じています。ここの生徒、先生方、誰一人が、ムハンマドより優れているでしょうか、それとも、イエス・キリストよりも優れている人がいるでしょうか、また、釈迦牟尼仏より優れているのでしょうか。本当です。誰一人も彼たちのような智慧がありません。彼たちのような智慧ももっていなければ、彼たちの道徳とも比べものになりません。それなのになぜ、彼たちの教学を批評できるのでしょうか」と言いました。校長先生もだんだんとお分かりになられたようで、「それでしたら、どうしましょう」?私は答えました。「比較するのではなく、学ぶのです。どの宗教の経典も学びます。なぜなら、彼たちは聖人であって、その大徳・大智がすべて私たちの上にあるから、皆、私たちの先生であります。私自分自身も、仏法を学ぶときには、私は釈迦牟尼仏の弟子であると思います。同時に、私はイエス・キリストの生徒でもあります。私は『聖書』も読みます。さらに、私はムハンマドの学生でもあって、私は『コーラン』も勉強します。私には、勉強する身分のみであって、批評する資格はありません。素直で、老実にこれらの仁者に親しみ、『能親仁 無限好』のように、徳行の高く、智慧のある先輩方の教えを受け入れて、自分の道徳・智慧を成就させます。このような姿勢は正しいです。そのため、学校のこの『比較宗教学』科目の名前を『多元文化の課程』に変えたほうかよいでしょう。多元文化を学ぶべきです。批評するような、比較するようなことをしてはなりません。清浄な心、平等な心、真誠な心をもって、その教えを受けるべきです。そうすれば、自分自身が大きな利益を得ることができます」。

今この時代、交通が便利で、通信手段・情報伝達方法も発達していて、地球は本当に地球村のようになっています。現在地球上でいかなる小さな場所で発生したことも、どれほど小さなことであっても、マスメディアの報道、SNSの拡散などがあれば、すぐさま、全世界の人に知られます。ゆえに、地球を地球村と呼ぶ人がいます。確かその通りです。地球は今、一つの村よりも、一家になったような感じがします。関係が家族のように密接になっているからです。そのため、私たちは、今、改めて、自分たちの「地球家族」を認識しなければなりません。今、この星に住んでいるすべての人類は、私たちの家族であります。

以前、今のような交通手段・通信手段もなく、本当に、「民至老死不相往来」(民(たみ)老(ろう)死(し)に至(いた)るまで、相(あい)往(おう)来(らい)せざらしむ)の通りで、人々は年老いて死ぬまで、隣の村・県や国と一度も往来することがありませんでした。ゆえに、それぞれが住んでいる地域で、それぞれの文化が出来ていました。もちろん、それも当時にとっては、合理的なことであります。現代になると、科学技術が発達しているので、その細々とした各地域・各国のそれぞれの文化を全部繋げて、一つにして、地球全体の文化として変貌させました。これは事実です。私たちはこの事実を受け入れなければなりません。決して、分裂させたり、対立させたりするようなことをしてはいけません。対立、排斥、衝突をすれば、玉石倶(ぎょくせきとも)に焚(た)くという結果になるのみです。これは間違いです。

現在のこの時代では、「私たちは一つの村です。どのようにして団結できるのか」を、や「私たちは一つの家庭です。どのようにして和睦を結び、仲良く付き合い、尊重し合い、敬愛し合い、協力しあえることができるのか」を、講じるべきです。提唱するべきです。すべての宗教もこのことを提唱するできであって、すべての民族・団体もこのようなことを勧めるべきではありませんでしょうか。国家、宗教、民族、団体、皆よく行き来して、互いに訪問して、見学し合い、学び合い、話し合い、文化の中で、生活のなかで、求同存(きゅうどうそん)異(い)(小異を残して大同に就く)をして、異なる点はとりあえず残しておいて、同じところを、皆一緒に勉強して、共に努力してやり遂げましょう。

たとえば、「親を大事にする、目上や師長を尊敬する」について、どの宗教もこのようなことを教えています。すべての宗教は「愛」を説かれています。キリストは世の人を愛しています。神さまも世の人のことを愛しています。アラーは仁慈であります。仏陀も慈悲であります。一文字の「愛」で、すべての宗教を団結することができます。愛がなければ、宗教ではありません。慈悲がなければ、仏法ではありません。

このように、「愛」の心をもって、団結して、共に向上すれば、地球人は幸せになれます。幸福と円満な人生は全人類のものです。どれか一つの民族や団体だけのものではありません。

ゆえに、以前から、私がいくたびもある願いを述べてまいりました。本当に、いつか、そうなりますようにと心から願っております。その願いはこのようなものです。ある日、ある時で、すべての国は一つの大きな宗教大学をお持ちになって、その大学のなかで、すべての宗教がそれぞれ一つの学院・学部を設けていて、それぞれの宗教は一つの大学に集中します。これで、どの宗教の学生も皆同じ母校の出身になります。宗教の違いは、学部の違いだけとなります。皆、同学の身分です。大学授業の中で、『宗教学概論』という科目で、すべての宗教の経典を含ませて、それぞれの重要な部分を紹介するようにします。このようにして、宗教と宗教が密接的に協力、提携しあいます。これは宗教大学です。国にこのような宗教大学があれば、次は、もう一つの大学を作りましょう。それは、「多元文化大学」です。その大学で不同な民族とそれぞれの伝統文化を団結します。

このような願いは本当に実現できれば、その成果は、まさしく、仏経経典の『大方広仏華厳経(だいほうこうぶつけごんきょう)』が説くようになります。『大方広仏華厳経』の経(きょう)題(だい)は一つの比喩です。「華」は「花園」、「大きな花園のよう」との意味です。宇宙はまさしく一つの大きな花園であるように、異なる民族や異なる宗教がそれぞれ種類の違う花のようで、ありとあらゆる美しい花々がこの宇宙大花園のなかで咲き誇ります。色彩豊かな壮大な素晴らしい光景です。『大方広仏華厳経』の経題はこれほどの広い心を表現し、示してくださっています。その心は宇宙を広く包み込み、度胸は世界よりもはるかに広いです。この上なく円満で、美しく、幸せなのです。

『大方広仏華厳経』の中だけに円満の倫理、円満の道徳、円満の因果、円満の科学・哲学があるのではなく、他の宗教も、他の民族、中国伝統文化のなかにもあります。ゆえに、このような時代に生まれただから、高い科学技術のある時代だから、ますます、このような方向へ邁進するべきではないでしょうか。この目標に向かって、努力するべきではないでしょうか。そうすれば、この世界を本当に救えることができます。世界を良くしたければ、唯一の道は、宗教の教育と中国伝統文化の教育です。これらは、この世界に安定と平和をもたらしてくれます。


簡単解説の内容は浄空法師の説法、楊淑芬(ようしゅくふん)居士先生の「弟子規」、成徳法師(蔡礼旭<さいれいきょく>先生)の「幸福人生講座」などの講義内容に参照してまとめたものです。
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