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《幕府山事件》時系列編

2021年02月26日 | 南京大虐殺
2023.07.22 《12月13日》の項に「邵家塘」の場所を追記


第13師団隷下の山田支隊が捕らえた多くの捕虜が結果的に殺害されてしまった「幕府山事件」は、いわゆる“南京大虐殺”の中でも別に固有名詞が付くほどに特異な事案である。いまだに細部が不明瞭なため、論争になることも多い。

この記事では事件現場には立ち入らず、捕らえた捕虜を日本軍の中でどのように取り扱おうとしていたのかを中心に時系列を追って見ていくこととする。





上図は、第13師団とその隷下の山田支隊の進軍路である。この動きを念頭に置いて事態の推移を見ていくと、今まで見えていなかったものが見えてくる。

上図は次の戦闘詳報や『郷土部隊戦記(福島民友新聞社)』などを元に作成した。

第13師団作戦経過一覧図戦闘詳報
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C04123333900


なお、山田支隊とは旅団長・山田栴二少将を指揮官とし、隷下に歩兵第65聯隊 (会津若松、聯隊長・両角業作大佐)、山砲兵第19聯隊第3大隊 (III長・行方正一少佐)および騎兵第17大隊(大隊長・小野良二中佐)を含む。当初編成の山田旅団とは異なり、13師団本隊から別行動をする際に臨時編成された部隊である。





《要点》


1)虐殺命令を出したのは長勇参謀だと一部で言われているが、そうではない。

2)上海派遣軍司令部では、捕虜を一旦16師団に引き取らせ、その後上海に送って労役に就かせるよう手配していた。

3)16師団は、入城式について城内掃討が間に合わず無理だから20日以後にしてくれと言っているのに、中支那方面軍から17日の決行をゴリ押しされてストレスがかかっている。

4)山田支隊は19日に下関から渡河して13師団本隊に合流する予定なのに、16師団から捕虜受け取りを拒絶され、最後の手段として夜間にこっそり捕虜を解放することを画策し、混乱が生じて失敗。




《戦闘序列》


南京戦時の戦闘序列から、幕府山事件に関係する部隊を抜粋する。

南京攻略戦の戦闘序列

(中支那方面軍戦闘序列)
中支那方面軍 (司令官・松井石根大将、参謀長・塚田攻少将、参謀副長・武藤章大佐)
 上海派遣軍 (司令官・朝香宮鳩彦王中将)
 第10軍 (司令官・柳川平助中将)

(上海派遣軍戦闘序列)
上海派遣軍 (司令官・朝香宮鳩彦王中将、参謀長・飯沼守少将、参謀副長・上村利道大佐)
 第13師団 (仙台第13師団の一部、山田支隊)
  歩兵第103旅団 (旅団長・山田栴二少将)
   歩兵第65聯隊 (会津若松、聯隊長・両角業作大佐)
   山砲兵第19聯隊 (聯隊長横尾闊中佐)第3大隊 (III長・行方正一少佐)※南京戦にはIIIのみ参加。
 第16師団 (京都、師団長・中将中島今朝吾、参謀長・中沢三夫大佐)
  歩兵第19旅団 (旅団長・草場辰巳少将)
   歩兵第9聯隊 (京都、聯隊長・片桐護郎大佐)
   歩兵第20聯隊 (福知山、聯隊長・大野宣明大佐)
  歩兵第30旅団 (旅団長・佐々木到一少将)
   歩兵第33聯隊 (久居、聯隊長・野田謙吾大佐)
   歩兵第38聯隊 (奈良、聯隊長・助川静二大佐)

(第10軍戦闘序列)(省略)

南京攻略戦の戦闘序列
https://ja.wikipedia.org/?curid=3309700





《関係者の日記から》


以下、日付を追って関係者の日記などを見ていくが、飯沼参謀長日記からは関係箇所だけ抜粋し、山田旅団長日記は短文なので毎日全文引用する。なお、原文がカタカナである部分はひらがなに置換している。

ただし、山田支隊隷下の65連隊・両角連隊長の「両角メモ」は、戦後に整形して書かれたものなので、この記事では使用しない。




《1937年12月9日》


12月9日、既に南京城を包囲しつつあった日本軍は『投降勧告文』を航空機から城内に散布し、翌10日の正午に回答をするよう呼びかけた。


上海派遣軍司令部は、第13師団(13D)を鎮江で揚子江北岸に渡河させようとしているが、船舶の手配を巡って混乱が生じている。

◇十二月九日 快晴
芳村参謀より13Dを先に鎮江にて渡河せしむとの電報来る。変更せしむる要を認めず認可せり。
13Dに交代すべき11Dの民船数百隻は、13Dの受領遅しとして11Dは之を全部解散せしめ爾後の計画に非常なる齟齬を来しあり非常〔識〕も甚し幕僚勤む上大に注意を要す。
芳村参謀13Dの青津参謀と同伴帰部江陰渡河及靖江攻略の概要を聞き13D主力の爾後の渡江作戦等の打合を為す。青津参謀は其予想渡河点(儀徴対岸付近)の偵察及準備の為先行せるものなり。

(飯沼守日記(上海派遣軍参謀長・陸軍少将)/『南京戦史資料集 I 』)



山田旅団長は、鎮江に向かう途上にいる。

◇十二月九日 晴
連日の行軍故行程をつめ、六里強ニシテ碑城鎮に宿営す、田舎ながら大村にして風呂に入る

(山田栴二日記(歩兵第百三旅団長・陸軍少将)/『南京戦史資料集 II 』)





《12月10日》


この日の正午、南京城内からは前日の「投降勧告」に対して何の回答もなかったため、日本軍は南京城への総攻撃を開始した。


山田旅団長、鎮江に到着。南京まで約60km。

◇十二月十日 晴
連日の行軍にて隊の疲労大なり、足傷患者も少からず
師団命令を昼頃丁度来合わせたる伊藤高級副官に聞き、鎮江迄頑張りて泊す、初めて電灯を見る
鎮江は遣唐使節阿倍仲麻呂僧空海の渡来せし由緒の地、金山寺に何んとかの大寺もあり、さすが大都会にして仙台などは足許にも寄れず

(山田栴二日記)





《12月11日》


この日、13師団の一部から山田支隊を編成し、烏龍山および幕府山砲台を攻略して、16師団隷下の30旅団(33連隊+38連隊)の南京進出を側面支援しろという命令が出たという。

◇十二月十一日
午前九・三〇頃殿下に従い軍司令部出発、湯水鎮西方高地に到り戦況を視、第十六師団長の報告を聞き午後三・三〇過帰部。
尚13Dの歩一聯 山砲一大を以て南京東北方の砲台二を攻略し兼て16D佐々木旅団の進出を容易ならしむべきを命ぜらる。

(飯沼守日記)



山田旅団長にはまだその命令は伝わらず、鎮江の近郊で待機しつつ寒村で食料に困窮している。

◇十二月十一日 晴
沼田旅団来る故、宿営地を移動せよとて、午前一〇・〇〇過ぎより西方三里の高資鎮に移動す
山と江とに挾まれたる今までに見ざる僻村寒村、おまけに支那兵に荒され米なく、食に困りて悲鳴を挙ぐ

(山田栴二日記)





《12月12日》


この日の夕方、南京城では守備兵が潰走し始め、戦線が瓦解した。


上海派遣軍司令部は湯水鎮に前進した。

◇十二月十二日 快晴
朝九・三〇出発湯水鎮軍司令部に移る。

(飯沼守日記)



13師団の一員として鎮江付近で渡河待機中だった山田旅団長に、山田支隊を編成し烏龍山砲台と幕府山砲台を占領せよとの命令が伝わった。この日の夕刻、山田支隊は揚子江の南岸を南京に向けて出発した。

◇十二月十二日 晴
総出にて物資徴発なり、然るに午後一・〇〇頃突然歩兵第65聯隊と山砲兵第III大隊、騎兵第17大隊を連れて南京攻撃に参加せよとの命令、誠に有難きことながら突然にして行李は鎮江に派遣しあり、人は徴発に出であり、態勢甚だ面白からず
併し午後五・〇〇出発、夜行軍をなし三里半余の四蜀街に泊す、随分ひどき家にて南京虫騒ぎあり

(山田栴二日記)





《12月13日》


この日が南京陥落日となり、日本軍の一部は城内に進入した。南京城周辺では潰走する守備兵に日本軍が追撃をかけ、中国側に最大の戦死者数が出る結果となった。


南京に向かっている山田支隊を除く13師団は、海軍の協力を得て鎮江にて翌日から渡河することになった。

◇十二月十三日 快晴
敵の大部は退却し16Dは中山門を入り9Dは光華門より戦果拡張中。敗残兵一中隊許り33iと佐々木支援の中間を東方に退却せりと。
天谷支隊の先頭部隊は本朝上陸に成功せり。13Dも海軍の協力に依り明日より渡江し得る旨芳村参謀より電報ありしを以て南京に向える支隊を除き鎮江にて明日より渡江を命ぜらる。

(飯沼守日記)



山田支隊は第一大隊に烏龍山砲台の占領を命じ、午後にこれを占領した。

◇十二月十三日 晴
例に依り到る所に陣地ある地帯を過ぎ、晴暘鎮を経て前進、霞棲街に泊する心算なりし所焼かれて適当の家なく更に若干前進中、先遣せし田山大隊午後一時烏竜山砲台を(騎兵第17大隊は午後三・〇〇)占領せり、南京は各師団掃蕩中との報あり、直に距離を伸して邵家塘に泊す

(山田栴二日記)


ちなみに、山田旅団長がこの日に宿泊したという「邵家塘」という場所はここ(下図)であると思われる。


(クリックで拡大)





《12月14日》


南京城を占領した日本軍は、この日から城内掃討を開始した。


飯沼日記で見ると、前日の山田支隊の戦果が一日遅れで伝わった。

◇十二月十四日 快晴
13Dの山田支隊は途中約千の敗残兵を掃蕩し四・三〇烏竜山砲台占領、高射砲及重砲十余門鹵獲せり。

(飯沼守日記)



この日の未明、山田支隊は第5中隊に幕府山砲台の占領を命じた。その第5中隊および山田支隊本隊は戦意を失った敵の大部隊の中を進むことになった。これが幕府山事件の捕虜となる。

◇十二月十四日 晴
他師団に砲台をとらるるを恐れ午前四時半出発、幕府山砲台に向ふ、明けて砲台の附近に到れば投降兵莫大にして仕末に困る
幕府山は先遣隊に依り午前八時占領するを得たり、近郊の文化住宅、村落等皆敵の為に焼かれたり
捕虜の仕末に困り、恰も発見せし上元門外の学校に収容せし所、一四、七七七名を得たり、 斯く多くては殺すも生かすも困ったものなり、上元門外の三軒屋に泊す

(山田栴二日記)



参考までに、この14日に南京城ではどうなっていたかを38連隊戦闘詳報から抜粋する。この日から3日間、城内掃討が本格化した。17日の入城式に間に合わせるためである。

なお、この第30旅団(33連隊+38連隊)は第16師団の隷下であり、11日の飯沼参謀長日記に登場する山田旅団長への命令「〜16D佐々木旅団の進出を容易ならしむべき」の相手である。

歩兵第三十旅団命令 十二月十四日午前四時五十分 於中央門外
一、敵は全面的に敗北せるも尚抵抗の意思を有するもの散在す
二、旅団は本十四日南京北部城内及び城外を徹底的に掃蕩せんとす
三、歩兵第三十三聯隊は金川門(之を含む)以西の城門を守備し下関及び北極閣を東西に連ぬる線及び城内中央より獅子山に通ず道路(含む)城内三角地帯を掃蕩し支那兵を撃滅すべし
四、歩兵第三十八聯隊(第二大隊欠)は金川門(之を含まず)以東の城内及び和平門中央大学農林を連ぬる線以西地区を掃蕩し支那兵を撃滅すべし
五、歩兵第三十八聯隊第二大隊は玄武湖及び紫金山の中間にある山岳地帯(之を含む以北の地区)を掃蕩し支那兵を撃滅すべし
六、各隊は師団の指示があるまで俘虜を受付くるを許さず
七、
八、
九、
一〇、
一一、余は中央門外にあり

支隊長 佐々木少将

南京城内戦闘詳報 第12号 昭和12年12月14日 歩兵第38連隊
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image-j/C11111938000





《12月15日》


この日の飯沼参謀長日記にいくつか重要な情報が書かれている。

1)中支那方面軍参謀長(=塚田攻少将)が湯水鎮に来て「入城式を17日に実施する」と主張し、上海派遣軍としては「早くても18日」と意見が衝突してる。
2)山田支隊の俘虜が1万5〜6千あり、「とりあえず16師団に接収させる」と書いている。
3)松井・中支那方面軍司令官が来て、「入城式は17日で決定」と伝えられる。
4)山田支隊は19日に南京から渡河予定であることを認識している。
5)長参謀(飯沼参謀長の部下、悪名高い長勇)が16師団と連絡した結果、城内掃討の関係上、入城式は20日以後にして欲しいと申し出があり、改めて中支那方面軍に事情説明させることにした。それで、また中支那方面軍参謀長(=塚田攻少将)に話したが聞く耳持たず。


◇十二月十五日 霧深し 快晴

(中略)方面軍参謀長来部の話し
以上の件及方面軍が入城式を十七日と主張しあり 軍としては早くも十八日を希望の旨申上く。
殿下は入城式に就ては無理をせぬこと、外国人に対し入城式の日時を知らせざること、防空を十分にすべきことを注意せらる。

山田支隊の俘虜東部上元門附近に一万五、六千あり 尚増加の見込と、依て取り敢へず16Dに接収せしむ。

四・〇〇頃松井方面軍司令官湯水鎮着、殿下に代り報告に行く。此時入城式は十七日に決定された旨聞く。

13Dの状況、本日二・〇〇頃先頭の58i主力は揚州西方を前進中、第二梯団は揚州に入らんとするところ、第三梯団は渡江を終り前進中、師団司令部は明日渡江、(電話本日開通)
六合占領部隊58iの一大 山砲一中基幹は明日小発二十にて出発明日午後六・三〇「クリーク」入口に到着「クリーク」を六合に向う予定。山田旅団(三大基幹)は十九日南京にて渡江。

長参謀16Dと連絡した結果同師団にては掃蕩の関係上入城式は二十日以後にせられたき申出ありと重ねて方面軍に事情を説明せしむ。(3D、兵キ、軍イ、獣イ部長天王寺附近にて約五百の敗残兵に襲われ安否不明とか。草場少将紫金山に登りたる時「トチカ」内より残敵出て来りたるとかの事例あり)。尚一〇・三〇過方面軍参謀長を訪ひ話したるも頑として変更の意思なし。

(飯沼守日記)



この記事として最重要なのは、上述の2項。

原文はこうなっている。

「〜依テ取リ敢ヘス16Dニ接収セシム。」


この言い回しについて、手元の辞書を引いてみると次のようになっている。

せっしゅう 【接収】
(名)スル
国家権力などが,強制的に国民の所有物を取り上げること。「建物を―される」

しむ
(助動)活用しめ • しめ • しむ • しむる • しむれ • しめよ • (しめ)
動詞および一部の助動詞の未然形に付く。
① 使役,すなわち,他にある動作をさせる意を表す。しめる。せる。させる。

(スーパー大辞林)


辞書の説明を用いて意訳するとこうなる。

「〜よって、とりあえず、16師団に強制的に取り上げさせる。」


なにを取り上げさせるのか。もちろん山田支隊が抱えている捕虜を、である。あるいは、捕虜がいる収容所丸ごとと捉えても良い。

接収という単語からは、建物=収容所を指しているとした方が文面の通りは良い。しかも、山田支隊は19日に渡河して南京を去る予定になっているから、収容所その他もどうせ手放す事になる。

ただ、そこは接収する16師団と、引き渡す山田支隊が相談して決めれば良いことで、上級司令部の飯沼参謀長にとっては細かい引渡し方法はどうでも良いことである。


飯沼参謀長はこの言い回しを多用している。例えば冒頭の12月9日。

芳村参謀より13Dを先に鎮江にて渡河せしむとの電報来る。変更せしむる要を認めず認可せり。

現代語訳すれば、「芳村参謀から13師団を先に鎮江で渡河させると電報が来た。変更させる必要がなかったので認可した。」となる。





なお、飯沼参謀長の上官は上海派遣軍司令官の朝香宮鳩彦王中将である。南京戦の関係者で「宮様」として出てくるのはこの方である。

ただ、この宮様、皇族というだけでなく実は着任間もない。

十二月四日(晴)
朝香宮殿下派遣軍司令官親補(欄外)
此夜東京より電報あり、予の派遣軍司令官兼任を解き、新に朝香宮殿下同司令官に親補せらるるを知る。寔(まこと)に恐懼感激の至りなり。依て直に之を全軍に通報すると共に、殿下の御在任中警備並に御居住の安全に付、出来得る限りの措置を講ずべく夫々に研究を命ず。

(『松井石根大将の陣中日誌」/ 田中正明)

そして実際の着任は12月6日だったと松井大将は日記に書いている。


従って、この時期の上海派遣軍を実質的に取り仕切っていたのは飯沼参謀長だったと思われる。

その飯沼参謀長が、山田支隊が抱えている捕虜を16師団に引き取らせる、と日記に書いていたことが重要である。




この日、山田旅団長はこう書いている。簡素な短文ながら、この記述も重要な鍵になる。

◇十二月十五日 晴
捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
皆殺せとのことなり
各隊食糧なく困却す

(山田栴二日記)


この時、上海派遣軍司令部はまだ湯水鎮にいる。上の飯沼参謀長日記も参照。松井方面軍司令官も湯水鎮に来たところ。

湯水鎮は、南京城の中山門から東に約22km。冒頭の地図のさらに東側の枠外。この付近。


ということは、本間騎兵少尉の訪問先は上海派遣軍司令部ではない。飯沼参謀長の「〜依て取り敢へず16Dに接収せしむ。」と併せて考えれば、訪問相手は南京にいる16師団と思われる。

中島今朝吾日記(16師団長、陸軍中将)を見ると(南京戦史資料集 I )、12月15日前後は16師団司令部は南京城内(中央飯店)にいる。


つまり、飯沼参謀長が捕虜を「16師団に引き取らせる」というから、早速その16師団に引渡し手順の相談に行ったのに、受け取りを拒絶された、という展開に見える。

「皆殺せとのことなり」という言い回しも、指揮命令系統に沿ったものとは違う種類の発言だったことを示唆している。山田支隊は13師団だから、16師団の命令を受ける立場にはない。




さらに、この15日には憲兵将校が来たという。

鈴木明氏は、山田支隊に「捕虜を始末せよ」と命じたのは長勇ではないか、との自身の推測を書いた続きにこう書いている。

この日、軍司令部の方から「捕虜がどうなっているか?」と憲兵将校が見廻りに来た。山田少将(当時)は自分で案内して、捕虜の大群を見せた。「君、これが殺せるか」と山田少将はいった。憲兵将校はしばらく考えて「私も神に仕える身です。命令はお伝えできません」と帰っていった。

(『「南京大虐殺」のまぼろし』 / 鈴木 明)


軍司令部という表現からは、上海派遣軍司令部と解釈できる。飯沼参謀長が16師団に接収させると日記に書いているのに、その捕虜を「始末せよ」という命令を携えてきたという文脈でこれを書いているのである。にも関わらず、山田旅団長に言いくるめられて、命令を伝えずに帰ったというのだから、奇怪である。そもそも憲兵が命令伝達役を務めるとは思えない。引用箇所の冒頭の文にあるように、単に「見廻りに来た」にすぎないのではないか。

なお、長勇参謀が虐殺命令を出したのか、という問いかけに対して、上海派遣軍参謀・大西一大尉はこう答えている。長勇参謀は参謀部第二課の課長であり、大西大尉も第二課である。つまり、直属の上官である。

第十三師団が捕虜を捕まえた時というのは、上海派遣軍の司令官に朝香宮殿下を迎えたばかりで長参謀も相当気を使っていました。そういう時ですから、いわれるような命令を出すはずがありません。

(上海派遣軍参謀・大西一大尉の証言/『「南京事件」日本人48人の証言』 / 阿羅健一)





《12月16日》


この日、捕虜収容所では昼頃に火災が発生し(夜という証言もあり)、それを受けて一部の捕虜(全体の1/3という証言もあり)を魚雷営に連行し、結果的に射殺することになった。


飯沼参謀長としては、翌17日の入城式が最大の懸念のようである。16師団は、入城式が17日では安全に責任を持てないとまで言ってゴネている。しかし、既に17日決行で命令が出ているし、再三延期を上申しても聞いてもらえないし、断固拒絶するほどでもなさそうだから用心しながらやることにしたという。

◇十二月十六日 晴天
午後一・〇〇出発入城式場を一通り巡視三・三〇頃帰る。多少懸念もあり、長中佐の帰来報告に依るも16D参謀長は責任を持ち得ずとまで言い居る由なるも既に命令せられ再三上申するも聴かれず、且断乎として参加を拒絶する程とも考えられざるを以て結局要心しつつ御伴することに決す。
長中佐夜再び来り16Dは掃蕩に困惑しあり、3Dをも掃蕩に使用し南京付近を徹底的にやる必要ありと建言す。

(飯沼守日記)



山田旅団長は、「相田中佐を軍に派遣」と書いている。軍というから訪問先は湯水鎮の上海派遣軍司令部と思われる。

また、派遣した人物の階級にも意味がありそう。15日は、16師団による捕虜の引き取りは上から話が行っているはずだったから、あくまで実務的な「連絡」で済むと考えて本間騎兵「少尉」を派遣したものと思われる。ところが、予想外に16師団に拒否されたので、16日は山田支隊「副官」である相田「中佐」を「打合わせ」のため上海派遣軍司令部に派遣した。どういう展開になるかわからないので、山田旅団長の代理として交渉可能な人物を送り込んだものと見える。

ただ、その結果はここには書いていない。

◇十二月十六日 晴
相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合わせをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり、砲台の兵器は別とし小銃五千重機軽機其他多数を得たり

(山田栴二日記)





《12月17日》


この日は、午後1時過ぎからは入城式が挙行された。

◇十二月十七日 快晴、夜風強し
本日の入城式には附近飛行場を爆撃したる後六、七十機にて空中守備状態に入りたる場合の軍命令を下さる。
午後一・三〇より入城式、特に暖き快晴実に麗らかに終了す。代表部隊の堵列閲兵、国民政府に於ける国旗掲揚式、遥拝式、万歳三唱、御賜の御酒にて乾盃、海軍司令長官の発声にて万歳三唱。午後三・三〇頃帰る、先ず第一日の無事に済みたるを喜ぶ。
芳村参謀より天谷支隊及13D主力の渡江に関する件の報告を受く。

(飯沼守日記)



山田旅団長は特に触れていないが、捕虜収容所では残った捕虜を昼間から縛り上げる作業が続き、夕方頃から草鞋峡の現場に連行開始し、結果的に深夜にその多数を射殺することになった。

◇十二月十七日 晴
晴の入城式なり
車にて南京市街、中山陵等を見物、軍官学校は日本の陸士より堂々たり、午後一・三〇より入城式祝賀会、三・〇〇過ぎ帰る
仙台教導学校の渡辺少佐師団副官となり着任の途旅団に来る

(山田栴二日記)





《12月18日》


13師団は滁県に迫りつつあったという。

◇十二月十八日
本日式後光華門の戦跡御巡視の筈なりしも寒風激しく迷惑すべしとて中止せらる。
13Dは正午頃滁県に近く迫りつつあり(水口鎮にて約四〇〇の敵を撃破して其西方に進出)。

(飯沼守日記)



山田支隊では前夜の草鞋峡の事件を受けて、未明から応援要員も出して遺体の片付け作業を行なっている。

◇十二月十八日 晴
捕虜の仕末にて隊は精一杯なり、江岸に之を視察す

(山田栴二日記)





《12月19日》


13師団は滁県を攻撃中という。

◇十二月十九日 今日は再び暖き快晴となる。
13Dは滁県攻撃の為展開中なるものの如く昨日の位置と大差なし。

(飯沼守日記)



山田支隊では、事件現場の遺体片付け作業が続き、渡河を延期したという。

◇十二月十九日 晴
捕虜仕末の為出発延期、午前総出にて努力せしむ
軍、師団より補給つき日本米を食す
(下痢す)

(山田栴二日記)





《12月20日》


13師団は滁県を占領したという。

◇十二月二十日 薄曇
13Dの116iは一昨日既に滁県北方に進出、本朝師団の先頭部隊は滁県占領、午後には北島参謀同地飛行場に着陸連絡し来る。

(飯沼守日記)



山田支隊はやっと渡河して13師団本隊に合流すべく進軍し始めた。予定の1日遅れ。

◇十二月二十日 晴
第十三師団は何故田舎や脇役が好きなるにや、既に主力は鎮江より十六日揚州に渡河しあり、之に追及のため山田支隊も下関より渡河することとなる
午前九・〇〇の予定の所一〇・〇〇に開始、浦口に移り、国崎支隊長と会見、次いで江浦鎮に泊す、米屋なり

(山田栴二日記)





《12月21日》


この日、飯沼参謀長は幕府山事件を「噂」として聞いたと書いている。まともな報告は上がっていないということである。

◇十二月二十一日 大体晴
荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒がれ遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し且相当数に逃げられたりとの噂あり。上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも(昨日)遂に要領を得ずして帰りしは此不始末の為なるべし。
荻洲部隊は本日大体所命線に部隊を配置し且夫々一部を更に前方要点に出したるが如し。

(飯沼守日記)


そこに登場する榊原参謀とは、『南京戦史資料集 I 』(P696)を見ると上海派遣軍司令部参謀部第三課の榊原主計少佐である。

その第三課について、阿羅健一氏はこう説明している。

上海派遣軍司令部には参謀が十五人おり、三課に分かれていた。一課は作戦、二課は情報、三課は後方担当である。
(中略)
第三課は補充、通信が主な任務で、捕虜についても担当する。寺垣中佐が課長、櫛田、榊原、北野、佐々木の各参謀がおり、榊原(主計)少佐が主に捕虜の担当をしていた。

(『「南京事件」日本人48人の証言』 / 阿羅健一)


そうすると、捕虜担当である榊原主計少佐が、捕虜を上海に送って労役に就かせるために調整をしていたのに、状況がよくわからないまま不首尾に終わったということになる。




また、上海派遣軍参謀副長・上村利道大佐も「聞くところによれば」として幕府山事件に触れている。

◇十二月二十一日 晴
N大佐より聞くところによれば山田支隊俘虜の始末を誤り、大集団反抗し敵味方共々MG(=機関銃)にて撃ち払い散逸せしもの可なり有る模様。下手なことをやったものにて遺憾千万なり

(上村利道日記(上海派遣軍参謀副長・歩兵大佐)/『南京戦史資料集 II 』)

ちなみに阿部輝郎氏は『南京の氷雨』の中で、N大佐とは参謀・西原一策大佐のことらしい、と書いている。




《幕府山事件発生の真相》


板倉由明氏はこう書いている。

飯沼日記に見るように、捕虜担当の第三課参謀・榊原主計少佐は二十一日に第十三師団に行って空しく帰っている。榊原氏の証言(註4)では、捕虜は上海に送って労役をさせることにして、受け入れ準備のため上海に出張し、帰って捕虜受け取りに師団司令部に行ったところ既に殺されていた、という。どうも上海派遣軍司令部では、参謀長、参謀副長、担当参謀のいずれも捕虜の殺害命令を出してはいないようである。むしろ榊原参謀の行動からは、「捕虜を収容する」方針が窺われ、「殺セ」の命令があったとすれば、正規の命令ではなく、参謀(長中佐説が有力)の出した独断命令であった可能性がある。

(註4)一九八三年七月三日、榊原主計氏自宅にて。

(『本当はこうだった南京事件』 / 板倉 由明)


上の書き方だと、板倉氏は榊原主計氏に直接取材しているようだから、『捕虜は上海に送って労役をさせることにして、受け入れ準備のため上海に出張し、帰って捕虜受け取りに師団司令部に行ったところ既に殺されていた』というのは事実と思われる。

ただし、榊原主計少佐が行ったという「師団司令部」を板倉氏は13師団司令部と解釈しているようだが、それは違うだろう。冒頭の図に示すように(そして飯沼日記にあるように)13師団本隊は揚子江の北岸を西進し滁県を占領しつつある。

飯沼参謀長がとりあえず16師団で捕虜を接収するよう指示していることと併せると、榊原主計少佐は南京にいる16師団司令部に捕虜受け取りに行ったものと思われる。ところが、16師団ではもちろん受け取っていないから、話が噛み合うはずがない。

飯沼日記ではこれを21日の記述として(昨日)と書いているから、20日の出来事である。(ここも板倉氏は間違えている)
20日となれば、山田旅団長日記によれば午前10時から渡河開始している。榊原主計少佐が南京の16師団司令部に捕虜受け取りに行って「???」となっている頃には山田支隊は南京から去りつつあった。

それから、長勇命令説も違うだろう。上述したように直属の部下であった大西参謀が違うと言っている。

そうではなく、16師団の受取拒否がこの事件の主因と私は見る。上述したように、15日の山田旅団長日記がそれを示唆している。




整理するとこうなる。

1)山田支隊が1.5万前後の捕虜を抱えた。
2)上海派遣軍・飯沼参謀長は、山田支隊は19日に渡河予定だから、その捕虜をとりあえず16師団で引き受けるよう指示した。
3)その飯沼参謀長、上層部(中支那方面軍)からは17日に入城式決行と申し渡され、城内掃討を担当している16師団からは無理だから20日以後にしてくれと言われ板挟みになっている。
4)その16師団、城外東方と下関、そして城内北半分を掃討区域とし、無理だと言ってるのに17日の入城式に間に合うように掃討を完了させろと言われてストレスがかかっている。
5)16師団、その上さらに1.5万とされる捕虜を引き受けろと言われて、山田支隊に「そっちで始末してくれ」とこれを拒絶。
6)山田支隊、飯沼参謀長が捕虜を16師団に引き取らせると言ったのに引き受けてもらえず、上海派遣軍司令部に直談判してもラチがあかず、渡河予定の19日も迫ってきて二進も三進もいかず、16日には収容所で火災も発生し最後の手段として夜間にこっそり解放を画策。そして失敗。
7)上海派遣軍参謀・榊原主計少佐、捕虜を上海で使役すべく調整に赴いていたのに、戻ってきたらなぜか捕虜は殺害または逃亡され、いなくなっていた。
8)山田支隊、飯沼参謀長からの「捕虜を16師団に引き渡せ」の指示に背く形でこっそりやって失敗する結果になったので、正式な報告も出さずうやむやに。


という流れに見える。


山田支隊は13師団司令部に中洲への「島流し」について了解を取っていたという話も、上の流れを裏付ける。日時ははっきりしないが状況的には、本間騎兵少尉を南京(おそらく16師団)に派遣して受け取りを拒否された15日か、相田中佐を上海派遣軍司令部に派遣し収容所で火災が生じた16日ではないかと思われる。

昭和五十八年に筆者が聴取した、当時第十三師団作戦参謀・吉原矩中佐の証言によれば、鎮江で渡河準備中の師団司令部では、「崇明島」 に送り込んで自活させるよう命じたという。崇明島は揚子江河口の島だが、草鞋洲との記憶違いとすれば、正に「島流し」(栗原スケッチの題)である。 「殺害命令は長中佐が独断で出したと言われますが」 と筆者が水を向けたのに対し、 吉原氏が横を向いて、「長はやりかねぬ男です」と言った暗い顔が今も印象に残っている。

(『本当はこうだった南京事件』 / 板倉 由明)


ちなみに、次の記事で紹介したが、砲艦「二見」が14日に草鞋峡水路を啓開作業している際に漂流中の敵兵1名を救助し、翌15日に草鞋州(八卦洲)に解放している。

従って、当時南京にいた日本軍関係者からすれば、もし捕虜を解放するなら八卦洲(草鞋洲)が良さそうだという漠然とした共通認識があったのではないか。幹部なら地図を見るだろうから、その程度は思いつくはず。

《南京事件》南京遡江艦隊の航路
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/8d64ed39331873ebc65aff57791f70f6





もうひとつ背景的な構造があるかもしれない。関係者の階級と陸軍士官学校の年次に注目。

(中支那方面軍)
司令官 松井石根 大将(9期)

(上海派遣軍)
司令官 朝香宮鳩彦 中将(20期)
参謀長 飯沼守 少将(21期)

(13師団)
師団長 萩洲立兵 中将(17期)

(山田支隊・第103旅団)
支隊長 山田栴二 少将(18期、第103旅団長)

(16師団)
師団長 中島今朝吾 中将(15期)


この状況で中島16師団長にいうことを聞かせられるのは、スペック的には松井大将だけである。それ以外は、宮様は別格としても、階級も下の後輩(飯沼参謀長、山田旅団長)から「捕虜を引き取れ」と言われたとしても中島中将が素直にいうことを聞くとは思えない。



結局のところ、こういう高ストレス環境下で、指揮官同士の葛藤も相まって命令も命令として伝達されず、あるいは無視され、部隊間での責任分担や日程も明確化されず、その狭間に落ち込んだ捕虜が不幸を被ったということのように見える。




《さらなる真相》


幕府山事件が発生した真相は上述の通りと推論するが、近年になっても幕府山事件の論争が混迷している理由がいくつかあると考える。

そのひとつは、山田支隊隷下の会津若松65連隊・両角連隊長の説明と、その話を準公式戦記として出している福島民友新聞社が、「捕虜殺害の軍命令があった」というストーリーを堅持していたことである。

そのために、「捕虜殺害の軍命令を出したのは誰か」という犯人探しに論者の関心が集まってしまい、特定個人名まで出てくる有様である。しかし、上述したように、状況証拠的には「捕虜殺害の軍命令」など出ていない。




そこまで考察してから、改めて福島民友新聞社が昭和57年に出した『ふくしま 戦争と人間  1 白虎編』の記述を確認すると、山田旅団長日記の文面が異なっていることに気づいた。下記引用の末尾であるが、訳あって長めに引用する。

非情な軍の命令

(捕虜への食料集めは苦労したという関係者の回想録に続いて)

しかし問題は両角連隊長の回想ノートの次の部分に顔を出す。

《軍司令官の入城式が十七日に行われることになったので、万一にも失態があってはならないから、軍から「捕虜を処置せよ」と第百三旅団長山田栴二少将に命令が出たのである。しかもひんぱんに軍は処置を督促してきた。山田旅団長はこれをがんとしてはねつけた。私もまた山田旅団長を力づけて「処置はまっぴらごめん」と拒否の態度をとった。しかし軍は強引にも命令をもってその処置をせまってきたのである》

処置とは「殺せ」ということらしい。

両角連隊長の回想ノートは続く。

《山田旅団長は涙をのんで私の隊に因果を含めた。いろいろ考えた結果、夜陰に乗じて捕虜を逃亡させるほかはない。それは連隊長である私の胸三寸でどうにでもできることである。私は第一大隊長田山芳雄少佐を呼び、次の命令を与えた。「十七日夜、逃げ残っている捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じ、船にて北岸に送り解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、中国人のこぎ手を準備せよ」――これが私の命令だった》

軍の命令に反し、両角連隊長は解放を決断した。このへんの事情について山田旅団長の日記には次のようにある。

《十五日――捕虜の始末のことで本間少尉を師団に派遣せしところ「始末せよ」との命を受く。各隊食糧なく困窮せり。捕虜将校のうち幕府山に食料ありと聞き運ぶ。捕虜に食わせること大変なり。十六日―相田中佐を軍司令部に派遣し、捕虜の扱いにつき打ち合わせをなさしむ。捕虜の監視、田山大隊長誠に大役なり》

(『ふくしま 戦争と人間  1 白虎編』/ 昭和57年 /福島民友新聞社)


比較のために、偕行社の『南京戦史資料集 II 』掲載の山田栴二日記も並べてみる。こちらは、平成5年である。

◇十二月十五日 晴
捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
皆殺せとのことなり
各隊食糧なく困却す

◇十二月十六日 晴
相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合わせをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり、砲台の兵器は別とし小銃五千重機軽機其他多数を得たり

(山田栴二日記(歩兵第百三旅団長・陸軍少将)/『南京戦史資料集 II 』)


『白虎編』の方が発行は古いが、山田旅団長日記の文面が現代語に置き換えられていることがわかる。それだけでなく、説明的な加筆もされている。
従って、文面から『南京戦史資料集 II 』の方が山田旅団長のオリジナルと判断する。

しかし、むしろ逆に『白虎編』からは、両角連隊長あるいは福島民友新聞社が主張したかったことも読み取れる。

白虎編山田日記では、15日に本間少尉を「師団」に派遣したとある。派遣先が上海派遣軍司令部ではなく南京にいる16師団だと、よりストレートにわかるように書かれている。そして、16日に相田中佐を派遣した先は「軍司令部」、つまり上海派遣軍司令部だと言っている。

その上で、白虎編引用箇所冒頭の「両角連隊長の回想ノート」を読み返すと、意味が通る。

つまり、こういうことである。

1)上海派遣軍・飯沼参謀長は、とりあえず16師団が捕虜を引き取るように指示を出していた。
2)それにも関わらず、16師団は捕虜の引き取りを拒絶したのみならず、逆に山田支隊に捕虜の処刑を頻繁に要求してきた。
3)16師団はその理由として、17日の入城式に万一の失態があってはならないから、とした。
4)16師団の「要求」は13師団隷下の山田支隊にとっては命令ではないから、山田旅団長と両角連隊長はこれをはねつけた。


これでかなり真相に近づいたと思う。


ちなみに山田旅団長は戦後の取材に対しても、“捕虜殺害の軍命令”については固く口を閉ざしていたようである。




《参考情報:『郷土部隊戦記』》


福島民友新聞社の『ふくしま 戦争と人間 』は、昭和53年から5年間に渡って紙面連載されたものを書籍化したものである。これにはその前があり、昭和36年12月から38年12月の2年間連載されたものを再編集したものが昭和39年に『郷土部隊戦記』として書籍化されている。この郷土部隊戦記には、亡くなる2ヶ月前の両角連隊長が序文を書いているなど、両角連隊長史観が反映されたものになっている。(正確には、連載の終盤、書籍化編集作業中に亡くなったとのこと)

この郷土部隊戦記は武勇伝調で物語としては良いのだが、他の史料と読み比べると記述の精密感に欠ける。そのため、この記事では考察の材料にはしないが、両角連隊長史観での認識を知るには良いかもしれないので、該当箇所の文面を引用し、併せて気づいた点を示す。


捕虜を殺せの軍命令を蹴る

幕府山砲台で得た約八千人の捕虜の処置に困った山田旅団長は、その日のうちに本間騎兵少尉を南京の軍司令部に派遣して指示を仰いでいる。ところが軍司令部の考えは「みな殺せ」という驚くべき意向だった。日本軍でさえも食うや食わずの進撃を続けて、各隊とも食糧に欠乏している矢さきで、捕虜の給養などは思いもよらなかったろうし、さらに軍司令部は十七日の入城式を前に不穏な事態の発生を心配したらしい。それにしても戦闘中ならいざ知らず「無抵抗の捕虜八千人をみな殺しにしろ」には山田旅団長も驚いた。両角連隊長と相談してその日は砲台の付属建て物にとりあえず収容したのである。

(中略=収容所の火事の話)

翌十六日、山田旅団長は副官相田中佐を軍司令部に派遣して“捕虜を殺すことはできぬ。軍みずから収容すべきである”とかけ合わせたがやはりダメだった。将校だけは、軍司令部に連れてゆかれたが、そのごの消息は不明で、これは取り調べのうえ殺されたものとみるほかはない。その日、こんどは逆に軍司令部から憲兵将校(階級、氏名不詳)が旅団司令部に調査にやってくる始末だったが、山田旅団長はこの若い憲兵将校をじゅんじゅんとさとし、かえって
「閣下のお考えはよく分かりました」
と帰っていったのだ。しかし最後にはついに
「捕虜は全員すみやかに処置すべし」
という軍命令が出されたのである。通信兵が電話で鉛筆がきで受けた一片の紙きれにすぎないのだが……。

(『郷土部隊戦記』/福島民友新聞社)



・「十七日の入城式を前に不穏な事態の発生を心配」したのは、飯沼参謀長日記を通して見れば16師団だろう。

・本間騎兵少尉と相田中佐の派遣先が同じ「軍司令部」という単語で書かれているが、よほど調べてからでないと実は両者の派遣先が違うことに気づけない。

・相田中佐を派遣したが「やはりダメだった」という認識がひとつの転換点かもしれない。ここから急遽「島流し」案を考えたのだろうか。

・憲兵将校が「捕虜殺害の軍命令」と関連付けられているところを見ると、16師団から派遣されてきたのかもしれない。師団には憲兵分隊がいるはず。

・引用末尾の「電話」という単語が正確なら相手は南京城近隣ではないか。つまり、16師団司令部との通話。近隣拠点は通信隊が有線でつなぐから電話が通じる。遠ければ文面を暗号化して無線で送信し「電報」と称する。(12月9日の飯沼参謀長日記参照)


等々、気づく点は多いのだが、なにしろ記述に精密感がないので細部はあまりアテにならない。参考になるのは物語の要素のみ。




《改版履歴》


2021.02.26 新規
2022.09.17 タイトル等微修正
2023.07.22 《12月13日》の項に「邵家塘」の場所を追記




《関連記事》


《幕府山事件》概要編
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/4997887cce0ec9d9cc7e17f92562d37c



★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531







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